4.未来の話
わたしの言葉を受け止めつつ、ヨダカはしばらく何も言わなかった。
その表情を見ようとしたけれど、止めた。何となく、この目で見てしまうのが怖くなった為だ。代わりにその胸元に寄り添う。
温もりと心音を聞いていると、ヨダカはやっと口を開いた。
「カナリア」
決して鋭さを含まない声が、わたしの耳元をくすぐる。
「こんな私に縋ったって、もう何もないのよ」
――そういうことじゃない。
そう否定したいのは山々だったけれど、生憎、ヨダカは聞いてくれそうにもない。わたしは黙ってヨダカに縋りつき、その温もりをさらに貪った。
わたしの背を軽く叩きながら、ヨダカは獣を宥めるように囁く。
「これは命令。あなたを捕えて保護した私からの最期の命令。ライチョウに誓いの唄を捧げ、何もかも忘れてあの歌鳥の青年と穏やかに過ごしなさい」
「いやだ……」
辛うじて否定出来た。
「そんな命令、聞きたくない」
「どうして? そう悪い事じゃないと思うわ。ウグイスとかいうあの青年はきっと優しい人でしょうし、ライチョウだって何も意味も無くあなたに刃を向ける事はしないはずよ」
「それでも嫌なの」
檻の中に響くほどの声でわたしはそんな未来の訪れを拒絶した。
かつて、わたしはこの場所で自分に与えられた未来の全てを呪い、拒んだ。その時によく似ているけれど、今度は今度で全く違う。
これまでずっと拒んできた未来へ、やっと足を踏み出す決心がついたというのに、どうしてこんな事になってしまったのだろう。
――神様なんてきっといないんだ。
わたしは世界を呪っていた。
「どうして、カナリア。どうしてあなたは私の言う事を聞いてくれないの?」
――そんなの。
「あなたを見捨てられないからに決まっているじゃない」
引いてはいけない。諦めてはいけない。
ここで負ければわたしは一生後悔する。死ぬまで苦しみ、希望なんて見出せないまま年を重ねていくかもしれない。
そう、これは別にヨダカの為であるわけではない。わたしはわたしの為に、ヨダカだけは守りぬきたかった。
見上げた先で、ヨダカの夜色の双眸とまともにぶつかりあう。
細い指先でわたしの頬に流れる雫をそっと拭い、彼女はその目を細め、傷ついた心全てを温めるかのような表情でわたしを包みこんだ。
「駄目よ、カナリア」
それでも、彼女が口にするのは拒絶。
言葉だけでわたしの心を更に抉っていく。
「未来を捨てては駄目。そう難しい事じゃない」
「だったら、あなたも生き残る選択をして。破滅の道ではなく、苦しくても、醜くても、生き延びる選択をして。お願い」
「私にハヤブサと結婚しろというの?」
冷たい声色でヨダカは言った。
「私からカケスを奪った女の義妹になって、一生操り人形にされなさいというの?」
その表情は先程とさほど変わっていないけれど、直に伝わる感情がどんどん鋭いものになっていくのが嫌でも分かった。
――確かに。
確かに、わたしがヨダカに言っているものは、そういう事に聞こえるだろう。むしろ、そう聞こえるように振る舞ってきた。他ならぬライチョウの目があったせいだ。ライチョウに疑われずにヨダカと二人きりになるには、そうするしかなかった。
きっとライチョウを出し抜けているわけはないのだけれど。
それでも、ここにはもうライチョウはいない。わたしとヨダカを二人閉じ込め、地上へと去ってしまっている。
もう、彼女の影におびえる必要はないのだ。
「そうじゃない……」
怯えはすぐには隠せない。
どうしても震えは止まらず、戸惑いも消えなかった。
わたしは唄の力だけで辛うじて身を守る歌鳥なのだから。
爪も牙も持たず、要領の良さだけが武器となるような弱き存在。疑い、考え、出し抜き、汚らしい塵や埃で身体を穢しながら生き抜くしかないような種族。
そんな血しか引かないわたしにとって、恐れを消すなんて事は簡単でない。
それでも、わたしはヨダカに縋りながら言った。
「そうじゃないの。ヨダカ。そうじゃないの」
自分の心臓が音を立てているのが分かる。
全身を滴る汗もまた、怯えの象徴だろう。頑なに決意を固めたはずの自分の心の何処かが、この選択によって消えるかもしれない権利に名残を惜しんでいる。
その迷いを振り払うつもりで、わたしはぎゅっと両目を瞑った。
暗闇が優しくわたしを包みこみ、ヨダカの温もりと鼓動の伝わりがより鮮明になった。その感触に身をまかせながら、わたしは自分の願いを確かめた。
何を望み、何を捨てられるのか。
それを間違えば、後悔の影は一生纏わりついて来るだろう。
――そうならないために。
しっかりと両目を開いて、決意と共にわたしはヨダカを見つめた。
「ヨダカ、あのね、あの――」
「駄目よ、カナリア」
再びその言葉を口にし、ヨダカは指でわたしの唇を制した。
「その先は言っては駄目。お願い、言わないで……」
その声に存分に含まれているのは、他ならぬ怯えと迷いだった。
気付いた途端、わたしは驚きを感じた。
ヨダカに捕まってからもう随分と経つ。これまで何度もヨダカの弱みは観てきたのだし、そもそもわたしを捕まえたのだってその弱さから生じる恐れを解消するためだとわたしは何度も聞かされてきたのだ。
それなのに、わたしは心の何処かで、ヨダカに対して絶対的な強さを見出し、それを盲信していたのだ。
それを今になって実感した。
守っていかなければと何度も想った。
ヨダカの兄が殺され、世の中が革命の松明に燃やされていくのを感じながら、ヨダカを守らなければと必死に想ってきた。
それでも、心の根本的な部分で、わたしは彼女に頼りきっていたのだ。
それを今になって痛いほどに実感した。