3.没落
しばらくの間、わたしはヨダカの温もりを心の底まで堪能していた。
ヨダカは拒絶する事も無く、ただじっとわたしを受け容れてくれている。その夜色の眼差しに含まれているものを確認するほど、今のわたしに余裕はなかった。
炎の精霊の揺らめきと音が、この静かで冷たい空間を飾っている。
その景色の一部と同化してしまうかというほどの沈黙に身を委ねていると、やがて、ヨダカの方が口を開いた。
「カナリア」
ヨダカの手に身体を委ね、わたしはその目を見つめた。
声は戻っているが、その顔に疲労は隠せていない。そっと瞼を伏せ、微笑みを浮かべると、信じられない程の弱さが垣間見えた。
「あなたが生きていてよかった」
力なく言われ、わたしは息を飲んだ。
カケスは死に、屋敷にいたはずのコマやムク等もいない。多くは逃げ出したのだと信じたいが、果して血と暴力に飢えたあの松明の狼たちがそんな事を許しただろうか。
冷静でいても尚、獣のように鋭い眼光で世界を睨むライチョウの姿が頭を過ぎった。
恐ろしくて訊ねる事も出来ない。
「あの女の言う通り、私にはもうあなただけだった。それもさっきまでのことよ」
「ヨダカ」
不満を顕わにわたしはヨダカを見上げた。
かつての女主人。美しい姿は変わらずとも、もう彼女にあった財産も地位も遠い過去と共に消え去った。それでも、わたしの気持ちは変わったりしない。彼女こそがわたしの主人である事は変えられない。
「あなた以外なんて嫌なの。幾らあなたの命令でも、自分の気持ちに嘘はつけない。あなた以外の人、それも、カケスを殺した女のものになるなんて嫌なの」
感情が溢れだし、わたしの中で混乱を招こうとする。
それに耐えつつ、あとはただ眼差しだけでヨダカに訴えた。ヨダカはというと、双眸に浮かばせる感情を変えずに、ただわたしを見つめていた。
カケスにはしなかった目だ。同胞だとちっとも思っていない目だ。
「あなたと契れば、カケスは死ななかったって思う?」
静かに問われ、わたしは戸惑った。
何と答えるべきかすぐには分からず、口籠ったまま言葉を発せない。わたしの目は恐らく不満の色がすっかり引っ込み、その代わりに困惑が一杯に広がっている事だろう。
それを察してか、答えを待たずにヨダカは言った。
「あの女は剣士で、私は違う。あなたを失えば同じ事だったわ。いえ、そうでなくとも、カケスはきっと私を追い詰める為だけに命を奪われていたでしょうね」
ヨダカは他人事のようにそう言った。
涙が浮かんでこないにも関わらず、その心は泣いているのだとわたしには分かった。枯渇した池のようなものだろう。わたしの背を撫でつつも、そこにわたしの求めるような愛情は籠っていない。
ヨダカの心は死んでしまったのかもしれない。
カケスと共に滅んでしまったのかもしれない。
だが、だったら何だと言うのだろう。だからといって、わたしは自分の意思を蔑ろにはしたくない。ヨダカの服を両手で掴み、わたしは必死に身を寄せた。
「あなたはそんな女の下にわたしを追いやるつもりなの? 憎き相手の元にわたしを押し付けて、自分一人遠い場所へいってしまうつもりなの?」
冗談じゃない。
今一度、見上げてみても、やはりヨダカの表情は変わっていない。それでもわたしは訴えた。その眼差し、その瞳に訴えかけた。
「わたしはどうなるの? わたしの気持ちはどうなるの? あなたがわたしに生きて欲しいのなら、わたしだってそうなのに――」
嗚咽が漏れ、息が苦しくなる。その苦しみから解放されたくて、わたしは頭を振った。両目を瞑ると宙にでも放り出されたようだった。終わりの見えない感情の苦しみが辛くて、頬を流れていく涙にも構っていられない。
そんなわたしの遅れ毛を撫でつけながら、ヨダカは耳元で囁く。
「あなたは歌鳥だから」
甘みを少しだけ取り戻した声で、そんな辛みの含まれた言葉を作る。
「私とは違う。自分の意思で此処に来たわけではなく、私が無理矢理捕まえただけ。そんなあなたを解放するのは私の責任でもある。私はね、自分のプライドの為にペットを道連れにするような人間じゃないの」
震えもしないその声に、わたしの方が震えていた。
頭の中をスプーンで抉られているかのような苦痛が生まれたけれど、その言葉を真に受けて屈するつもりはなかった。
その証拠に、ヨダカは泣いている。声は震えずとも、わたしを撫でる手が震えている。
わたしは自分の涙を拭い、ヨダカに強い視線を送った。
「あなたはこれからどうするの?」
ライチョウは殺す気がないと言っていた。
簡単に殺すことを躊躇うような利用目的があるのだろう。だが、恨んでいる相手に利用されるくらいならば、ヨダカは死を選ぶだろう。
無論、そんなヨダカの策略もライチョウはお見通しであるらしい。
このままでは堂々巡りだ。お互いの忍耐の勝負。
わたしは不安だった。牢獄の中に危険なものはない。けれど、危険なものが無いからと言って、危険なことが起きないわけではない。
今のヨダカの心配事はわたしの今後だと言っていた。
では、わたしが間違いなくライチョウに引き渡されるとなった時、心配事から解放されたヨダカはどうするのか。
嫌な予感しかしなかった。
「――どうもしないわ」
そう言ってヨダカはわたしから目を逸らす。
その先には何もない。あるとすれば、彼女を置いて黄泉へと旅立ってしまったあらゆる人物の面影くらいのものだろう。
その姿は手を放せば消えてしまいそうなくらいに儚い。
必死に彼女の身体を掴み、わたしは訴えた。
「お願い、ヨダカ。死なないで……」
温もり、肌触り、心臓の音、呼吸、汗の匂い、涙の味、全てが混ざり合い、わたしの全てを混沌に導く。
「これ以上、わたしを一人にしないで」
ずっと苦しかった。カケスが死んでから、ずっと一人だった。
ウグイスは優しくしてくれるし、ライチョウもきっと責任を果たす人物だろう。それでも、彼らがカケスを殺したのには変わりないし、何よりも、わたし自身の感情が付いて来てくれないようだった。
ヨダカが一人だと言うのなら、それは違う。
わたしはこんなにも傍に居るのだから。
それでも、こんなにも想っていても、わたしの想いが伝わるのには、まだまだ時間がかかりそうだった。




