2.支配者
檻の前で立ち止まると、ライチョウはわたしとヨダカの姿を見比べた。
すぐに開けてくれるような心優しい女ではない。その事は充分に分かっていたけれど、反抗心など見せても為にならないと分かっているので、わたしもまた何の表情も浮かべないように意識してライチョウに視線を返した。
ライチョウはそんなわたしを見ると、手を伸ばし、その姿からは想像も出来ないほどの力でわたしの身体を引き寄せた。
「さっき、ハヤブサから聞いた」
淡々とした声でライチョウは言う。
向けられているのは、檻の中で蹲るヨダカに対してだ。
「君がいいと言うのなら、私は遠慮しないで貰うつもりだ。後はこの子の心次第だ。だが、そう長くはないだろう」
ぞわりとした言葉に思わず寒気がした。すぐにでもこの女から離れたくなったが、身体は全く動かなかった。戦いなど知らないわたしを力で支配する等、この女には驚くほど容易いことなのだろう。
そんなわたしの内心にも構わず、彼女は左手で鍵と共に持っている刃を地面に突きさす。
こんな時でも持っているのは、これまできっと想像も出来ない程の危険が身を襲ってきたからなのだろう。
「――あとは」
狼のような目で、ライチョウはヨダカを流し見る。
「ヨダカ。君自身の事だ」
わたしの身体を離す事も無く、その視線だけがヨダカの心を捕えようと強められているのが間近でよく分かった。
「姫様よ、君はどうやら兄や愛した者のいる場所へと逃げたいらしいな」
牙を剥くようにライチョウは言う。
「その為に弟との婚姻を拒み続け、私を怒らせて首を刎ねられたがっている。私もハヤブサもそう捉えているのだが――」
そう言いかけ、ヨダカの表情を見ると、ライチョウは笑みを浮かべた。
「なるほど、大して間違ってはいないらしい」
ヨダカの姿を見てみれば、先程よりも具合が悪そうに見えた。
此処はきっと冷えるのだろう。閉じ込められているだけでも身体を壊すというのに、自分を捕え、愛する人を殺した憎むべき人と睨みあうのは、さぞ力を使う事に違いない。
それを分かっているらしく、ライチョウはその心に更に攻め込む。
「君の兄を殺した革命家なら、きっと君の思う通りに動いただろうな。だが、私は違う。君よりも単純に長く生きているわけじゃないからね。君が守りたいのはこのカナリアの今後のみで、カケスとやらを殺した女の義妹になるくらいなら死を選びたいのかもしれないが、そうはいかない」
ヨダカは口を結んだまま、わたしからも目を逸らす。
毛布を掴む手が震えている。寒さだけのせいではないだろう。その夜色の双眸から涙を流す事がないのは、彼女がそれだけ強がっているせいだろう。
「――約束して」
やがて、ヨダカがやっと口を開いた。
「カナリアを苦しめず、大事にしてくれるとあなたの口で約束して」
その声を聞いた途端、身体が震えた。
こんなの、あんまりだ。まるで、わたしに意思が一切ないかのようにヨダカはライチョウにだけ懇願しているのだ。そんなの、酷すぎる。
そんな思いが爆発して、ライチョウが何か言う前に気付けばわたしは叫んでいた。
「ねえ、ヨダカ!」
だが、続く言葉は出てこなかった。
ヨダカの視線ですぐに冷静さを取り戻したからだ。ライチョウの視線がふとわたしに向いたのを感じ、わたしは必死に思考を巡らせた。
そうしてようやく、続く言葉は生まれた。
「お願い、自分を大切にして。生き残る道を選んで――」
それもまた、本心から出た偽りのない言葉だった。
それはライチョウからしても、己には出来ない説得であっただろう。お陰で目立ったお咎めを受けることも無く、ただ肩を掴む力が強まったくらいで済んだ。
「約束なんて無意味なものだ」
ライチョウが突き放すように言った。
「不安だったら生き延びろ。生きてその目でこの子の日常を見守ればいい。檻の中にいたいならそれでいいが、君の選択次第では、もっと近くで見守ることが出来るようになるぞ」
それは、嘲笑うような声に聞こえた。
わたしの知らないところで、これまでずっと同じ交渉してきたのだろう。そして、その度にヨダカの拒絶にあってきた。きっとそのせいだろう。ライチョウは信じていないようだった。ヨダカが素直に屈するとは思っていない声だった。
そして、そんなわたしの想像を肯定するかのように、ヨダカは鋭い視線をライチョウに向けていた。
彼女がライチョウを許す日は来ないだろう。天と地が引っ繰り返ったとしても、ライチョウがカケスを殺したと言う事実は変わらないのだから。
「まあいい」
低く笑うと、ライチョウはわたしを押して牢獄の扉へと向かわせた。同時に地面から抜かれ揺れる刃の切っ先が怖くて歯向かうなんてとても思えなかった。
そんな事には目もくれず、ライチョウは手早く檻の鍵を開けると、乱暴にわたしの身体を押して中へと突き飛ばし、扉を閉めてしまった。
転んだ痛みを堪えて振り返ると、ライチョウの双眸がわたしを見ていた。
「しばらくしたらまた来てやる。忘れるな、鍵は私が持っているってことを」
重たい音と共に鍵が閉められる。
地面に倒れ込んだまま、去っていく彼女を黙って見送った。やがて、その荒々しい気配が遠ざかっていくと、ようやく背後に居るヨダカが口を開いた。
「カナリア」
名を呼ばれ、わたしは我に返った。
すぐさま振り返り、立ち上がりもしない彼女の身体を求めて抱きつく。久しぶりに味わうのは、仄かな温かみだった。
確かにヨダカに受け入れられると、寂しかった気持ちが溢れだし、涙が止まらなかった。
そんなわたしの背中を撫でながら、ヨダカは静かに言った。
「どうしようもない子」
そこにはかつて感じた力が含まれていなかった。
「どうしようもないほど、優しい子ね、あなたは」
涙はしばらく止まりそうにない。