4.白刃
女が刃を振り払うと、カケスの流した血が飛び散った。
その動きを見つめた後、彼女はじっと遺されたわたしの姿を見つめた。刃を手にわたしを指し、廊下中に響く声でこう言った。
「お前はどうする?」
足に力が入らない。
座り込んだまま、わたしは女を見つめていた。
わたしの中で恐怖と憎しみのせめぎ合いが起こり、鼓動も呼吸も狂わされるような混乱の中で、わたしはその女を睨みつけた。
反抗的なのは言うまでもない。だが、それを後悔したりはしない。
この女は目の前で、わたしの日常を奪ったのだから。
「ほう、こんな光景を見て、そんな目をするのか」
ゆっくりと近づき、白刃をわたしに見せびらかす。
わたしはこのまま殺されるのだろうか。
カケスと共に死へと向かい、先にヨダカを待つはめになるのだろうか。
いや、そもそも、わたしが死んだあと、ヨダカはどうなってしまうのだろうか。この侵略者達はヨダカをどうするか話しあっていると言った。つまりそれは、彼女の兄のようにただ殺すなんて事をしないということだ。
――ヨダカ……。
一体今何処に囚われているのだろう。彼らの手に落ちた美しい女主人。傷つけられてはいないだろうか。わたしの唄は少しでも役に立ってくれるだろうか。
ああ、期待するだけ無駄なのだ。
だって、わたしの唄は既に、彼らの暴力の前に屈してしまっているのだから。こんなことならば、カケスにも唄を捧げるべきだった。
涙を流しながら、わたしは女を睨み続けた。
そんなわたしを見つめ、女は不思議そうな表情を浮かべた。
「――お前は何者だ?」
白刃の先端でわたしの顎を持ちあげ、まじまじと顔を覗く。
「見たところ、その格好は妾のものじゃないな。首から下げているのは鑑札か? お前はあの女の何なんだ?」
答えるつもりはなかった。
顎を持ちあげる白刃の恐怖に震えつつも、必死に両手でペンダントを覆う。屈するつもりはない。相手は、武器も何も持っていなかったカケスを殺した非道の女。殺されるのだとしても、その瞬間まで屈したくはなかった。
そんなわたしの意思が顔に浮かんでいたのだろうか。
女は目を細めてから言った。
「まあいい。ただの妾ではないのなら、お前の選択肢は一つだ」
夜の空気を揺るがすようにそう言ってのけると、女は白刃を下ろし、わたしの手を掴んで乱暴に引き上げた。急な力に肩が痛かった。だが、その痛みに呻く間もなく、今度は松明を持った仲間達の方向へと突き飛ばされた。
床に叩きつけられ身悶えしていると、後頭部に冷たいものが突きつけられる感触に冷や汗が浮かんだ。
殺される。とうとう、殺される。
床に爪を立て、その時を覚悟した。
カケスと一緒に、わたしも黄泉へと旅立つのだろう。そう思いながら待っていると、ふと松明の集団の方向から大きな声があがった。
「待って、ライチョウ様!」
若い青年の声だった。
――ライチョウ……。
その名をそっと頭にしまいこんでいる内に、誰かが走り出し、倒れているわたしに近づいて来る。その声を受けた女が、わたしの背後で白刃を引っ込める。冷たい感触から解放されて、わたしはようやく視線を上げた。
声を上げたと思わしき青年が、すでにわたしの目の前に到達していた。
「ライチョウ様、刃をしまってください」
彼の目はわたしの背後に向いている。
間違いなく、ライチョウとはカケスを殺した女の名前だ。だが、その情報よりも、必死な青年の姿を見つめている内に得られた事の方が、わたしの関心は強かった。
――歌鳥だ。
歌鳥の青年がそこにいた。同じ歌鳥ならば何となく分かるものなのだ。見れば見るほど、同胞であることは見逃せない。
「ウグイス、何故その娘を庇う」
ライチョウの声が背後から斬りつけてくる。ウグイスというのがこの歌鳥の青年の名前であるらしい。いや、本名なのだろうか。違う気がした。
歌鳥の親はそういう類の名前をつけないものだ。歌鳥にそういった名前をつけるのは、歌鳥を手に入れた人間だけと決まっている。よっぽど変わった両親でなければ、そういうものであるらしい。
つまり、この二人は――。
得られた情報をまとめていると、ふとウグイスがわたしの両肩を抱きしめ、震える体を労わるように温めてくれた。
その視線は相変わらずライチョウに向けられたままだった。
「この娘は――」
迷いつつ、彼は口にした。
「この娘は、僕と同じ血を引いています」
庇うような声に妙な安心が生まれ、すぐにわたしは自己嫌悪した。
駄目だ。生き残りたいわけじゃない。カケスが死に、ヨダカの未来も守られていない現状で生き残ったって何になるのだろう。
しかし、白刃が後ろから斬りつけてこないという今の状況は、恐ろしいほどに呼吸がしやすく鼓動も安定するほどのものだった。
「なるほど、しかし、だとしてもだ――」
ライチョウが声を低める。
「もう既にあの女と契っているのだとしたら脅威でしかない」
そう言ったが、ウグイスは首を横に振った。
「僕には分かります。それはあり得ません」
そう。あり得ない。
だって契っていたら、こんな事にはならなかった。
ようやくわたしは過去の選択を呪うはめになった。もしも虚しいプライドを少しでも早く振り払っていたら、こんな松明の集団に襲われる事なんてなかった。ヨダカも囚われなかったし、カケスも死ななかっただろう。
歌鳥と歌鳥の力の差なんて殆どない。
ウグイスという青年の力と、わたしの力にも歴然とした差なんて存在しないだろう。
それでも背後に居るライチョウという女が猛々しく振る舞えるのは、手に入れた歌鳥の力に他ならない。誓いの唄。その影響を受けている者ならば、受けていない者との間に恐ろしい程の差が生まれてしまう。
――唄の力を暴力に使うなんて。
涙が溢れ、嗚咽が漏れる。その背をウグイスがただただ撫でていった。
「もしもこの娘が契っていたら、僕達はこの屋敷の女主人を捕えられなかったでしょう。彼女の守護が、僕の唄に負けたという事は、そう言う事です」
ウグイスのしっかりした声に、ライチョウが沈黙した。
彼女はどんな目をしているのだろう。彼女の仲間もどんな目をして事態を見守っているのだろうか。どんなものであれ、狼か何かに取り囲まれているような感覚は消えない。
両目を伏せたまま、わたしは床を掻いた。
「なるほど」
やがて、ライチョウの溜め息が聞こえてきた。
「それなら話は別だ。ウグイス、その娘の身柄はしばらく君に任せよう」
そう言って彼女はあっさりと仲間の元へと戻っていった。