3.松明
朝と夜の時が廻るにつれ、混乱は広がり、深いものへと変化していく。
とうとうこの屋敷のある都でも、様々な噂が風となって訪れ、あらゆる権力者達の間に存在した均衡は呆気なく崩れていった。
一人、また一人と屋敷を去る僕妾は増えていく。
皆、ヨダカの末路を悲観している。それは、残ると決めた僕妾も同じであるようだった。
カケスは残ると決めていた。ヨダカがどんなにカケスを自由にしていても、屋敷を出て行く気はないらしい。それはわたしと同じだった。
他にも、コマとムクも同じであるようだ。
どうやら彼らは長年この屋敷に仕えてきた為、今さら外に行く気になれないらしい。この屋敷が廃れる時が、自らの終わりでもあると主張する。
ヨダカはその想いを確かに受け止めつつ、それでもふわりと流した。
いつでも彼らの気持ちが変わっていいようにするために、真面目に取り合わないのだ。わたしには分かる。ヨダカは一人で革命に呑まれる気なのだ。
それは死んでしまった兄を追うためだったのだろうか。
分からないまま、時は流れていき、そしてその日は訪れた。
「――カナリア様……起きてください……」
囁くような声が耳元でして、わたしは決して深くはなかったはずの眠りから覚醒した。
場所はヨダカの寝台の上。特別に一緒に寝る事を許されていた広い寝台の上。隣に寝ている者はおらず、その代わりに傍で起きたばかりのわたしに上着を手早くかけたのは、ヨダカではない者だった。
暗がりでも分かる。カケスだ。
「どうしたの、カケス……」
ただならぬ様子と最小限に潜められた声に怯えが生じた。
首から下げっぱなしだったペンダントを握りしめ、わたしはカケスを見つめた。
カケスは人差し指を自分の唇に当て、神経を研ぎ澄ませながら周囲を窺いつつ、わたしの耳元で囁いた。
「とにかく、一緒に来てください。ヨダカ様の命令なんです。絶対に音を立てず、今すぐにここを離れるのです……」
「ヨダカは――」
「大丈夫。後で合流しますから。とにかく今は、あたしについて来てください」
必死にわたしを落ち着かせようとしている。でも、焦りと不安に駆られているのはカケスの方だ。
何が起こっているのか、次第にわたしにも理解出来てきた。
「分かった」
上着をしっかりと身にまとい、わたしはカケスの手を握った。
恐ろしく慎重に扉を開け、蝋燭の光さえ頼りにせずに、月明りだけでカケスはあるいて行く。足音でさえも立ててはいけないだろう。しっかりと意識して、わたしはカケスに連れられて歩いた。
耳が沈黙になれてくると、屋敷の何処かで物音がしている事に気付かされた。
あの物音を立てている者たちこそが、カケスの恐れている存在であるのだろう。
見つかってはいけない。
緊張の糸がわたしの動きを縛ろうと牙を剥く。それに負けぬようにと、わたしはカケスの傍に寄った。そして、心音が漏れてしまわないかというくらい大きくなってきた時、ふとカケスが立ち止まった。
行く手に灯りがある。月光をかき消さんばかりのオレンジの明かりだ。
ヨダカだろうか。
最初はそう期待した。向かっているのはどうやら屋敷の裏口。その裏口はあとほんの少しだったから、きっとヨダカと合流できたのだと思った。
けれど、違った。残酷にも、違った。
「そこの者、止まれ」
煌めく輝きは刃のもの。
暗闇の中で、堂々と松明を手にしているのは、この屋敷の中では一切見たこともなかった人物たちだった。男が多いが、女も紛れている。だが、そのどれもが狼のように目を光らせ、わたしとカケスを睨んでいた。
カケスの震えが伝わってきた。いや、これはわたしの震えだろうか。ともかく、わたしは逃れるようにカケスに身を寄せた。
「この屋敷の妾どもか? そうなのだな?」
松明の集団の頭とも思える髪の長い人物が問いただすようにわたし達に牙を剥く。
恐ろしい。恐ろしかった。
あんなに暴力的な眼差しは初めて味わう。剥きだされた刃を手に彼らは何をしているのだろう。考えるまでもない。
頭と思われるその人物が、わたし達に刃の先端を向けた。
男のような格好をしているが、よく見れば女だ。長い髪は束ねる事も無く、誰よりも獣のような鋭い眼差しをこちらに向けている。
「お前達の女主人は既に捕まえた」
その一言で、わたしの頭は真っ白になった。
言葉そのものが矢のようにわたしの身体を貫いていった。その苦痛に力が抜けて行くより先に、わたしの手が強く握られた。カケスだ。彼女はまっすぐ松明の集団を見つめたまま、その視線すら動かさない。
震えているのはカケスの方だ。
その時、やっと分かった。
「嘘……」
カケスが呟いた。
「嘘に決まっているわ……」
「嘘ではない。お前達には選択肢をやる。主と運命を共にするか、何もかも忘れてここから去るか、二つに一つを選べ」
そう言って、その女は松明を仲間に託し、歩きだした。
近づいて来る。逃げたい気持ちが込み上げてくるが、足が動きそうにない。カケスも同じなのだろうか。刃を手に近づいて来る女から目を離さず、棒立ちになったまま動こうともしなかった。
するりとカケスの手がわたしの手から離れる。
そして、ようやく一歩カケスが動いた。後退ではない。わたしより前へと身を乗り出して、彼女は近づいて来る女を睨む。
「ヨダカ様を殺したと言うの……?」
「いや、まだ殺してはいない」
女は立ち止まり、にやりと笑う。
「今後、あの美しい姫様をどうするか、仲間たちとゆっくり考えているところだよ」
それはまるで魔術でも孕んだかのような言葉だった。
後ろ姿しか見えないカケスの内面が大きく揺るがされたのがわたしにも分かった。次の瞬間、彼女は女に向かって飛び掛かった。まるで猛獣のように怒りに囚われ、あらゆる現実を振り払うかのように彼女は女に飛び掛かった。
武器も持たない妾が、輝く白刃をちらつかせる侵略者に。
その結果がわたしの目に焼きつくまでに、数分ともかからなかった。
「愚かな妾め」
短く女が言い捨て、すぐにカケスの悲鳴が上がる。
――嘘……。
目の前に広がる光景をわたしは受け止められなかった。
それは、美しい一輪の花が残酷に散らされるような光景だった。
しかし、散らされるのは花弁ではなく、赤い液体。暗がりのなか、松明の光もやや遠いなか、月の光が残酷なほどにその赤を際立たせている。
刃の白が穢され、女の腕にふわりと収まったカケスの身体は殆ど動かない。さきほど確かに悲鳴はあがったのに、それっきり、カケスの唇から声は漏れなかった。
女によってゆっくりとカケスが床に寝かされる。
その横顔を見て、わたしはとうとう座り込んでしまった。
半開きの瞼。目の輝きがもはや何も捉えていないだなんて信じられない。見慣れた妾の衣服は赤く染まり、微かに動いていたような気がした指先も、今では人形のようだ。
カケスが死んだ。殺された。
現実が言葉となってわたしの頭に襲いかかって来る。そうしてやっと、わたしは口を開くことが出来た。
「カケス……」
恐ろしい事が起こってしまった。




