2.歌鳥
歌鳥。
それは、わたしが父母より受け継いだ血の俗名。思うままに唄を奏で、その音の世界に全身で浸ることを求めて生まれ落ちる一族の名前である。
魂より生み出すわたし達の唄は心から愛する者の力となり、その絆が永遠のものとなるための誓いとなる。
それが人間達を苦しめるあらゆる病を癒し、あらゆる不幸を招く邪を強く祓う力がある事が判明した時、わたし達は人間ではなくなってしまった。
それはもう、わたしが生まれるよりもずっと前のこと。
確かにそれまでは人間として扱われていたはずなのに、いつの間にか獣として区別され、歌鳥でない人間達に虐げられるようになってしまったのだ。
姿も形も人間であるのに、歌鳥でない人間との間に子供だって授かれるのに、わたし達は人間ではなくなってしまったのだ。
多くの歌鳥は乱獲され、権力者たちの城の奥深くに閉じ込められていった。
どうにか魔の手を逃れたのが、わたしの父母の祖先。
野生の歌鳥と呼ばれる二人の間に生まれたわたしは、歌鳥の血を引かぬ人間の恐ろしさを散々聞かされて育った。
そうして月日は経ち、わたしは大人になった。
親元を離れたのは、番いとなり一生を共にする伴侶を探すためだ。
心に決めた歌鳥と共に誓いの唄を捧げ合い、共に服従し、歌鳥は夫婦となる。その誓いは頑ななもので、絶対に取り消す事は出来ない。
旅立つ前、両親は念を押すように告げた。
その誓いの唄は、安易な気持ちで曝してはいけない、と。歌鳥の血を引かぬ人間達は、その唄を利用して歌鳥を支配するのだから、と。
もしも、わたしが誓いの唄を人間相手に捧げてしまったならば、わたしはもう誰とも番えなくなってしまう。
そうなればわたしの一生はその人間に左右される事となってしまう。
相手がもしもわたしに飽きれば、わたしは路頭に迷うだろう。そうならぬように歌鳥はお互いに誓い合うのだけれど、人間は誓いの唄の縛りに影響されたりしないのだ。
わたしだけ――歌鳥だけが頑固な契約に縛られ、人間側はかなり自由にわたし達をどうとでも出来てしまう。
そこまで聞かされて、人間に心を許すわけがない。
ああ、それでも、わたしはまだまだ若輩者だった。
独り立ちしたのは二年前。もうすっかり大人の歌鳥になったと思い込んでいた。すでに複数の歌鳥と出会い、別れ、一生を共にする伴侶を探し続けるうちに、世の中の全てを分かったような気になってしまっていたのかもしれない。
わたしは浅はかだった。
世の中には歌鳥を手に入れるために薬を盛るような人間が、遠い昔でもなく、今の時代にも存在しているなんて想像もしなかった。
「カナリア」
檻越しにわたしの頬を撫でながら、女主人がその名前を告げる。
「今日からあなたの名前はカナリアよ」
――カナリア。
いや、違う。わたしはそんな名前じゃない。両親より貰った大事な名前がある。この女に告げる気は更々ないけれど、その名前を捨ててしまう事なんて出来ない。
ぐっと両目を瞑り、わたしはその名前を拒んだ。
「返事をしなさい」
温かな手がわたしの髪を整える。
鼻孔をくすぐるのは甘い香り。心を落ち着けるような匂いがわたしの身体を徐々に侵していこうとする。
わたしは薄眼を開け、首から下がるペンダントを見つめた。
この文字は。わたしの読めぬこの文字は、「カナリア」と書いてあるのだろうか。人間達が獣を愛玩として囲い、その首に鑑札をつけるように、わたしにも与えたのだろうか。
「カナリア。唄を聞かせて。誓いの唄を」
「いやだ……」
唄えばわたしは逃げられなくなる。
どんなにこの女の事を憎んでも、死ぬまで傍を離れられなくなってしまう。これこそが、歌鳥の習性なのだ。
甘い言葉でわたしを騙し、毒を盛って眠らせて、こんな冷たい檻の中に入れたのも、すべてこのせいだったのか。
父母の顔が頭を過ぎる。
親元を離れた子供を歌鳥は助けたりしない。そして、伴侶の候補すらも決まっていないわたしには、助けに来てくれるような人なんていない。
「強情な子ね。あなたがまだ誰とも契っていない事なんて知っているのよ」
女主人はそう言うと、両手でわたしの頬を覆った。
檻越しにその夜空のような目が震えるわたしの顔を覗きこんでいる。愛おしそうな表情を見せているけれど、それは同じ人間相手に向けるような類のものではない。
「ずっと目をつけていたの。若くてまだ誰にも身を捧げていないような歌鳥のあなたをどうにか手に入れようとずっと」
「お願い、外に出して……」
どんな懇願も通用しない。
この女は歌鳥を求めているのだ。わたしが歌鳥の血を引いてしまった以上、そして、捕まってしまった以上、誓うまで出してくれないだろう。
そんな事は分かりきっている。
けれど、やっぱり安易に契る事なんて出来なかった。
「外に出せば他の権力者があなたを襲う。あなたは気付いていなかったのね。もう何人もの人間が眼をぎらぎらさせてあなたを捕える機会を窺っていたのよ」
「嘘……つかないで……そんなわけ……そんなわけ――」
ない、と言おうとしたけれど、それっきり言葉は詰まってしまった。
思い出すのはわたしの見知った人間の姿。歌鳥であることは別にわざわざ明かしたりしないけれど、何処からかその情報は漏れだしていく。
たとえば夕焼けの頃。たとえば朝焼けの頃。
赤く燃え盛る太陽を見つめていると、わたしは無意識に唄を口ずさんでしまう。それは幼い頃より聞かされた母からの愛の唄であったり、兄弟姉妹同士で遊ぶための唄であったりと様々だ。
その一瞬の気の緩みが、わたしの正体を人々に曝す。
決して多くはない目撃者が、あっという間に噂を広めてしまうのだ。それでも、人々はあからさまにわたしを襲ったりはしない。
一般人が歌鳥を捕える事は法で禁じられているためだ。
では、相手が権力者ならばどうだろう。特別に国に認められているような人物ならばどうなのだろう。
ああ、思い出すのは、やけに声をかけてきた人間の姿。
そして、やたらと感じる人々の視線。
あれらが全て、歌鳥を欲するためのものだとしたら。
「お分かりかしら?」
女主人は微笑んで、無知なわたしに語りかける。
「あなたは自分が思っている以上に、危ない場所に二年も暮らしていたのよ」
優しい守護者にでもなったかのように。