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「うわあっ」
叫ばれた方も驚いていた。
もう照明も消されてしまった昇降口外の暗がりに、背の高い女子がひとり立っていた。
「なんなんだよ、びびんだろっ」
綾華さんだった。
「びびったのはこっちですよ、んなところからいきなり声かけられたら」
「こんないい女に声かけられてびびるって、ありえねーよ、失礼きわまりねーだろ」
「暗闇からいきなり声かかってびびんない方がおかしいですって」
「ちっ、このびびりのへたれめ」
「俺はびびりでへたれですよ」
「うわ、さらっと認めやがった、根性無いな」
「世間のすみっこで静かに暮らしていくのが夢の、ちっちゃい男っすよ、俺は」
「どこがちっちゃいんだっての、ガテン系のくせに」
ちょっと喋っているうちにどちらも落ち着いてきて、毒舌の吐き合いになってきた。
つい最近まで、想像もしなかった。まさか、この人と言い合いができるようになるなんて。
「どうしたんですか、さっきまで小指で押しただけでぶっ倒れそうだった人が」
「こき使われて疲労困憊のかわいそうな美少女を、誰かが送りたいなあって思ってるんじゃないかと思って」
「へえ、そんな奇特な奴がこの学校にいるんですかねえ」
「いないの?」
ありえないことに、綾華さんが俺を見上げるようにして首をかしげている。
恐ろしく可愛らしい。
この中途半端な暗さの中で、この人の周囲だけ淡く輝いている錯覚すら起きる。
でも、そこは自他共に認めるへたれ。
「いるんですか?」
鸚鵡返しは失礼極まりないけれど、からかわれているのにその気になってしまうよりよほどまし、という打算が、一瞬で頭をよぎっていた。
綾華さんは少しの間黙って俺を見た後、ふっと笑った。
「なるほど、なかなかいい逃げっぷりだわ」
へたれを自称するだけあるね、と、綾華さんは続けながら歩き出した。なんとなく、俺も半歩遅れてついていく。
「送る送らないはどうでもいいんだけどさ」
綾華さんの足取りはそれほど軽くない。
「明日の予定、聞いてなかったから」
「ああ、そういえば」
「あたしも色々忙しくってね。予定立たないと困るんだわ」
声が非常に冷たい気がするわけですが。
「明日は仕事は無しです。会計と話して、新規購入の件まとめるだけなんで」
「あたしは用無しか」
「一人いりゃ充分ですし。出ます?」
「冗談でしょ、んなめんどい事」
重いなりにすたすたと歩いて行く。
「てかさ」
綾華さんがポケットを探った。
「いちいち会わないと連絡取れないんじゃ困るんだよな」
取り出したのは携帯。じゃらじゃらストラップをつけているイメージがあったけれど、組紐のアンティークなストラップが一本、ぶら下がっているだけだった。
「番号とメアドちょうだい」
綾華さんが立ち止まる。俺も立ち止まる。
暗がりでも表情はわかる。綾華さん、今日一番の不機嫌顔だった。
慌てて携帯を引っ張り出して、赤外線モードにする。
送信し終わり、お互いの携帯が番号を認識しあうと、綾華さんはパタンと携帯を閉じ、また歩き出した。
「……あんた、チャリ通でしょ。さっさと帰んなよ」
「まあ、ここまで来たから、駅までは送ろうかと」
「いいよ、彼氏呼んでるから」
綾華さんの声がどこまでも冷たい。そのセリフに、俺もちょっと腹が立った。
「……じゃあ、送ってもらおうなんて期待する意味ないですよね」
「だから、送る送らないはどうでもいいっていっただろ」
彼氏、といえば、噂の社会人の彼氏という奴だろう。セレブな彼氏、とかいってたやつもいたな。
「そうですか」
俺なんか足元にも及ばない、この人にふさわしい男なんだろう。別に顔を見てやろうという気も起きなかったから、俺はからだの向きを変えた。
「遅くまでつき合わせてすいませんでした。この先は出来るだけ負担がかからないようにしますから、今日のところは勘弁して下さい。それじゃ」
向かって左手にある自転車置き場へ歩き出した俺の背中で、綾華さんの声がした。
「ああ、もう、そういうんじゃなくってさあ」
イライラした声。といっても、自分に対するイライラだってことくらいは、いくら俺でもすぐにわかった。
「あんたたちと仕事するの、嫌だとかじゃないんだよ」
俺は立ち止まった。振り向かなかったのは、なんとなく、綾華さんに顔を見られるのが嫌だったから。なぜかはわからない。
「あんたくらい、あたしにまともに向き合ってくる後輩なんていなかったし、由紀もくそマジメなくせに憧れてるとかいってくれちゃうし」
ほとんど、衝撃的といって良かった。俺にとっては、綾華さんみたいなスターが、いくら流れで一緒に仕事をすることになってしまったにしても、俺なんかの存在を受け入れるなんてことは、ありえないことだった。
「一緒に仕事してさ、一緒に疲れきってさ、くだらない話してさ、そういうのって今まで無かったから、結構楽しいんだよ」
さすがに俺は振り向いた。綾華さんは街灯の光を受けて、茶色い髪をきらきらと輝かせていた。表情は無表情に近いけれど、今までになく真摯だった。少なくとも俺にはそう見えた。
「あたしも性格歪んでるから、むかつかせたんなら謝る。でも、喧嘩別れみたくなって帰るの、嫌なんだ。次に話しにくいじゃんか」
絶句していた俺は、衝撃を受け止め損ねてくらくらしていたけれど、何とか持ち直した。
「……俺も」
頭が止まりかけていて、俺は気の利いたことなんか口にする余裕がない。だから、出たのは素の言葉。
「綾華さんと仕事するの楽しいです。話してて楽しいです。喧嘩別れは嫌です」
綾華さんのほほが、ふっと柔らかくなった。
「じゃあ、おんなじだ。喧嘩別れはやめとこうな」
「はい」
多分、俺のほほも柔らかくなっていただろう。
何となく無言のまま、二人で見つめあっていた。
といっても、なにしろ中途半端に暗いから、しかもお互いの距離があるから、情熱的な見つめあいにはならない。
そのうち、綾華さんが動いた。
「引き止めて悪かったね。なんか仕事が入ったら、すぐ教えてね」
「わかりました。こちらこそ遅くまですいませんでした」
「いいっこなしでしょ、それ。リーダーはアキちゃんでも、あたしたちってチームなんだからさ」
綾華さんは手をひらひらさせながら、校門の外へと歩き出した。
「苦労も成果も、分け合うのがチームってもんじゃない?」
その言葉が嬉しくなって、俺は綾華さんの背中に向かっていった。
「その言葉が聞けただけでも、この仕事引き受けて良かったです」
綾華さんは振り返らず、相変わらず手だけひらひらさせていた。
「まあがんばろーぜー」
帰りの自転車をこぐ足が異常に軽かったのは、きっと気のせいじゃない。