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ミーティング後。生徒会室に向かう途中。
「ラーメンが私を呼んでるんだよね」
とかなんとかいいながら、はきつぶした上履きのかかとをぺたぺた床に当てて歩く綾華さんが、不意に立ち止まった。
つられて一年生二人も立ち止まる。綾華さんは厳しい目で斜め前方を見ていた。俺も由紀もその方向を見る。
視線の先に、もう一人の仲間、であるはずの先輩がいた。
こちらには気付いていなかった。情報処理技術研究同好会、通称パソコン同好会の遊び場と化している、情報処理教室の入り口近くで、そこの会員らしき誰かと話しこんでいた。
確かあの先輩も帰宅部だけれど、友達が同好会の一員なんだろう。
俺は、その姿を見ても特に感想は無かった。ああ、サボってこんなところにいたのか、と、ぼんやりとそう思っただけ。
さっきまで楽しく仕事ができていたから、正直あの先輩のことなんかどうでも良かった。来ないなら来ないでいいや、空気壊されたくないし、とか考えていた俺は、リーダー失格かもしれない。
一方で、綾華さんはそういうのは許せないらしい。
いきなりつかつかと歩き出すと、まっすぐ先輩のところに向かった。思わず由紀と顔を見合わせると、俺たちもすぐに後を追った。
綾華さんの姿に気付いた先輩は、ぎょっとした顔をして一歩引いていた。綾華さんはそのすぐ目の前までいくと、近くの壁にどんと右腕を打ち付けて、それに寄りかかるようにしながら低い声でいった。
「おとなしく帰ってるかと思えば、まだ学校にいたのかよ。度胸いいなあ、あんた」
こういう場面でぎゃあぎゃあ騒ぎ立てるタイプの女なら、俺も知っている。でも、低い声ですごむ女は初めて見た。怖い。
当然、傍観している俺より、当の本人のほうが何百倍も怖いわけで。
「あっ……」
一声うめくと、あとは何もいえずに硬直している。
綾華さんは今にも先輩を蹴っ飛ばしそうな殺気を発しつつ、片足をぶらぶらさせている。
「連絡は聞いてたよな、今日、ミーティングがあるって」
「……」
先輩は答えもせずに硬直。
聞いているのは間違いない。だって、昼休みに、俺が直接伝えたんだから。あの時点で、来ないかもしれないな、という予感はあった。視線を合わせようとしなかったから。
同情の余地は無い気もするけれど、衆人環視の中で綾華さんが先輩をたこ殴りにしそうな風景を放置するのも、面白いけれどやばい気がする。でも、この人を止められる度胸が俺にあるだろうか。
あるわけないじゃん。
まして由紀にそんな事ができるはずもなく、俺と並んで綾華さんの背後に立ちながら、おろおろとすらできずに不動の姿勢で見つめていた。
綾華さんはしばらく無言で先輩にプレッシャーをかけ続けていた。ウェーブがかかった髪がじゃまで、斜め後ろからじゃ顔は見えなかったけれど、肩から立ち昇る殺気は隠しようもない。
その内、先輩が、耐え切れなくなったとでもいうように後ずさりし始めた。同じタイミングで、綾華さんがいう。
「あんた、もう顔見せるな。その顔見ると吐き気がしそうだ」
ぐいっと腕を伸ばし、壁から離れ、くるっと回転する。
「さ、とっとと仕事終わらせなよ、アキちゃん。ラーメンが私たちを待っているよ」
顔に殺気は無かった。至極機嫌よさそうに微笑んですらいる。
本気でこの人に恐怖感を抱いたのは、むしろこの瞬間だったかもしれない。
というわけで先輩は担当から外れ、俺はラーメンをおごらされた。
「みっそみっそー」
店に入る前から味噌ラーメンの名を歌のように口にしながら、綾華さんは上機嫌だった。
一緒に歩く下級生二人は、なんともいいがたい気分でついていく。
高校に入って以来、どう見ても不良だよという野郎どもとラーメン屋に入ったことは何度もある。でも、女子と放課後に何かを食べにいくというシチュエーションとも無縁なら、よりによって駅前でもかなり親父臭さ満載の店に入ろうというのも初めてだった。
聞けば、この店は綾華さんの親父さんの知り合いがやっている店なのだそうだ。
「綾ちゃんが生徒会ねえ」
カウンターの奥で、タオルを頭に巻いた中年のおじさんが感心したように声を上げていた。
「生徒会じゃないって、文化祭の実行委員」
「似たようなもんだろ」
「全然違うし」
時間がまだ早いからか、店内はそんなに混んでなくて、うちの学校の生徒は俺たちだけだった。あと一時間もして、体育部が切り上げてくる時間帯になれば、それなりに入ってくるだろう。
席は、カウンターの右に綾華さん、真ん中に由紀、左に俺という配置。綾華さんが店主やパートだというおばさんとばかり話しているから、俺と由紀は仕方なく二人で会話することになる。
ネタは色々あるんだろうけれど、あえて綾華さんのことを話すのは二人とも避けた。わざわざ、隣にいるのに地雷に触れる必要もない。
「メガネ、外しても大丈夫なの?」
と俺が聞いたのは、席についてすぐ、由紀がメガネを外してしまっていたから。
「はい」
と、由紀はうなずくだけ。まっすぐ伸びた髪が揺れるのはきれいだったけれど、会話が続かないったりゃありゃしない。もっと、こう、キャッチボールしようよ。
「全然見えなくなったりするわけじゃないんだね」
「はい」
「そんなに悪いわけじゃないんだ」
「はい」
このやろう。
「じゃ、別に四六時中かけてる必要も無かったりする?」
「……視力的には」
ようやく食いつくポイントが見えてきた。
「というと、もしかしてそれ以外の理由でメガネかけてたり?」
そこまでいって、俺は急に後悔した。ああ、余計なこといったな、と。
由紀が俺のことを敬遠しているらしいことは、充分承知している。これからいやでも仕事で一緒になるんだから、しつこく聞いたりして険悪になる必要なんか無いじゃんか。
由紀が黙り込んでしまうんじゃないかと思ったけれど、意外にも由紀はストレートに答えてきた。
「安心するんです」
「……安心、ですか」
「素の自分を出すみたいで、人前でメガネ外すのが得意じゃないんです」
その言葉を出したときの由紀の顔が真摯で、俺は思わず言葉の意味を深読みしすぎるところだった。
じゃあ、素の自分を見せてくれてるってこと?
でも、ラーメン屋でメガネを外す理由なんて、ひとつふたつしかない。曇るし、汚れるからだ。うちの親父もメガネで、ラーメン屋に入ったらすぐ外してしまうからよく知っている。
「……そっか、色々大変だな」
答えを濁して、俺は由紀に話しかけるのをやめた。これ以上話すのがちょっと苦痛になっていた。由紀のせいというより、自己嫌悪に近い感情のせいで。
そんな俺の心中を知ってか知らずか、今度は珍しく由紀から話しかけてきた。
「晃彦くんは、そういうの必要ないですよね」
「そういうのって……素を隠す道具、みたいの?」
「はい」
相変わらずの視線外し状態で、目の前のカウンターを見つめながら由紀がうなずいている。
「うーん」
どういう意味だろう。そんなに素で勝負してるつもりはないけれど。それなりにかっこつけたり虚勢張ったりして生きているのは、そこらへん歩いてる男子高校生と一緒だと思う。
「そもそもメガネが必要じゃないしなあ、目だけは昔からいいから」
ごまかすつもりは無くてもそう取られるような答え方をしてしまった。
「そういうことじゃありません」
と、初めて由紀が、会話の主導権を握ってきた。
ちょっと感動したけど、すぐ慌てさせられることになる。
「晃彦くん、高校に入ってから、怖い人とかとも普通に話してるし、綾華さんとも普通に話せてるし、すごいなあって思ってました」
おいおい。
「すごいって……怖い人ったってさ、別に犯罪集団じゃないんだし、綾華さんと話すのだって都合上仕方なく……」
仕方なく話してるだけだ、といおうとした時。
「呼んだかい」
ぬっと綾華さんが由紀越しに顔を出す。まじでびっくり。
「うわあ」
「うわあって心外だなあ。人のこと話しといてその態度はどうなんだろうか、ねえ、渋谷くん」
表情が少ない由紀が珍しく驚いた顔をしていて、その由紀を至近距離から見つめて綾華さんがいう。
「仕方なく話されてたのか、私は。なるほど。そうか」
嫌みったらしく綾華さんがいう。顔は思いっきりS系。なまじきれいな顔をしているだけに、意地の悪い顔をしているとすくみあがりそうになる。さっきの一件もあるし。
でも、こっちも高校入って以来、さんざんおっかない人たちとつき合わされてきた経緯がある。さっきの先輩みたいに本当にすくみあがってしまうのは愚策、下の下。
「話は最後まで聞きましょうよ」
と切り返し、俺は口が動くままに軌道修正を行う。
「都合上仕方なく話してて、でも意外に話せる人だって事がわかったから、今じゃけっこう楽しくやれてる、そうつなげようとしてたんですよ」
口からでまかせ、ともいう。
「ほー」
綾華さんは頬杖をしながら疑わしげにこちらを見ているけれど、負けちゃいかん。でまかせも、押し通せば真実になりうるのだよ。
「だから、すごくもなんともないよ。たまたま状況がそうなったってだけでさ。由紀だってさ、綾華さんと普通に喋れてるじゃんか」
「そうね。最初はぎこちなかったけど、今じゃ普通に話せてるね」
綾華さんも乗ってきてくれた。たぶん、何の話かはわかってないけれど。
由紀は、両脇の二人に見つめられるような感じになってしまい、ピンと背を伸ばしたままうつむくという器用な姿勢になっていた。
「それは……綾華さんが素敵だから……」
「ほへ」
由紀の意外なセリフに綾華さんが間抜けな声を出した。頬杖がずれて、がくんっとなっている。
店内の暑さが原因ではないと思われる赤さになった由紀の顔。
「……綾華さん、憧れだったから……いっぱい話せるのが嬉しくて……」
ちょっと待ってください。
汚い店内がいきなり百合の舞台ですか。
「あ、ああ、ありがとう」
あの綾華さんがうろたえている。快挙だ。史上空前の快挙だ。