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文化祭初日までの日々は、まさしく怒涛の展開だった。
「最近、ほとんど記憶ないのよね」
綾華さんがぐったりしながらいったのはいつのことだったか。
とにかく忙しかった。
休み時間はひたすら携帯や書類との格闘。放課後になれば校内中を駆けずり回った。
綾華さんもこの状況で上に立ってしまえば体力勝負だ。計画分野は俺と会計氏で引き受け、綾華さんは現場の人と化した。
たとえば体育館を使ってのイベントについては、設営の打ち合わせからリハーサルの手配、資材管理に安全管理、人の動きのチェック、許可書関係のチェックなど、ちょっと思いついただけでもどんどんやることが出てくる。
そんな中で、由紀が大活躍だった。
交渉ごとは苦手な由紀だったけれど、緻密なメモ取りやきれいなノート作りで俺を驚かせた由紀の才能は、綾華さんとペアを組ませて花開いた。
綾華さんは自分の予定を組んだり、渡された書類をチェックしたりということがどうも苦手らしかったれど、由紀が完璧にフォローして見せた。綾華さんが神出鬼没の動きで人々を驚かせ、完璧な手配振りで職員にも脅威の高評価を植え付けた、その最大の功労者は、綾華さんの側近として常に張り付いていた秘書の由紀だろう。
「そうか、渋谷は秘書役がベストポジションだったんだ」
最初は俺のアシスタントして由紀を活かそうとしていた会計氏は、綾華さんのそばで生き生きと働いている由紀を見てひざを打った。
「危うくあの才能を活かしきれなくなるところだった」
そういって、由紀を自分の秘書にと引っ張っていった綾華さんの人を見る目をしきりに褒めていた会計氏。
ではこの人のベストポジションは何かというと。
「君はこれ。明日の6時までに提出ね。出来るはずだよ。ぎりぎり間に合う量しか渡してない」
人事だった。
色々な仕事があって、色々な作業がある。そして、それに参加する人々も色々。
そういう状況で大切なのは、誰かが一元的に作業を割り振り、采配していくこと。
先輩はこの仕事や作業の割り振りが恐ろしく上手かった。
俺がどんどん細かい計画を作ると、会計氏は関係者を一通り見回しながら素早く仕事を割り振っていく。この割り振った仕事の戻り具合が、先輩の予測とぴたり一致するのだ。
「?」
それが凄いと俺がいうと、会計氏は首をかしげる。
「普通に考えればわかるだろう?」
わからないから、普通は苦労する。誰がどの仕事をやればどのくらいで終わるか、そんなものが正確に予測できれば、立派に企業で管理職が勤まる。
俺はこの先輩のおかげで、企画の実行計画や資材回しの計画に集中できた。
現場の指揮は綾華さんが。その秘書は由紀が。人員配置や資材配置というロジスティクス面は会計氏が。そして計画や企画とその実施といった実務面は俺がそれぞれ担当し、この4人を中心とした組織がごくわずかなうちに整った。
職員の一人がこの様子を見て作った言葉が、「永野幕府」。
それじゃいくらなんでもセンスがないだろうということで、「永野綾華と愉快な仲間たち」と名付けたのは会計氏だったけれど、残念ながら他の3人からは不評で、定着しなかった。安直にもほどがある、どうせひねるならきちんとひねりなさい、とわかるようなわからないような文句をいったのは綾華さん。
文化の日とその前日の二日間で行われる文化祭は、さらにその前日の前夜祭を実質的なスタートとしている。
前夜祭といっても夜やるわけじゃない。その日の放課後、明日から文化祭という雰囲気を盛り上げるため、生徒会主催で、文化部や各クラスの出し物の予告ステージが行われる。ここでの出来が後の2日間の客足を決めかねないから、どこの担当者も異常に気合が入っていることが多い。
それぞれの担当から企画は既に上がっていて、資材関係の手配も早くから出来上がっているところが多かった分、内容を詰めていく時間が多く取れたようで、職員室から「いつも以上の気合だな」と声が上がるほど、前夜祭の企画が盛りだくさんになっていた。
そこで奪い合いになるのは時間。ステージ上にいられる時間もそうだけれど、もちろん、準備にも時間は必要になる。さらに順番も重要。先に各クラスの発表、それから文化部の発表に移るのが恒例だけれど、その中でも発表順によって差が出ることは容易に予想できる。後ろに行けば行くほど時間が押せ押せになり、飽きて帰ってしまう生徒も多いに違いない。
「厳正なる抽選で決めます」
順番決めで、たとえば去年は最後だったから今年はぜひ前半に、とか、所属部員数や実績から考えてうちが前半に来て当然、とかねじ込んでくる各文化部の担当者相手に、綾華さんは頑として譲らなかった。
綾華さんが難しいとなると、特に見境のない三年生が由紀を狙った。秘書役でいつも張り付いている由紀から口添えがあれば、まして陰の実力者である佐藤晃彦の彼女ともなれば、どうにかになるとでも思ったんだろう。
由紀は脅迫とも取れるくらいのねじ込みにあうと、即座に俺を呼んだ。初めから自分で対処しようとするな、と俺からも綾華さんからも散々いわれていたからだ。
俺がすっ飛んでいくと、諦めの悪い三年生が由紀を囲むようにしていた。
「何か御用でしょうか」
俺が後ろから問いかけると、三年生は振り向いた。俺の顔を見るなり、びくっとする。
俺は自分では無表情でいたつもりだったけれど、由紀の目撃証言によると「明らかに殺意を感じた」そうだから、まあ、そういう目をしていたんだろう。
生徒会で上級生相手に大批判を行い、さらにクーデターを起こして実権を掌握したという俺の噂が、俺の見られ方を多少変えていたかもしれない。それまでは、喧嘩はある程度強いが無害で大人しい一年生だったのが、今はその気になれば誰にでも牙をむく恐ろしい一年生に変わってしまった。
「待て佐藤、まだ何もしてないぞ」
その三年生は明らかに余計なことをいった。もちろん、聞き逃して相手に逃げるチャンスを与えるなんてことはしない。
「まだ、ということは、何かする気だったんですね」
広瀬さんに脅されたときは喧嘩する気満々だったから大声を出したけれど、今日はその気はない。だから低い声を出した。脅す時は低い声で。カケスの法則。
「何をする気だったか伺ってもよろしいですか」
にこりともせずにいい放つ俺に、三年生は逃げの一手だった。
「いや、ほんとに、なんでもないんだ。時間取らせたな、わるかった」
いいつつ後ずさり、そのまま逃げ去ってしまった。
「何がしたかったんだ、あの人は」
俺が首をかしげると、そばに寄ってきた由紀が、俺の片手を取りながら苦笑した。
「こんなに怖い人が凄んできたら、普通逃げると思います」
「怖いか?」
きゅっと俺の指を握っている由紀にさらに首をかしげて見せると、由紀はふふっと笑った。
「私は怖くないです。でも、他の人が見たら怖いと思います」
「こんな奴のことが怖いかねえ」
俺がいうと、由紀は俺の指先を握っている手に力を込めた。
「自覚してください。晃彦くんは、もうこの学校のキーマンです。実力で学校の支配階級にのし上がった人です。そんな人ににらまれたら、いくら上級生でも怖いに決まってます」
「支配階級って……文化祭の執行役がそんなに偉いかな」
「たった一日で生徒会を壊滅させた張本人が、そんな甘い物の見方をしないで下さい。いつもそうですけど、晃彦くんは自分を過小評価してます」
「そんなことない思うけどな」
そう応じつつ、なんか最近こんなことばっいわれてるな、と思った。
自分自身の評価はともかく、やってしまったことについては多少大きく考えておいた方がいいのかもしれない。
綾華さんもこの一件は聞いていて、「何か対策を考えておこうか」とつぶやいていた。
これは、由紀を護ろうとか、文化部の暴走を止めようとか、そんなちゃちな意図じゃなかった。そこまで文化部にさせてしまうとしたら、それは運営が悪いんだろうという考え方。
「制限時間を作ろう」
「ありますよ。持ち時間5分、舞台入れ替えは2分」
「徹底できてないから押すんでしょ? 徹底できてない制限なんてのは制限といわないの、ただの目安じゃんか」
「そりゃそうです」
「時間がきたら舞台の照明切っちゃいな。PAもカット。入れ替え時間がきたら準備が出来てようが出来てなかろうが照明オン。PAもオン」
PAとは音響のこと。前夜祭の会場になる講堂には、そのまま演劇の舞台が作れる立派な照明・音響設備がある。
「緞帳はどうします?」
「時間かかるから上げっぱなし。決まってるでしょ」
綾華さんは判断が早い。
「それはそれで文化部から抗議が来ないか? 完成度が下がるとかなんとか」
会計氏が聞くと、綾華さんは断言した。
「いわせない。見てるほうはハプニングも込みで楽しめるじゃない。だいたい、この程度の制限も守れない発表って、部活動としてどうなの? まともじゃないよね?」
ごもっとも。
「あたしから通達出すわ。制限時間を観客にもわかるように表示したいけど、出来る?」
「えーっと……時間を表示する……アナウンスじゃダメですか」
「舞台の声を邪魔しちゃいけないでしょ。ああ、でも、時間切れ寸前になったらそれっぽいBGM流すのはいいね。ビジュアルは無理?」
「んー……なんか考えます」
「よろしく」
リーダーの綾華さんから次から次へとアイディアが出る。俺の仕事はそれを現実化していくこと。
「綾華さん、吹奏楽部からリハーサル見に来ないのかと連絡が」
「ああ、行く行く」
由紀の仕事は綾華さんの動きと時間を管理して、効率的に回していくこと。
「先輩、OHPでたとえばPCの画面って投射出来ますか?」
「ああ、USB対応のが1台余ってたはずだな。電源はどうとでもなる。何に映す?」
「白布があれば、ホワイトボードでも出してそれにかぶせちゃえば、舞台の端にも置けますよね」
「白布とホワイトボードな。それも準備できる。手配しておこう」
会計氏の仕事は資材や道具関係を手配し、使い回しまで考えて準備していくこと。
役割がはっきりしているから、仕事をしていてわくわくするくらい、どんどん回っていく。
何の利益もない、ただ疲れるだけの仕事と思っていたけれど、仕事をしていること自体が楽しくなるなんて思いもしなかった。
偶然集まっただけの文化祭実行委員が、ここまで一体になれるなんて思いもしなかった。
俺は多分、綾華さんや由紀という女性に出会えたことだけじゃなく、ものすごく幸せな経験をしている。
文化祭本番までの日々は恐ろしいまでの忙しさの中であっという間に過ぎて行ったけれど、密度が最高に濃くて、疲れることすら楽しいと思える、短い人生の中で一番面白い時間を過ごしていた。