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告白劇の前、綾華さんが文化祭の計画書にしきりに書き込みを入れていたのを見た記憶がある。
綾華さんが広瀬さんやその知り合いにメールを返し始める前のことだ。
赤ペンでしきりに書き込んでいたのは、自分たちがまとめていた資材関係の書類や企画書から引っ張った情報だったという。
どう考えてもあの計画書のままに進められていったら、自分たちがやってきた仕事がぐちゃぐちゃにさせられる。綾華さんはそう思ったらしい。
ここは直す。ここはあきちゃんに振る。ここは由紀にがんばってもらう。ここは教師に甘える。
そんな書き込みだから、大雑把もいいところだけれど、書いてあることはいちいちまともだった。細かな実務をやる気がさらさらないこともよくわかるけれど。
それを見て、一つの考えが浮かんだ。
「だからといってだ」
生徒会室で高々と脚を組み上げ、さらに堂々たる腕組みで威を加えた綾華さんが、生徒会執行部、生徒会担当をしているうちの担任、文化祭実行委員の面々を前に見得を切った。
「あたしが文化祭を仕切るとか、あんた、頭おかしいんじゃないの?」
綾華さんがいう「あんた」とは、俺のことだ。
綾華さんの正面に座っているのが俺。その隣に座っているのが担任。そしてずっと離れたところに生徒会長がいて、その隣に会計氏がいる。
「実行委員長は会長が兼任してるんだから、会長がやればいいだけでしょうが」
「正論ですけれど、現実的ではありません」
対する俺はというと、綾華さんには負けるものの、大概態度のでかい一年である。
なにしろ、綾華さんと向かい合わせのパイプいすにどっかりと座りながら、長机に両肘を突いて手を組み、親指をあごに当てている。その体勢で相手を見据えているのだから、少なくとも永野綾華の正体を知っている一年生が取る態度じゃない。
そして、この時、俺はあの文化祭の計画書のひどさ、ずさんさについて、このでかい態度のまま指摘し倒した後だった。
一年の分際で、でかい態度でいいにくいことをずけずけと並べ立てた上、このままでは文化祭は壊滅的なぐだぐださに陥るということを、数字で説明してみせた。
数字は俺が作った書類をちょちょいといじって作り直したもので、要するに予算。お金の話。これをいつの間にか握ってしまったおかげで忙しかった訳だけれど、その結果として、生徒会の首根っこをつかんでしまっていた。俺しか、お金の正確な動きを把握していないという、生徒会執行部にとっては致命的な事態に陥っていたのだ。
そしてさらに致命的なことに、執行部は会計氏を除いて、その事に気付いていなかった。
「先輩もご覧になったはずですよね、計画書を。あのずさんさ、どうご覧になりました?」
実は綾華さんもついさっきまで、生徒会提出の計画書を批判する急先鋒だった。俺よりよっぽどきつかった。
この会議はそもそも正規のものじゃない。予定されていなかった会議で、この日の朝、急にメンバー全員に緊急ミーティングの開催が告知されて、開かれたものだ。もっとも、配布された計画書案があまりにもひどかったから、大体のメンバーにはそれが原因だろうと見当はついていた。
ただ、こんなに大荒れの様相になるとは誰も予想していなかったに違いない。
「直せばいい話でしょ。あたしが仕切るのと計画書と、何の関係があるのよ」
「大ありですよ、先輩。どう直していくにしろ、先輩の力がなければ話が前に進みません」
俺の態度に周囲がはらはらしているのが伝わってくる。
お互いに公衆の面前で毒舌を交わしている姿が目撃されていて、最近新密度を増していると噂されている二人だけれど、さすがに俺の態度は綾華さんの忍耐の限界点を超えているだろう。
綾華さんの目は明らかに殺気立っていて、それが静かで威圧的な表情とあいまって、いかにも恐ろしい。多分気の弱い人間は既にこの部屋から逃げ出したくなっているはずだ。それをじっと見返している俺のでかい態度には、周囲の方がはらはらしていた。
「今必要とされているのは、役職でも経験でもありません。強烈なリーダーシップと高度な折衝能力です」
「あんたがやりゃいいでしょ」
「俺には無理です。どちらも備わっていませんから」
「それだけしゃべれりゃ充分でしょうが。お馬鹿なあたしと違ってずいぶん頭も良さそうだし?」
「頭の出来はこの際関係ありませんし、俺もその点はあなたに期待していない」
「はあ?」
綾華さんが半分キレる。そりゃまあそうだろうな。
遠い席で会長が痛そうな顔をしていて、担任も渋い顔をしていた。
「たとえば俺が指示を出した場合と、あなたが指示を出した場合と、この方々はどっちのいうことを聞いてくれると思いますか?」
俺はわざとらしく身を起こして両手を広げ、部屋中の人々を指すようにした。綾華さんは不機嫌に口を閉じ、俺をじっと睨んでいる。
「こんな生意気な一年のいう事を聞くくらいなら、かつては素行不良で鳴らした人でも、今のあなたについていこうとする人の方が多いはずです。俺が期待しているのはそこです」
「……」
「さらにいえば、あなたはご自身でおっしゃるほど馬鹿じゃない。論理的思考能力と説明能力は水準を遠く越えています」
我ながら偉そうなことをいっている。客観的には聞けたものじゃないけれど、ここはぐっと我慢して続ける。したり顔で。
「この部屋にいる生徒の中でも随一でしょう。危機にある今期の文化祭を救い上げていくには、あなたくらいの個性と能力がトップに立たなければ、実現すらおぼつかないというのが俺の意見です」
「……ずいぶん偉そうにほざくじゃないか、小僧」
綾華さんの、毒にまみれたような口調。なまじ美しい人なだけに、禍々しい口調になると恐ろしくどぎつい。
「二年のあたしに三年の会長たちを差し置いて役職に付けという。実権を握れという。それを世間じゃクーデターっていうんじゃないのか。え?」
薔薇を背負ったような雰囲気でこのセリフを口にしてくれるから、歴史ドラマでも見せられているような気になる。
「そう思っていただいて構いませんよ」
と返す俺も俺だけれど、なにしろ綾華さんとじゃ役者が違いすぎる。せいぜい中学生日記というところだ、と自覚するのも情けないけれど、周りからはどう見えているのか。部屋の隅で控えている由紀に、後で聞いてみようか。いや、客観的な意見を由紀に求めるのは間違ってるか。
「もっとも、当事者全員が会議室にいるんじゃ、クーデターという呼び方は語弊がありますね。合法的に権力委譲を成し遂げようとしているわけですし」
「難しい言葉を使えば賢しげに聞こえるとでも思ってるのか、小僧」
「とんでもありません。ただ、どんな手段を用いてでも、誰かに権限を集中させて、独裁的に事を運ばない限り、文化祭の成功は望めません。それはあなたにもお分かりのはずです」
「緊急避難としての独裁? どこかで聞いたような詭弁ね」
「事態が沈静化するまで独裁的権限を当局が掌握する、今だって世界中で行われていることですよ。アメリカですら、ハリケーンや地震災害が起きれば、非常事態宣言下で民主的統治が一時停止されます」
「今がその非常事態ってこと?」
「そうです」
「大げさね、たかが文化祭の危機でしょ? 生徒の命が危機に陥ってるわけじゃないでしょ? ほっとけばいいじゃない。あたしの恥じゃないわ」
「ええ、現生徒会執行部の恥です。あなたの恥じゃない」
俺が素直に認めてやると、生徒会執行部の面々は、会長ばりに痛そうな顔をするか、むっとしたを顔した。俺は構わず続ける。
「でも、それを救う立場に立てると衆目一致した人間がそれに立ち向かわなければ、その人間の恥に代わってしまいます。あなたの恥にね」
「また詭弁。聞き飽きるわ」
綾華さんは露骨に嘲笑する。それも俺は構わず続ける。
「これでもかなり譲歩しているつもりなんですがね。こうして交渉しているだけでも」
「偉そうに……どこが譲歩だ、聞いて呆れる」
「話し合いで解決しようとはしているじゃないですか。別にこんな面倒な手段、採らなくても良かったんですよ」
「……」
なんとなく俺のいいたいことは察したようで、綾華さんは秀麗な眉目に氷の気配を浮かべながら、俺を睨みつけた。
「生徒指導主任やその上の校長にまで話を通し、かつ生徒会執行部の承認さえ得てしまえば、一時的に生徒会の独裁的権限をあなたに一方的に押し付けることなんか簡単だったんです」
そういって、俺は担任をチラッと見た。担任は深刻そうな顔をして黙っている。
実のところ、既に生徒指導主任には話が通っている。そして担任はそれを知っていた。
「でもそれじゃあまりに一方的ですから、衆議を決してのことだとあなたに理解していただける場を設けようと思ったんですよ」
「……それで緊急招集だったわけ」
「そうです」
すべての黒幕は俺だ、と宣言したことになる。
綾華さんはじっと黙って俺を見ていたけれど、やがて組んでいた足先で、触れそうなほど近くにあったいすを軽く蹴飛ばした。いすに座っていたのは執行部の役員をしている三年生の男子だったけれど、綾華さんの迫力におびえきってしまっていて、その衝撃にも黙って耐えていた。
「……どういうつもりだ、お前は。たかが実行委員の一年の分際で、生徒会を乗っ取る気か」
綾華さんの怒気をこめた声。俺はあえて笑って見せた。
「とんでもない。文化祭実行委員として、文化祭のことだけを考えれば、これ以外に手はないと思っただけですよ」
「この後の生徒会がどうなってもか」
「どうせ改選です。文化祭が終われば現執行部は自動的に解散、選挙後の新体制に今後のことは任せればいいでしょう。今は文化祭ことだけ考えればいいと思いますが」
「ここまで権道を用いて、悪例を残すだけだとは思わないのか」
「現執行部がしっかりさえしていれば、こんな非常手段が通る訳がありません。むしろここまで事態を悪化させた責任を追及したいくらいだ」
俺はそこまでいうと、執行部、特に会長に視線を飛ばした。喧嘩を売るとき同様の目で。
誰も、俺と目を合わせなかった。
いや、一人だけ、真正面から俺の視線を受け止めた人がいた。
会計氏だった。
三年生で一番接触が多かった人、生徒会会計氏。
俺のことを早くから認めてくれていた人だけれど、この人はさすがだった。会長の隣に座りながら事態の推移を見守り、ここに来て俺の本来の企図に気付いたようだ。余裕たっぷりの笑みを浮かべ、ひとつうなずいた。
やっぱりこの人には勝てない。そう思ったけれど、もちろん俺は顔には出さない。
「そろそろ」
と、会計氏が笑顔を消して発言した。
注目が一気に会計氏に移る。
「諦めたらどうだ、永野」
やる気がない執行部を一人で支えてきた人の発言だ。重みがある。
綾華さんもこの人の発言には聞く価値があると思ったようで、高々と組んでいた脚を外した。
「僕も君が本気で取り組んでくれるなら最大限の協力をしよう。佐藤のいうとおり、ここまでの事態になってしまったのは僕らの責任だ。お詫びの言葉もない」
悲痛なほどに、会計氏は率直だった。
「受験生という立場はいい訳にもならないだろう。過去の先輩たちはそれでもやってきたんだ」
会議の空気が沈痛になる。会計氏が旧帝大系の難関を目指していることは有名な話だ。それがいい訳にもならないと自ら断罪した。
「遅まきながら、文化祭成功のために動いていきたい。そのためには、まず体制から大きく変えていくのが一番だろう。非常時だ、多少の権道も許されるさ。目的のためにはあらゆる手段は正当化される、政治学の基本だ」
会計氏が俺の計画に乗ると宣言したことで、空気は完全に入れ替わった。
この殺伐とした会議が終わってくれるなら、どんな結論が出てもいい、と思った人間も多かっただろう。
「佐藤、黒幕としてこのクーデターを教唆した罪は償ってもらう。当然だが」
会計氏は俺に厳しい視線を送ってきた。
怖い目だった。
俺は姿勢を正してうなずいた。何をいいだす気かは知らないけれど、ここまでの事態を作り出した責任は取るつもりだ。どんな形でも。停学だろうがなんだろうがどんとこい、という、変なクソ度胸だけはあった。
会計氏はその俺の気配に苦笑したかったらしいけれど、そんなことはおくびにも出さず、続けた。
「永野がリーダーとしての責任を負ってくれるなら、君には実務面すべての統括役になってもらう。会計分野から企画の取りまとめ、イベントの采配まで。今までとは桁違いの仕事量になる。覚悟は出来ているか」
将軍役の綾華さんに対し、それを補佐し実務を統括する参謀長役を俺にやれというわけだ。
「……いいんですか、それで」
俺が注意深く反問すると、会計氏は秀才という言葉を形にしたような顔に強気な笑みを浮かべた。
「君以外の誰が永野の抑え役をやれるというんだ? 実務面の統括というのは、実はそれが一番の役目になると思うんだけどね。僕は少なくともそんな役回りはごめんだ。みんなもそうだろう?」
会計氏が周囲を見渡すと、人々はあわててうなずいた。
「ということだ。これは引き受けてもらう。君に拒否権はない」
にやりと笑う会計氏に、俺は黙って頭を下げた。
会計氏に屈したように見えるだろう。実際屈する気持ちだったんだから、そう取られて構わなかった。
それにしても会計氏は凄かった。ここからは、彼の独壇場になる。