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水曜日になるとだいぶ体力も戻ってきた。
精神的にも、気にかかりすぎるほどかかっていたことが一区切り付いたから、本来やらなければいけないことに集中できるようになっていた。
由紀のおかげで休んでいた日のノートは出来上がっていたし、提出物も何とか追いついた。
文化祭の仕事の方は、むしろ進みすぎているくらい。なにしろ昨日は現実逃避のために異常な勢いで処理を進めて行ったから、翌水曜日になって改めて自分の仕事量を眺めて驚いたくらいだ。
仕事量はこれで減っていくかな、と思っていたけれど、考えが完全に甘かった。
放課後になって、あらかじめ呼ばれていた職員室に行くと、担任が腕を組んで待っていた。
「お前もうすうす気付いていたとは思うんだけどな」
担任が渋い顔をしていう。
「今年の生徒会執行部はどうもやる気が欠けている。プログラムと計画書、見たか?」
「ちらっとですけど。まだよくは見てないです」
そういえば昨日、綾華さんが告白劇の前に見ていたなあ、と思い返す。
「あれな、去年のをほとんどそのまま流用してるんだ」
「そうなんですか」
何か問題があるんだろうか、と俺は首をかしげた。担任は計画書をいい加減にめくりながら続ける。
「文化部も各クラスも、やることはそれぞれ去年とは違う。使う資材だって、去年とはだいぶ違っていたはずだな」
「ええ、まあ」
違ってはいたけれど、そもそも書類が全然なっちゃいなくて、よくまあこれで回ったもんだと感心していたくらいだから、どこが違うかまでは考えていなかった。そこまで考えていたら面倒さが倍増する。去年までのものは無視して一から作ってしまった方が早かった。
「今年はお前たちが早く動いてくれたおかげで企画が早く上がったからな、計画書もそれなりに練れるはずなのに、この有様だ」
渡された資料を流し読みする。
担任のいいたいことがだんだんわかってきた。
「ひどいですね……確かに」
誤字脱字の嵐、という所はまあいいとして、今年の各企画がほとんど頭に入っている俺からすると、計画書はずさんというレベルじゃなかった。本当にこれを作った奴は、各企画の書類を見ていたんだろうか。各企画のタイトルくらいしか直っていない。
「予算くらい直してくれないと、数字が全然合いませんよね」
「金のかかる部分ですらその状態だ。後は推して知るべしでな」
担任が深いため息をついた。
「突き返せばいいじゃないですか」
「本来ならそうすべきだろうな。でもな」
担任は頭が痛そうな顔をした。
「人がいない。突き返したところで、この手の仕事ができるのは会計くらいしかいない。だがこれを進学組のあいつ一人に任せるのはどう考えても酷だ」
「他の人はどうなんですか? セクションごとに振り分ければ、個別には大した作業量じゃないでしょう」
「それを振り分けて作業を統括する人間がいない。いっただろう、今年の生徒会はとにかくやる気がないんだ」
やる気がないのは知っていた。そもそも俺が綾華さんや由紀と一緒に仕事をすることに決まった日、綾華さんも由紀も、あまりにもやる気がない生徒会の会議進行にため息をついていた。俺も退屈で仕方がなく、由紀などはありえないほどうまい食パンマンを描いて俺の目を驚かせている。
「で、ここからが本題なんだが」
と、担任がいすの上で身じろぎをした段階で、次に出てくるセリフの予想はついた。俺は右手を担任の前に出して制する。
「ちょっと待って下さい」
「どうした」
「俺にその取りまとめをやってくれとか、そういうのは無しですよ」
「つれないなあ。そこまで読めるなら引き受けてくれないか」
案の定、そうだった。
「待って下さいよ、俺は執行部役員どころか、クラス委員ですらないんですよ? 一番下っ端の実行委員です。何でそんな奴が責任者やらなきゃいけないんですか」
「決まっている。人がいないからだ」
担任は断言した。
「このままじゃ一歩も前に進まん。いずれ時間が足りなくなって、ぐだぐだの文化祭がいっちょ上がりだ。出納くらいは上手く行くさ。会計がきちんと手綱を握っているし、学校側の事務が介入して随時監査したっていいんだからな。お小遣い制、ともいうが」
「事務の言いなりの買い物しかできない、計画も言いなりで作成、というわけですか」
「生徒の自治なんてものは完全に失われる。困ったことに、一度その前例が作られると、次回以降もその流れになる。来年から生徒会は権限のほとんどを学校側に取り込まれて、骨抜きになるわけだ」
「いいんじゃないですか? それが時代の流れだと思えば」
「そうは行くか。少なくとも俺が生徒会担当の間にそんな流れにはさせんぞ」
担任はいらいらと指を動かしている。
いいたいことはわかる。
担任が危惧していることはそまま現実になるだろう。生徒の自治なんて美しい言葉は、学校側にしてみれば手間と金ばかりかかって大した見返りもないこと。生徒自身が放棄してくれるのなら喜んで回収し、その分の資金と時間とエネルギーを進学率向上に投じた方が、学校の評価は上がるだろう。
受験料収入と生徒数の確保という、学校の至上命題にとっては素晴らしい知らせに違いない。
でも、そうすれば自由な文化祭なんてものは無くなる。下手をしたら、文化部の発表会のみを行う、形式だけの文化祭に思い切り縮小されたり、最悪は文化祭そのものの中断ということもありえる。
生徒がやりたがらないから。
経費も安上がりになるから。
進学率向上のため有効に使える時間が捻出できるから。
後押しする理屈なんかいくらでも出てくる。文化教育なんていう、生産性に関わらない教育に金を出すなんて、今の時代には合わない。そう考えれば、俺にだってあと二つ三つの理屈はすぐに思いつく。
「各クラスの計画をまとめ上げて資材提供の流れをこれだけ早いうちに作ってみせたお前の実務能力は、職員の間でも評判になっている。素人集団の中に、なぜか一人だけ熟練のプロがいたような、とかな」
「乗せようったってダメですよ。乗りませんよ」
「しかも生徒指導主任相手に予算の上積みを成功させるとか、前代未聞だぞ。それだけじゃない、執行部から予算執行権限の一部を委譲させたり、資材係の範疇をとっくに超えて、文化祭の実行権限の過半を手中にしているって、職員室じゃ豪腕官僚ばりの手腕だと評価されている」
「だから乗りませんって。いくら上げても無駄ですよ」
俺はその線で押し切った。
これ以上のことは勘弁してもらいたいのが本音。
仕事を抱えるのは疲れるということもあるけれど、それより、時間が取られてしまうのが痛い。
一応、これでも彼女持ちな俺。
いくら由紀との出会いのきっかけが文化祭の仕事だったとはいえ、だからといってそれにばかり関わっていてはせっかく手に入れた恋人との時間を味わう余裕もない。
由紀と普通の高校生らしく歩いてみたいし、手をつないで歩いてみたりもしたいし、仕事以外のことで中身の無い話をしてみたい。
今でさえその時間がないというのに。
これ以上、仕事を抱え込むのは願い下げ。
と、思っていた。
担任の前から退出して、今日出さなければいけない資材を運び出すために資材室に入り、段ボール箱を廊下に運び出して一息ついたところで、それを取りに来るはずの二年生を待っている間に、由紀と話をしていた。
由紀はちょうど別件で三年生の教室に交渉に行ってきた帰りで、初めて最上級生のクラス委員と話し合いをしてきたばかりだったから、少し興奮していたらしい。
「あんなことを毎日していたなんて、晃彦くんすごいです」
あんなこと、というのは、文化祭で何かしらの企画を出してきたクラスの担当と話し合いをすること。
今日由紀がしてきた話し合いは、企画は出したもののまだ内容がはっきりしない三年のあるクラスに、早く企画を出し直さないと資材が足りなくなってきてますよ、という催促。
「あれだけの仕事なのに、私、緊張しちゃって上手く話せなくて」
というわりにちゃんと企画書を回収してきてるんだから立派なものだと思うけれど、由紀は俺が今までやってきた交渉を見ているから、そのイメージと自分の交渉との差に驚いたらしい。
「交渉って思っていたりずっと大変です」
「そんなことないよ、由紀だってちゃんとできてるじゃん」
「晃彦くんが前からいってあったからです。私は結局取りに行っただけですから」
「いやいや、あのクラスは俺は何もしてないよ。働きかけてたのは綾華さん」
そう、交渉ごとでは綾華さんが最強無敵だった。
はっきりいって、各クラスとの交渉では、綾華さんが最強。何しろ顔が広いし、あの人が意外な(失礼)くらい論理的態度で迫って、陥落しない相手はいなかった。
俺が豪腕官僚呼ばわりされるなら、あの人は豪腕政治家だ。
俺が行っても話にならないようなクラスでも、あの人が行くと不思議とまとまる。
俺に人徳が無いからだとか思ったりもしたけれど、違う。いや、俺に人徳が無いのは事実だけれど、それ以上に、綾華さんがすごい。
「……そうだよな」
不意に俺は考え込んだ。いきなり目の前で腕を組んで考え始めた俺に、由紀は頭上に?マークを飛ばしていた。
取りまとめる人がいないと担任はいう。
単に仕事をするだけなら俺でもできなくはないけれど、人をまとめていくというのは実務能力とは関係がない。実務能力が褒められるのは嬉しいけれど、残念ながらそれだけで人はまとまらないだろう。
生徒会執行部を差し置いて、文化祭をまとめ上げて行こうと思ったら、実務能力がある人間をあごで使えて、実務能力がない人間を力づくで従わせていく豪腕が必要になる。
いるじゃないか、適任者が。
でもちょっと待て。
あの人を推薦して、たとえばそれが通ったとしてだ。
俺、今までとは比べ物にならないくらいこき使われる羽目になるんじゃないのか?
今でさえ仕事の量にひーひーいってるのに、文化祭全体の取りまとめを実務的に管理していくなんて、考えただけでも恐ろしい。そして、あの人を推薦したら、多分俺はありえないほどいいようにこき使われる。
絶対そうなる。あの人が今さら俺に遠慮なんかするはずがない。
自分がどの仕事をすればいいかさえわかれば、あの人は自分なりに動いてくれるだろうけれど、そこにいたるまでの計画や企画は誰かがやらなければいけないし、あの人が仕事をした後の実行や後始末も誰かがやらなければいけない。
そして間違いなくそれが全部俺に一度回ってくる。それを振り分けて、誰かにやらせて、管理をして、まとめて、後始末をするという作業が全部俺にかかってくる。
俺がぶつぶつと考え込んでいるのを見ていた由紀は、相手をしてくれない俺に不機嫌になるかと思いきや、そうでもなかった。
「……なんかすごいこと考えてます?」
「へ?」
俺が顔を上げると、由紀は顔を紅潮させて、ファイルを胸にぎゅっと抱いた姿勢でわくわくした顔で俺を見上げていた。
「晃彦くんがそういう顔して考えてるときって、次にすごいことしようとしてる気がします」
「いや、別に……」
何をいい出しますかお嬢さん。
「仕事してるときの晃彦くんの顔って好きです、かっこいいです」
興奮して思わず出てしまった言葉らしく、いい切ってから恥ずかしくなったようだ。はっとしたように周囲を見回し、真っ赤になって顔を伏せた。耳どころか、首まで赤くなっていた。
赤くなっていたのは多分俺も同じ。
これを計算でやっているとしたらこの女、ある意味綾華さんより恐ろしい。天然だとしたら、俺は一生勝てる気がしない。
「……すごいことっていうか、自爆ネタを考えてたんだけど」
「どんなことですか?」
うつむいていた由紀が顔を上げる。真っ赤な顔だけれど、相変わらず目がきらっきらしている。
「ちょっとこの学校を乗っ取る計画をね」
「それ、あたしも興味あるなー」
いきなり後ろから声がしたから思わず「うわあ」と叫んでしまった。
「なによ、あんたマジで人の呼びかけに驚くよね」
「心臓に悪い登場するからでしょう、いつもいつも」
綾華さんがいた。
「で、何よ、学校乗っ取るって」
昨日の告白でこの人の態度が微塵も変わるはずもなく、あのことの気配など1ミリグラムも感じさせないのは、いっそ立派だった。
この人にも一生勝てる気がしない。
「俺が乗っ取るわけじゃないですけれどね」
俺は学校屈指の美女二人に囲まれるという奇跡を前に、自分の考えを話し始めた。
この二人に好きになってもらえるとか。
俺、既に人生の運はすべて使い果たしたんじゃないだろうか。
運命の神から明日死ねといわれても、思わず納得してしまいそうな気がする。