40
「あたしは、あきちゃんが好き」
炸裂した爆弾の巨大さは、夢かとも思えた熱の最中の話し合いのときの比じゃなかった。手を握られたときだって、ここまで衝撃は無かったはずだ。
俺は口の中がからからに乾いていた。緊張で足が震えそうになる。
とてつもないことが起きている。
「本当は、由紀なんかに渡しておくつもりも無いのよ。でもそれはそれであたしのプライドやポリシーが許さないから、由紀から奪うつもりはないわ。でも」
綾華さんの瞳がじっと俺の目を貫いている。目なんかそらせない。
「好き。生まれて初めて、男を好きになった」
女性としては背が高い綾華さんとは、由紀ほど視線の角度はない。まっすぐに射込まれる視線が、直接俺の脳に侵入してきそうだ。頬に差した血の色が、唇の赤さが、なにより俺の姿を映して動かない瞳の色が、俺を縛り付ける。
「話してて楽しい。一緒に歩いていると胸が痛くなる。ちょっと会えないだけで胸がざわざわする。遠くに見かけただけでどきどきする。会える予定があるだけでわくわくする」
そこまでいうと、視線を外して下を向いた。
俺は自分が呼吸を忘れていたことにすら気付いていなかった。息苦しさに思わず大きく息をついて、その音に自分でびっくりする。
そのびっくりに更なるびっくりが重なる。
綾華さんは、俺の両手を自分の両手で捕まえていた。由紀のそれより長い指が、俺の両手の中で動き、指と指が互い違いに結ばれた。
「こうして手をつないだら、わかるでしょ?」
瞳が再び俺の目を射抜く。
わかりたくなかったけれど、わかってしまった。
綾華さんの手から、震えが伝わってきた。細かく、不規則に、綾華さんは震えていた。
「こんなこと、初めてだわ。自分でも自分がどうなってるかわかんないの」
つないだ手はしっとりとしていた。汗がにじんでいた。緊張しているのか、冷たい。
そして、鼓動が伝わってくる。激しく、早く、大きな鼓動。
「広瀬に抱かれてるときだって、どんなに興奮していたって、こんなにどきどきしたりしなかったわ。人を好きになるってこういうことなのかって、初めてわかったの」
綾華さんの声が、俺の心を砕いていく。何も考えられなくなっていく。綾華さんの鼓動が、俺の体を溶かしていく。
「あきちゃんのせいだよ。こんなもの、気付かなければ良かったのに。気付かなければ、ごまかしていられたのに」
胴が震える、という感覚。初めて命がけの喧嘩をする羽目になったとき以来じゃないだろうか。
「もうごまかせない。あきちゃんを好きってことはごまかせても、人を好きになる恐怖と快楽は、知ってしまえばもうごまかせないわ」
そこまでいうと、綾華さんはそっと体を前にずらした。そこには俺の体がある。
綾華さんの髪が鼻先に来る。綾華さんは自分の額を俺の首筋に埋めるようにした。綾華さんの香りが濃密に俺の鼻腔を刺激する。
「触れるだけで意識が飛びそうになるのよ。あきちゃんの指で触れられたらって思うだけで何も考えられなくなる」
俺の指を確かめるように、握っていた手を離し、指先で俺の指を叩くように触れ、そして腕を上げる。
そのまま、綾華さんは俺の腕の隙間に手を差し込んで、俺の胴を抱いた。
綾華さんの細い体がしなやかに俺の体に密着する。
「こんな風に抱き合ってみたいって、あたしがどれだけ願ってたか、わかる?」
柔らかすぎる胸が、ぐっと押し付けられている。片手が俺の後頭部の辺りをまさぐるようにしている。もう片方の手は俺の背中をつかんでいる。
「あきちゃんの鈍感さは酷だよ」
そういうと、綾華さんはすっと頭を上げ、背を伸ばして、俺の首筋に噛み付くようにキスをした。
全身に走る衝撃。
髪の先まで電気が走ったような。
「……あたしがこんなに好きなのに、気付きもしないで由紀に走っちゃうしさ」
切ない声で、綾華さんは愚痴った。耳元でささやくから、その息が俺の感覚を麻痺させていく。
「自覚も無いくせにどんどんいい男になっていくって、どんな詐欺だよ。ほんと、最低な男」
俺を抱く腕に力が入る。結構強い力で抱きしめられて、俺は息が詰まった。
「悔しいから、せめて自覚は持ってよね。あんた、今、あたしも由紀もめろめろになるくらいのいい男なの。優しさがいい男の条件だと勘違いしてるその辺の童貞少年とはレベルが違うの」
わずかに毒を吐きつつ、綾華さんは俺の首筋にもう一度キスをする。
「……今のあたしが、一番したいことってなんだか、わかる?」
言葉と共に出てくる息のかけらが俺を熱くする。答える余裕なんかない。わずかに首を振る。綾華さんは俺の様子を伺いながら、ふふ、と笑った。
「あきちゃんを押し倒しちゃうこと。今すぐ。このまま脱がしちゃう。あたしも裸になって、二人で抱き合うの」
綾華さんの腕から力が抜ける。
その体が俺から離れた。
体と体の距離は30センチくらい。
「しないけどね」
そういって、くるりと背を向けた。
「そんなことしたら、あたし、自分が一生許せなくなる。自殺したって足りなくなる。後悔することがわかってて突っ走るほど、あたし、馬鹿にはなれないんだよね」
綾華さんはそういうと、すっと離れていった。
体温が、遠くなった。
触れ合っていた心も、離れた気がした。
とてつもない寂しさの発作に襲われて、追いかけそうになって、俺はとどまった。
綾華さんの背中が、俺に何かを求めていた。
それがわかってしまった。
綾華さんは、半分は俺に抱きしめられたがっている。半分は、俺に拒絶されたがっている。
気持ちを伝えた後、どろどろに溶け合いたい気持ちと、それを拒絶する気持ちとが、綾華さんの中でせめぎあっている。
それを、綾華さんは俺にジャッジさせようとしていた。
細い肩だ、と思った。背中から腰にかけての曲線の頼りなさはどうだろうか。守ってあげなきゃいけないと本能が叫ぶ。守らせて欲しいと欲求が頭をもたげる。
蛍光灯の明かりの中にたたずんでいる綾華さんのシルエットがたまらなくいとおしい。
「……帰ろう」
俺の声が生徒会室に響いた。
他人がいっているようだった。
「途中まで送るよ。酷かもしれないけれど」
びくっと身を縮ませた綾華さんに、俺は声をかけていた。
「気持ち、もらった。俺がどれだけその気持ちに震えたか、伝わったよね」
わずかにうなずいたように見えた。
「綾華さんほどいい女、俺は知らない。あんな気持ちもらっちゃったら、こっちこそ押し倒したいよ。抱き合いたいよ」
俺は机の上の荷物を手に取った。
「でも、綾華さんがあんなに自分を裸にしたんだから、俺も自分を裸にする」
綾華さんの荷物も持つ。
「欲求だけでいったらとっくに綾華さんを押し倒してるけど、でも、今の俺、由紀のものなんだ。理屈でも強がりでもないよ」
そのまま綾華さんの横を抜け、前に回る。
「由紀を裏切ったら、俺も自分を一生許さない。自殺したって足りなくなる。後悔するのがわかってても突っ走る馬鹿だけれど、今の俺が突っ走る方向は、綾華さんの方向じゃない」
綾華さんが顔を伏せている。目は見えないけれど、涙の雫が落ちていくのは見えた。
「綾華さんの強さも弱さも好き。多分、順番が違ってれば、俺の幸せは綾華さんの中にあったんだろうと思う。でも、そうじゃない順番で巡り合っちゃったんだ」
俺は両手に荷物を持ったまま、綾華さんに語りかけた。
「俺は由紀しか見ない。ごめん。二人一緒は無理だ」
「……当たり前だろ」
綾華さんが声絞り出し、そして。
俺の脚を思い切りよく蹴飛ばした。
「あいでっ」
蹴飛ばすというより、蹴った足を振り抜く、見事なトウキックだった。サッカーボールなら回転もせずにキーパー手前で沈み込むスーパーキックだろう。
「由紀を不幸にするとか、んな選択したらその場で刺し殺してやる」
「いだいいだいっっ」
これが本気で痛かった。蹴られた左足が飛び、俺は両手の荷物を落とさなかったのが奇跡と思えるほどにバランスを崩した。そしてそのまま右足だけで一歩飛びのき、崩れ落ちる。
「あんたのこと大好きだけど、それと由紀の話とは別問題だわ。由紀泣かせたら本気で殺しに行くからね」
「充分殺されかかっとるわ!」
あまりの痛みに涙ぐみながら、俺は叫んだ。女子のキックでも、あれだけ豪快に振りぬかれたら、タイミング次第では骨まで逝ってしまうだろう。
俺があまりにじたばたと身悶えているので、ようやく綾華さんは自分の攻撃がどれだけクリティカルヒットだったか理解し始めたらしい。
目尻の涙を指ではじきながら、ちょっと心配そうな顔をした。
「大丈夫?」
「っ……!」
返事もできない。息が詰まるほど痛かった。
それがなぜか綾華さんの琴線に触れたようで。
さっきまでの異常な雰囲気を自分の笑い声で吹き飛ばそうとするかのように、綾華さんは盛大に噴き出した。
「あっははは」
笑い事じゃない、とはいわなかった。
あの泣き笑いの顔を見ていたら、いえるはずがないじゃないか。
脂汗を流しながら、俺は立ち上がった。宣言どおり、俺は途中までは綾華さんを送っていかなければならない。