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熱で奪われた体力ってのは、短期間でも相当なものだったらしい。
放課後まで体力が保たなかった。
お昼休み、由紀と二人で弁当は食べたけれど、それが即回復にはつながらず、あの大騒ぎの中で結構疲れていたらしく、午後の授業が始まるとだるくて眠くて仕方がなかった。
最後の授業はほとんどつっぷしていた。保健室に行って寝ていればよかったのだけれど、風邪は校内でも流行っているらしく、午後になった段階で一杯になっていた。
かといって、帰ろうにも足が無い。共働きの両親を、この程度のことで呼び出すのも気が引けるし、タクシーを使って帰るという頭は最初から無い。だいたい、帰っても一人で寝ているだけでは気が滅入る。
「ちょっと、大丈夫?」
隣の席の女子が心配してくれたけれど、大丈夫と聞かれて「無理」とも答えられないだろう、この場合。
「死にはしないと思う、今日のうちは」
「明日死ぬのかよ」
「短い付き合いだったな、今までありがとう」
「気分出しすぎだろ、早く帰って寝なよ」
「そーするわ」
減らず口は風邪でも減らないもんだね、とその子は笑っていた。まったくだ。
すぐ立ち上がる気にもならずにうだうだしていると、由紀が教室に入ってきた。
入って来た時の顔は見ていないけれど、声をかけて来た様子を見ると、俺が机に伏しているのを見て驚いたらしい。
「晃彦くん、大丈夫ですか!?」
ずいぶん慌てた声を出していた。
「大丈夫だよー」
あからさまに力が入っていない声を出す。伏したままだから、何をいっているか由紀には聞き取れなかったらしい。
「どう見ても大丈夫じゃありません、早く帰りましょう」
「帰りたいのはやまやまなんだけどね」
俺は体を無理やり起こしながらいう。
「足が無い」
「迎えに来られる人はいませんか?」
「いないな、今の時間帯じゃ。無理すれば呼べるけれど、無理したくないし」
そういうと、由紀は少し考えたようだった。
そのうち、携帯を出した。
「……あ、綾華さん、由紀です」
俺を帰らせる件を話し出す。
綾華さんはまだ教室にいたらしく、休みについては了解といっているらしい。
「私もわかる範囲で進められますし、仕事が完全に止まることはないと思います」
俺が采配しなくても済む仕事はいくらでもある。今日はそれを終わらせていくことにしたようだ。
「すまないねえ、俺がこんな体なばかりに苦労かけちまって」
俺はボケてみたが、タイミングがあまりにも悪かった。由紀は電話中だし、相手は綾華さんだ。話を中断してまで突っ込んでくれるはずがない。
うーん、この間の読めなさも体調のせいだと思いたい。
「生徒会に集まっている書類はどうしたらいいですか?」
由紀は俺がいったことはとりあえず無視することにしたようで、尋ねてきた。
「今日できるものだけもらってきて。それ以外は明日俺が処理するよ」
俺も無かったことにして答える。
「で、もし何かわからないことがあったら、今日は棚上げにしといて。今日中にどうしても必要ってことはないはずだから」
「わかりました」
こっくりうなずいて、電話の話に戻る。
しばらく話していたけれど、その話はよく聞こえなかった。耳には入っていたれど、言葉の意味が頭に入ってこない。我ながら重症だ。もしかしたらまた熱が上がっているのかもしれない。
綾華さんとの電話を終えた由紀は、俺に背を向け、小声で次の電話をかけ始める。
ただでさえ頭がぼーっとしているのに、由紀の小声なんか耳に捉えられるはずがない。何の電話か、誰が相手か、まるでわからない。
そのうち、電話は終わったようで、あまり焦点も合わない俺の目の前で、由紀がくるっと振り返った。
「さあ、帰り支度しましょうね」
優しい声。もともと由紀は優しい声だけれど、わざとらしさが微塵もない、聞いていて思わず涙ぐみたくなるような声だった。
「荷物はまとまってますか?」
「そもそも出してないから大丈夫」
「お弁当は入ってます?」
「なんかしまったような気がする」
「立てますか? 無理しなくていいですよ」
「無理はしないけど」
俺はゆっくり立ち上がった。勢いよく立とうとしてできなくはないけれど、立ちくらみを起こしてもみっともない。
「歩けますか?」
由紀が俺の腕をとって支えようとしたから、俺は笑った。
「そんなんしなくても歩けるよ。歩けないくらいひどかったら、さすがに俺もとっくに帰ってる」
後で考えてみれば、由紀は付き添いを言い訳にして俺と腕を組んで歩いてみたかったのかもしれない。俺はそこまで考え付く余裕がなかったから、振りほどきはしなかったものの、仕方なく離れようとした由紀の手を止めることまではしなかった。
「じゃあ、行きましょう」
由紀はそれでも気丈に背を伸ばし、俺の背にそっと手を当てた。
行くといってもどこへ行くのか。足も無いのに。保健室か? それともタクシー呼んじゃった?
考えがまとまらないまま、由紀と一緒に校内を歩いていく。
体調が悪いとはいえ、そんなにひどくふらふらしているわけじゃないから、廊下を歩くのに不都合はない。足元が確かじゃないほどひどければ、そもそも学校に来ていなかっただろう。
昇降口で靴を履き替え、外に出ると、由紀は俺を校門そばのバス停のベンチまで連れて行った。
このバスに乗ると明後日の方向に行ってしまうから、今まで一切無縁の乗り物だった。
「ちょっとここで待ちましょう」
座りながら由紀がいう。何を待つんだろう。
由紀も自分からはあまり物をいわないし、俺も口を開くのが億劫だったから、通り過ぎていく人の波を見つめているだけの、ひどく静かな感じがする時間が流れた。
といっても、そんなに長い時間が経ったわけじゃない。
しばらく待っていると、そのうち由紀がすっと立ち上がった。
「お待たせしました」
由紀と腕を密着させながら座っているのが心地よくて、半分意識が飛びかけていた俺は、ぼんやりと何を待っていたんだっけ、と思った。
目の前に車が止まっていた。
見覚えがある。どこで、という思考より先に、映像が浮かんできた。由紀や綾華さんとの日々が始まったばかりの夕方、ラーメン屋でおごらされた日の光景。
あの時、見た車だ。由紀を迎えにすっ飛んできた車。綾華さんの華麗なご挨拶に恐縮していたのは誰だっただろう。
運転席から降りてきた人の顔を見て、俺はやっと驚いた。
由紀の父親に間違いない。
以前、会話の中で聞いてはいた。由紀の家は代々の農家で、夕方は割合時間があるから迎えに来てくれることが多いと。
こんな時に彼氏デビューかよおい、と思ったりもしたけれど、なにしろ頭に濃い霧がかかってしまっている状態だから、あまり考えも覚悟もまとまらない内に立ち上がった。
渋谷家のお父様は、俺を見るなり厳しい顔をするんじゃないかという予想を覆し、人の良さそうな顔に心配そうな表情を浮かべていた。
「大丈夫か」
今日何回目かのセリフを聞いたけれど、その声も人が良さそうな声。
「熱があるんじゃないのか」
「多分そうだと思う。触っても熱いし」
「すぐ送ろう。病院じゃなくていいのか」
俺の目をまっすぐに見てくるから、俺は思わず頭を深く下げた。
「帰れば薬もありますし、病院じゃなくて大丈夫です」
「娘から話は聞いている。乗りなさい」
そういうと、由紀のお父様は運転席に回った。その間に娘は後部座席のドアを開けている。
「晃彦くん、乗って下さい」
「いいのか?」
「もう呼んじゃってるんだから遠慮しないで下さい」
確かに今遠慮しても仕方がない。
「じゃあご好意に甘えてしまおうか……」
失礼します、と断りながら、国産高級セダンの後部座席に乗り込む。
「だいぶお世話になっているそうだけど、うちの娘は失礼なことはしとらんかね」
乗るなりいわれたから身構えそうになったけれど、残念ながらこの日一番体調が悪い時だったから、身構える気力がそもそも無い。
「とんでもないです、今日もこうしてお世話になってしまって、由紀さんにはいつも感謝しています」
如才ない挨拶をするのが精一杯だった。
となりに由紀が乗り込み、車は動き出した。道は由紀が知っているから、指示を出している。
「前から君の話は聞いていたんだよ」
といわれたから、俺は思わず由紀の顔を見た。由紀は「なにいってるのよ」とでもいいたげに口をパクパクさせていたけれど、空気を読まず、由紀のお父様は続ける。
「特に近頃はべた褒めでね。永野家のお嬢さんもそうだが、君たちの話をしている由紀が楽しそうでね、我が家じゃ君たちはすっかり有名人さ」
「……恐れ入ります」
まったく恐れ入る。由紀はついに言葉を発した。
「ちょっと父さん、そんなこと今いわなくていいでしょう」
父さんと呼んでるんだ。初めて聞いた。
「褒め言葉なんだからいいだろう。佐藤君の何がすごいといって、どんな相手とでも普通に話せて、仕事もバリバリできて、それでいて気取ったところが少しもない所だそうだ」
「ちょっと!」
あ、本気で怒り始めた。しかしお父様、まったく空気を読まない。
「今まで会ったどの高校生より大人っぽいそうだが、確かに君にはそんな雰囲気がある。自分が大人だと思い込んでいきがっているガキじゃない、だからといって子供の立場に甘えていない、そんな雰囲気だな」
このぼーっとした状態のガキを相手に、この人は何をいっているんだろう。
などと思っていると、由紀があきらめたようにため息をついた。こういう人だ、とでもいうかのように首を振る。
「何しろ言葉遣いが礼儀正しいじゃないか。近頃の高校生とは思えんよ。大したものだ」
お父様の口調に、俺は何かを感じた。でも、その何かがなかなかつかめない。頭がうまく回らない。
「そこ右」
きわめて短く、由紀が指示を出す。視線を動かすのも面倒になっていたから見ていないけれど、まあ、由紀の表情は想像が付く。うんざり、というものだ。
「うちの娘はこんな子だろう? 引っ込み思案でなかなか自分の気持ちを前に出さんから、君みたいな子にいい影響をもらえればそれに越したことはないと思ってるんだよ」
「悪かったわね」
ボソッと由紀がいう。親が相手ならこの程度の口は叩くらしい。
というか、この子は結構自分の気持ちを前面に出しますぜ。どころか、時々びっくりするほど突っ走りますぜ。
忠告してあげたい気にもなったけれど、これは口にすべきじゃないだろう。だいたい、運転席に届くほどの声を上げるのが億劫だった。
「今度、うちにも遊びに来なさい。妻が君の顔を見たがっている」
この言葉で、俺は突然理解した。さっき感じたものは何か。
ああ、この人は自分を納得させようとしているんだ。
たぶん、俺が由紀の彼氏になった人間だと、この人は勘付いている。由紀がそれをいいたいけれどいえないでいることも勘付いている。そして、俺に対していいイメージを持つことで自分を納得させて、俺を迎え入れて、取り込もうとしている。
頭から拒否するより、頭から受け入れることを選んだんだ。
その方がダメージが少なくて済むから。
相手を受け入れた方が、娘にとってもダメージが少ないと踏んだんだろう。
たとえば俺がつまらない奴だったら、一度受け入れた上で、そのつまらなさを娘にしっかり伝わるように暴いていけばいい。別れるにしても自分の決断の方がいいに決まっている。逆につまらない奴でなければ、さらに自分の思う方向に育てていけばいい。
その自信があるんだろう。
この人は大人だ。愛する娘に関わることですら客観的に見て、より良い方向に導こうとしている。
ほんの短い時間しかまだ会ってはいないけれど、この人は由紀の父親という以前に、懐の大きさというところで、充分尊敬に値する人に思えた。
「……ぜひ、お伺いします。由紀さんを育てたご両親なら、失礼な言い方ですけれど、お会いしていてとても楽しくなりそうですから」
熱のせいではなく、武者震いがする。意外なところに、意外なほどの人物がいた、という思い。カケスさんとはまったくタイプが違うけれど、この人も多分、俺がついていきたいと思わせてくれる人だ。
「嬉しいことをいってくれるじゃないか。由紀、文化祭が終わったらでかまわんから、セッティングしなさい」
風邪のおかげで、俺は思いもしない出会いを得られた。病気も、時によってはなかなか悪くない。
なんて思ったりもしたけれど、やっぱり気が張っていたせいか、家についてから一気に疲れが出て、帰ってきた妹に「ちょっと、言い残すことがあるなら聞いておくよ」といわれてしまうような有様に成り果てていた。
病気はいかん。