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「お前、案外かわいそうな奴だよな」
俺は開口一番そういった。完全に上から目線で。
月曜日、朝、学校の昇降口で。
偶然会ったのは、綾華さんのことで俺を脅し、広瀬さんの車の助手席から俺を完全に馬鹿にした視線で見て、その後カケスさんに脅されていた女。名前を覚える気にもならない、その下卑た顔を見た瞬間、俺の理性はあっさりと消滅していた。
いわれた方は俺の顔を見て絶句している。
「憧れの綾華さんの彼氏に取り入ったまでは良かったけれど、そこから先は崖っぷちもいい所じゃないか」
「なんなんだよてめーは」
「口の利き方に気をつけろ。俺はお前がやったことを許す気は無いんだからな」
身長は俺の方が30センチ高い。その俺がわざと見下ろすようにしたら、相手にとってはかなりの威圧感だろう。
周囲が好奇の目で見始めたけれど、知ったことじゃない。
「綾華さんはお前を潰す気でいる。綾華さんにそんなことさせても仕方ないから、先に警告しといてやる。潰される前に逃げておけ」
女はまた絶句している。
「いいか。俺は警告してやったぞ。疑って破滅しようが、殺されようが、俺はもう知らん。好きにしろ」
いうだけいって、俺は背中を向けた。
大した底意は無い。
確かに腹の立つ顔だし、見なくて済むなら一生見なくていい顔だったけれど、同じ学校にいて、しかも同じ学年にいるということは、今後2年半近くは顔を見る機会が残されているということだ。
中途半端に区切っておくと後に引きずりそうで嫌だった。
だから、いっそ修復のしようがないくらい断絶しておきたかった。
これでまだ何かいってくるようなら大した根性だし、その時は俺の全身全霊をかけて潰すまで。これで何もいってこなくなれば万歳三唱。
俺はお前を虫けら程度にしか思っていない。そう目で伝えたつもりだ。
朝の光景はギャラリーが多かったから、すぐにぱっと噂が広まった。
何しろ噂の本人だから、どんな噂が流れているかはむしろわかりにくかったけれど、気にはならなかった。体調がまだ戻っていないから精神力なんて無いに等しかったけれど、それを凌駕するくらい、腹が立っていた。
「お前、やっぱ怒らすと怖いな」
と、小学生時代からの友人がいう。
「顔色悪いからなおさらだろ」
俺が笑ってみせると、どこまで本気でいってるのかわかんねえよ、といって友人は苦笑した。
この話は上級生の素行の悪いお兄様方の耳にも入ったらしく、もともとあの女とそのグループは、綾華さんの威を借る狐のように思われて嫌う人間が多かったこともあって、なぜかおおむね好評だった。
「ああいう女どもを脅すとか、結構できないもんだぞ」
「意外にいい度胸してるよな」
褒めてるのかけなしてるのかよくわからない言葉が、昼休みなどに怖いお兄様方からかけられた。
「女を脅した時点で最低人間だっていわれるかと思ってましたけれどね」
「相手によるだろ。あの馬鹿どもには誰かがいってやらなきゃいけなかったしな」
「先輩方は?」
「やめろよ、女脅すと後が面倒だ」
「俺が面倒抱え込んどけと」
「当事者だろ? 永野の絡みで色々あったらしいじゃないか」
「ええ、まあ」
「なら、適役だろ。せいぜい怖がらせておけ。将来役に立つ」
「何の将来に役立つんでしょうか」
「お前がこの学校シメるときにだよ」
「シメるとかありえないですから。つーかシメるとかありえませんから」
「うぜえ、2回いうな」
男子どころか、女子にも好評だった。
「あきちゃーん、大活躍だったんだって?」
綾華さんのお友達の皆様までご登場。
昼休み、由紀と一緒に弁当後の時間を中庭で過ごしていたのだけれど、次から次へ校内の実力者とされる方々のご来訪を受け、由紀なんか明らかに硬直している。
「なんでしょう」
「しれっとしちゃってー。あの小娘にがつんとかましたって、すごい噂になってたよー」
「なんか絡まれっぱなしじゃ面倒かなって思って、いいたい事いっただけですけれどね」
「それができんからみんな困ってたわけよ。いやあ、よくやってくれた。さすが私たちのあきちゃん」
「どさくさに紛れてなにいってんすか」
「君ならやってくれると思ってたよ。ご褒美にお姉さまたちの熱い抱擁とキスなんてどう?」
「正気ですか? まだ寝言には早いんじゃないですかね」
「いうねえ、さすが未来の番長」
「な、なんですか、そのあだ名は」
「だってー、綾華の『もと』彼氏を脅して帰しちゃったんでしょー? あの人結構力ある人じゃんかー」
「相手が大人だろうがびびらず返り討ちにするとか、意外にやること大胆だなって評判ですぜ、だんな」
「ちょっと、やめてくれませんか、本気で頭痛くなってきた」
「大丈夫? お姉さまが優しーく介抱してあげるわよ」
「ほんと勘弁してください、せっかく彼女できたばっかなのに、いきなり失恋さす気ですか」
由紀は硬直を通り越し、顔色は漂白されている。
「大丈夫よう、振られたらあたしたちが喜んで拾ってあげるってば」
「……だ……」
由紀が凍った声を出した。
つられて、思わず場が凍りつく。
由紀はがんばった。もう、由紀にしちゃありえないほどがんばった。
「……だめです……晃彦くんを奪わないで下さい……」
ぎゅっと両手を握り締め、メガネの奥の目をぎゅっと瞑って、細い肩にこれ以上力が入らないくらい力を込めて、ひとこと。
その途端、周囲は大活況。
「いやあああああっっ、可愛いっっ」
「なにこの子、やばい」
「ねえねえ、抱きしめていい? 持ち帰っていい?」
「由紀ちゃんだっけ? あなた、お姉さん欲しくない? 欲しいよね? 欲しいのね!」
おもちゃが俺から由紀に代わったらしい。
「ちょっと、マジでおびえてますぜお姉さま方」
「それがいいっっ」
「やばいやばい、これめっちゃ貴重品じゃね?」
「すごいもの発見しちゃったよ、これはもう、可愛がってあげるのがお姉さんとしての義務だよね」
「てかもう持ち帰る。誰がなんといおうが持ち帰る」
誰が止められるんだ、こんなもん。
あまりの馬鹿騒ぎに周囲の目が注がれるけれど、もちろん、誰一人目を合わせようとしない。
由紀は凍り付いて動けない。その由紀を囲み、お姉さまのボルテージは上がりっぱなしだった。
こりゃ実力で引っこ抜いて逃げるしかないかな、と病み上がりには無謀な体力勝負を覚悟しかけた時、救世主が現れた。
こんな事態を収められる人間なんて、一人しかいるわけない。
「こら、あんたたち、いい加減にしな。その子の心臓止める気か?」
苦笑しながら、綾華さん登場。
相変わらずの美形ぶりはもう描写する必要もないくらいで、ごく自然に俺の反対側の由紀の隣に割り込んで座った。
「ごめんね由紀、こいつら加減ってものを知らないから」
といいながら、由紀の頭を抱くようにしてなで始めた。
「なによー、由紀ちゃん独占する気かー?」
「あたしが最初に見つけた子だよ。この子もあたしが好きなんだから、余計な手出ししないで。ね、由紀」
最後に由紀に問いかけると、由紀はさすがに綾華さんの大ファンを宣言しただけあって、かろうじてうなずけた。
「ずるーい、綾華が相手でもそれは許せない」
「世界の宝だよ、この子は。独占とかありえないし」
「お前らどんだけ由紀にべた惚れなんだよ」
綾華さんが噴き出した。
「あきちゃんには悪いけど、由紀ちゃんの方が大事」
「そーそー、あきちゃんとかもーどーでもいいしー」
「ひでーなおい」
思わず俺も噴き出す。
「なんなんすかそれ。ついさっき褒めたくせに」
「それはそれー。これはこれー」
「あきちゃん、覚えとくといいわ、女心ってのは移ろいやすいんだなあ」
「あんたの心が移ろいやすいんでしょ、一緒にすな」
すかさず綾華さんが突っ込む。そして、
「とりあえず、由紀は本当にこういうの苦手なんだから、ほどほどにしてあげな」
と由紀の頭を丁寧になでながらいうと、お姉さま方は渋々あきらめた。
「ちぇー、こんな素材、今世紀最高の発見だったのになー」
「すっげーつらい、すっげーつらい」
「かわいいっていってただけじゃん」
「綾華ずるいよな、おいしいところ全部一人で持ってく気だよ」
あきらめた、といっても、文句ぶーぶー。これもこの人たちなりの物の楽しみ方らしい、ということは、前回の来襲で学習しているから、いちいち気にしないことにする。
「体は大丈夫? 結構げっそりした顔してるけど」
「熱は引きました。食欲がまだ戻りませんけれど」
「あんま無理しないでよ。今週は後半の方がきついんだから」
由紀の頭をなでながらいう綾華さんに、金曜の夜、痛々しいほどの笑顔を見せて帰ったあの面影は無い。
流れから考えて、土日に広瀬さんやその周囲と何も無かったとは考えにくいんだけれど、それも感じさせない。
「今週倒れたらさすがに恨むぞ」
「いやあ、有能な先輩がいるから安心して休んでいられそうで……」
「ふざけんな、まじでいってんの」
すかさず由紀をなでていた手が伸び、俺の頭を軽く小突いた。小突く、というより、関西風の突っ込み。
「おお、未来の番長様になんてことを」
お姉さま方が無責任に喜んでいる。
「なんだそれ」
初めてその表現を聞いたらしい綾華さんが笑った。綾華さんのイメージどおりの、あでやかで曇りのない笑顔だった。