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早く婿を取って男の子さえ産ませれば、あの子の役目は終わる。
そういう空気を感じるようになったのが小学校低学年の頃だというから、酷な話だ。
「生殖器としての役割しか、期待されてないんだなってのが、初潮前にわかっちゃうってのもなかなか乙なものよ」
面白そうにいっているけれど、当時の綾華少女にとっては大事件だったに違いない。性そのものが汚らわしいもの、恐ろしいものとしか思えないような年代に、自分自身がそれしか期待されていない存在だったとしたら。
「男女平等なんて口ではいっておきながら、女の方がね、婿とって男産めばお前なんか用無しだ、みたいなこと平気でいってたよ」
本当だとしたら、それをいった女の性根の醜悪さは、聞いているだけで胸が悪くなってくるレベルだ。
「そういう中で育てられるとね、外に出られなくなるのよ。実際の話じゃなく、精神的にね」
綾華さんの口調は淡々としていて、昔のことはもう自分の中で割り切れているらしいことは伝わってくる。
「両親にも祖父母にも、色々なところに連れて行ってもらったけれどね、家に帰ればわけわからん親戚連中やらなんやらがうようよしてるわけよ。そういう連中はあたしに変な虫が付かないようにって、近所中の男の子の家に行っては脅すわけ。お前の家の子が綾華に手なんか出してみろ、この土地じゃ生きられんようにしてやるぞって」
「小学生相手に?」
「小学生とその親相手に。そりゃあ浮くわよね、学校で」
「浮くでしょうね、盛大に」
なるほど、綾華さんが常に孤高の雰囲気を保っているのは、本人の努力というより、周囲が孤高に仕立て上げてしまっていたんだ。今時そんな理屈が世間で通るはずも無いけれど、そんな連中が周りにいる子に、我が子を近付かせる親なんかいるわけがない。
「そこに現れたのが広瀬なわけね」
その単語が出てきて、俺は自分たちが何の話をしていたか思い出した。別に永野家の旧家談を聞いていたわけではなく、綾華さんが広瀬さんと付き合っていた理由について聞いていた。
「10歳違うと、そもそも外の世界との付き合い方が、小学生なんかとは比べ物にならないのね。それがまず新鮮だった。それから、あれは広瀬の甲板背負ってきていたから、いってみれば婿候補の一人として見られててさ。他の男たちほど牽制されてなかったの」
「自由に会えた?」
「自由ってほどじゃないけど、家庭教師役も引き受けていたから、一番接点が多かったわね」
「それが恋に、というわけですか」
「というわけですよ」
綾華さんは苦笑している。
「ありがちでもね、大切だったのよ。彼の目を通して、あたしは初めて世間を見れた気がしたの。彼にすがって、初めてあたしは自由に外の空気を吸えた気がしたのね」
それが、綾華さんの「彼だけが大人への扉を開いてくれた」という言葉につながるのだろう。
「それで、外の世界イコール彼になって。外の世界の魅力は彼の魅力に感じられたのよ」
なるほど。そりゃ、魅力たっぷりに思えただろう。
「でも、あれも結局坊ちゃん育ちなのよ。苦労知らずで、世間の常識って物を知らない。中学生になったばかりの女の子をよ、普通日付が変わるまで連れまわして遊ぶ? しかも行き先が都内のクラブだったりするのよ?」
「それは……まあ、しないでしょうね」
「それを悪気なくしちゃうのよ、あの坊ちゃんは。うちの家族も怒ればいいのに、現代的な家族像とやらに逆らいたくないとかわけわかんない理由で放置よ」
「なんですか、それ」
「うちの馬鹿親父が、友達みたいな関係が理想だとか馬鹿なこといって放任したの。育児放棄だろっての」
綾華さんの話は完全に家族を突き放していて、言葉も平気で難しい言葉が出てくる。綾華さんなりに、自分というものを作り上げるために、読書したり考えたり、いろいろ努力してきたのかもしれない。
「母親は一族の嫁へのプレッシャーに負けて精神病一歩手前の有様だし、自分のせいでそうなってるってことに気付かない馬鹿な親父には、それを忠告してやれる人間もいないと来てるし」
綾華さんがぎゅっと手を握っている。口元の表情も恐ろしく固い。
しばらく、そこで言葉が途切れた。
ふ、と綾華さんは息を吐いた。
「高校に入ってしばらくしたら、なんかもう、馬鹿馬鹿しくなっちゃって。あんな男がフィアンセみたいな顔であたしのこと抱いたり、あたしがどんなに叫んでも気付こうともしない親がいたり、いい加減馬鹿馬鹿しくてさ」
「ぐれましたか」
「ぐれましたよ。盛大にね」
どれだけ盛大にぐれたかは、去年のこの学校のことを知らないはずの俺たちでも、噂で聞いている。成績はいいのに、そして今では遅刻はしないわ生徒会活動に真面目に取り組むわで、文句の付け所がない優等生の癖に、綾華さんは今でも素行不良の生徒の代表格のように扱われている。
「ぐれても誰も助けてくれないことなんかわかってたし、それまでの自分が馬鹿にしてた底辺の不良たちと同レベルになるなんて、あたし自身が耐えられなかったから、ほどほどにしたけど」
「ほどほどにしてあのレベルですか」
「ほどほどにしてなければ、今頃は高校生じゃなくなって、子供のひとりも生んでるんじゃない?」
大したことじゃないように、さらっと綾華さんは答えた。風邪で伏せっている身……伏せっているはずの身としては刺激が強い。
「友達にも恵まれたしね。あきちゃんも知ってるあの子達、面白いでしょ」
「ああ、ええ、まあ」
言葉は濁したけれど、まあ、下級生をからかっていただけで、特に悪気は感じなかったし、引き際も良かった。
「あたしのうちのアホさとかわかってくれた上で、あたしの捻じ曲がった性格も受け入れてくれたし」
綾華さんの目が少し柔らかくなった。この人が、あの人たちにどれだけ心を許しているか、多少わかる気がした。
「そこに現れたのが」
と、綾華さんは両肘を上げ、俺のベッドの上に乗せてきた。枕に背を預けて聞いていた俺のひざの辺りに、綾華さんの顔が来る。
俺が不意の動きに緊張していると、綾華さんは両手で頬杖をついて、横目でちらりと俺を見た。
「あきちゃんだったのよ」
「は、はあ」
「最近の話だけどね、結構あたしには大きな事件だったのよ」
「えー、何かしでかしましたでしょうか」
「しでかしてないよ、そういうんじゃなくて」
綾華さんは笑って、頬杖を一度外し、右手だけの頬杖になって前を見た。俺から見ると、ひざの右辺りで頬杖を突いている綾華さんが、俺の左側の壁をじっと見つめている。
「あたしに色恋抜きで接してくる男がいるってことが新鮮だったのがひとつ。そりゃそうよね、仕事でいきなり割り振られただけなんだし。でもね、偶然会っただけであたしに色目向けてきたり、いきなりキスしようとしたりする奴ばっかだったから、そうじゃないあきちゃんが新鮮だったのね」
「は、はあ」
話の次元が違いすぎる気がした。いきなりキスとかありえないでしょ。てか、この人相手に恋愛しようとか、無理でしょ、普通。
「それとね、本当に育ちがいいっていうのは、こういうことをいうのかなって思ったんだ」
「育ちはさほど良くは無いんじゃ……」
「経済力とかじゃないよ? ちゃんと教育を受けて、いいことはいい、悪いことは悪いってちゃんと教わってきてるんだろうなって」
「はあ……」
その辺りはどうなんだろうか。まあ、人様に迷惑はかけない程度の躾は受けたんだろうけれど。
「この前のデートだってそうだよ」
「はあ」
もう、気の抜けた返事しかできない。自分のことが話題になると、俺はどうも弱い。
「あれだけ一緒にいて、あたしがあれだけ油断してたら、今までの男ならホテル誘われてるね。てか、連れ込まれるわ」
「そんな大それたこと、できるわけないでしょう」
「それを大それたことと考えない馬鹿ばっかだったのよ、あたしのまわりって。しかも」
綾華さんはぺたんと腕を倒し、俺のひざに、布団越しに頭を乗せた。急に綾華さんの体温が伝わってきた気がして、俺は緊張する。
「あきちゃん、自分の家の門限の話したじゃない」
「しましたっけ」
「したの。それがすごい新鮮で」
いわれてみればしたような。確か、午前様じゃなければ大丈夫でしょうというようなことをいわれて、その考え方おかしいから、とかなんとかいったような記憶がある。
「ああ、世間の家庭ってのはこうなんだ、親にちゃんと愛されてる子ってこういう反応なんだって思ったら、うれしくなっちゃってさ」
「うれしいって、なんでまた」
「そういうの、初めてだったから。どいつもこいつも、親に反抗してりゃ一人前みたいなことしかいわなかったのに」
「偏ってますね、それも……」
「こういう子と一緒にいたら、きっと幸せなんだろうな、とか思っちゃったのね」
綾華さんが、俺のひざの上でわずかに笑った。
いきなり、話題が核心に触れた気がした。
「それまではさ、そういう真面目な子とか普通の子とか、全然興味なかったし、親に愛されてきたような奴とは一緒にいられないとまで思ってたのにね」
熱を出して寝ていたはずの俺だけれど、それどころじゃなくなってきた。全身が熱いのは、風邪のせいだけじゃない。
「それがあの時、すごいショック受けたの。あれ、あきちゃんってあたしが今まで勝手に毛嫌いしてきた人種なのに、めちゃくちゃ居心地良くない? ってさ」
何もいえずに身を固くして聞いていると、綾華さんが「リラックスして聞きなさいよ」とでもいうかのように、俺の脚を布団の上から軽く叩いた。ひざ上20センチの部位は、叩かれるとなかなかきわどい。
「それに気付いちゃったから大変よ。だって、由紀があきちゃん狙いなのは見ててすぐわかったし、ああいう打算なしで突っ走っちゃうタイプ、あたしも嫌いじゃないから、応援したくなっちゃったし」
叩いた手をそのまま滑らせ、綾華さんは布団の上に置いていた俺の手をとった。汗ばんでいる手を取られるのにはかなり抵抗があったけれど、逆らえない。
「でもこんなにそばにいて居心地がいい男なんか初めてだったから……」
指を絡ませ、手を起こし、俺の右手と綾華さんの左手が、手のひらを合わせて指を絡ませる「恋人つなぎ」になっていた。熱っぽい俺の手には、綾華さんの手の冷たさが気持いい。
「由紀のものになっちゃったのは仕方ないから諦める。それは安心していいよ」
このセリフのときだけ、綾華さんは俺の目を見た。そしてすぐに視線はつないだ手に向かう。
「でも、こんなに一緒にいて気分がいい男がいるって知っちゃったら、そうじゃない男となんか、もう付き合えないの」
綾華さんの指に力が入る。ぎゅっと握った手から伝わる体温は、俺にも握り返せといっているようだった。
「だから広瀬と別れる気になったの。本当は好きになったことなんかなかった人だけど、今まで離れる決心がつかなかった」
俺が握り返すと、綾華さんは一瞬目を閉じた。ほのかに、綾華さんの頬に朱がさしたように見えたのは、たぶん熱に浮かされた俺の幻覚だったに違いない。そういうことにしておく。
「……それももう終わり。今さらあの人とは一緒に歩けない。昨日、その話はしてきた」
ふっと笑う。
「別れるってこと。今までありがとうってこと。その話をしてるときはなんとか納得したようなことはいってたけど、今日になったらメールは来るわ電話はかけてくるわで、あんまりにもうるさかったから携帯の電源切ってやったの」
握った手をかすかに振るようにして、その感触を確かめているようだった。
「だからあきちゃんのお休みメールにも気付かなかった。返すの遅くなっちゃったからすれ違っちゃったね。ごめん」
「それは別に……気にしてませんし」
「まだしばらくごたごたするんだろうなって思うけど。でも、もう馬鹿なことはできないかな。『普通』でいることの心地よさを知っちゃったし、あきちゃんや由紀ともっと一緒にいたいし」
そこまでいうと、綾華さんは頭を起こした。手は握ったまま。
「ずいぶん長く喋っちゃったね」
といわれ、時計を見ると、もう10時半になっている。
「あきちゃんち的にこの時間帯は大丈夫な時間帯?」
「どちらかといえば、まあ、完全アウトの時間帯ですね」
「あら、失礼。それは一大事だわ」
といいつつ、手は離さない人。
「でも、別に誰も来なかったわね」
「初めての事態に戸惑ってるんでしょう。俺のところに女が尋ねてくることも初めてなら、その相手がこんな超絶美人なんだから、そりゃ戸惑うでしょう」
「でも、何か間違いが起きてないかとか、気になるものじゃないの」
「これだけ話し込んでたら、逆に気を使って割り込んできませんよ、うちの家族は。壁薄いから、何かひたすら話してるなってことくらいは伝わりますし」
といっている間に、綾華さんは身を乗り出してきた。つないでいた手ほどき、その手を両手で包み込んで、自分の頬に当てた。
「いいご家族ね。ほんとうに、君に会えてよかった。こんな家族もいるんだってこと、見せてもらえただけでも幸せ」
綾華さんは俺の手を頬に当てたまま、しばらく目を閉じていた。
そのうち、すっと手が離れた。
「病人にとんでもない長話させちゃったね。ごめん」
そういって、座り直した。
「今日は帰る。来週からまたよろしくね」
恐ろしく整った顔に浮かべた笑顔は非の打ち所がなかった。
かえって痛々しい気がしたけれど、それは俺が絶対にいっちゃいけないセリフのような気がした。