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「なんか……」
喫茶店を出てしばらく歩き、由紀の家への帰り道をたどり始めた頃、両手でかばんを持ちながらとことこと歩いていた由紀がつぶやいた。
「恋愛って怖いですね」
「どうして?」
由紀がしみじみという、その口調がおかしくて、思わず聞き返した。
「だって、あんな大人の人があんな風に我を失っちゃうんですよ」
「まあ、ねえ」
あれは結構特殊な例じゃないだろうか、とも思ったけれど、なにしろ恋愛経験なんか無いに等しい人間だから、あまり物はいえない。
「私もあんな風になるかもしれません」
「あんな風に? 別れたくないって他人を巻き込むってこと?」
「それもありますし、相手の気持ちがわからなくて大騒ぎしてみたりとか」
由紀の顔を見てみると、意外にまじめな顔をしている。
「自分がどうなっちゃうかわからないです。たぶん、自分から告白するとか一生無いだろうなって思ってたのに、しちゃってみたりとかしてますし」
「しちゃったねえ」
「今でも不思議です。何であのタイミングで告白できたのか。恋愛って、自分でも想像もつかないことをやらせてしまう力があると思います」
「なるほどねえ」
思い当たる節はこっちにもある。芝生でのキスの一件だって、勢いであそこまで行ってしまった。周りが人であふれてるとか、全然考えが及ばなかった。
でも、と俺は返した。
「そうやってありえない自分と出会っていくのってさ、雑な言い方かもしれないけれど、成長だよな。お互い高めあっていけたら、じたばたしたり失敗したりする甲斐もあるよね」
由紀は俺の顔をちょっと見上げた後、大きくうなずき、それからうつむいた。
今度はなんだろう。
結局会わなかったな、と、帰って晩御飯を食べて、部屋に戻ってから思った。
綾華さんだ。
渦中の人物のはずで、彼女のおかげで色々と貴重な経験をさせていただいたわけだけれど、肝心な本人とまったく接触が無い。
確かに昨夜話したけれど、尻切れトンボで、肝心な話は何もしていない気がしていた。
いきなり別れるという話を人に放り投げておいて、投げっぱなしだ。投げられた方は受け止められもせず、中途半端に浮いているしかない。
別れたいという気持ちは、でも何となくわかる気がした。
あの人には確かに大人の男性が似合う。社会人の彼がいると聞いていたけれど、それも納得できていた。少なくとも俺たちみたいな年代の子供が相手じゃ、あの人はつまらないんじゃないだろうか。
無責任に大人と子供の中間を生きているような年代が相手じゃ、あの人の心は動かせないと思う。 しっかりと自分の足で立ち、奔放なところもある綾華さんを支えきれる力がある人じゃないと、綾華さんの心は動かせない。
そして、広瀬さんは、年代や経済力は充分でも、ついでにルックスでも充分でも、心の成熟度のようなものが足りていない気がする。
俺から見ても、広瀬さんは自立しきれていない感じがした。甘えが強い気がした。綾華さんに寄りかかっていて、支える力強さは感じなかった。俺が女でもあの人にはついて行こうとは思えない。
男としてならなおさら。
カケスさんを知っている俺には、あの不良時代からの柄の悪さは差し引いたとしても、広瀬さんの頼りなさは物足りなさしか感じさせない。無責任な人だ、とすら思う。
それにしたって、だ。
投げっぱなしは良くないだろう。
パソコンを立ち上げてみたけれど、綾華さんがサインインしてくる気配は無かった。
どうももやもやする。
明日は実行委員の方で打ち合わせがある。会ったら何か話ができるだろうか。いや、しないとな。
という俺の決意はあっさりと流れた。
綾華さんはいたし、仕事も一緒にしていたのだけれど、何しろ暇が無かった。
「何でこんなに早く一気に集まるんだよ!」
来週中の提出、という話でまとめていたはずのクラスごとの出し物計画が、なぜかこの日、まだ木曜日なのに、やたらと集まってきた。
もうある程度話をまとめていたクラスが、生徒指導主任の鶴の一声で計画の作成を進め、この日に一斉に提出してきたせいだ。
「あきちゃん、貸し出しは今日やっちゃうわけにも行かないんでしょ」
「貸し出したところで、教室に置くわけにもいきませんからね。部活の申請ならともかく、クラス単位の貸し出しは当日近くになってからじゃないと」
「じゃあどうすんの? 仕分けだけしておくってこと?」
「そうです。片っ端から付箋でも貼っていって、仕分けましょう。リストはできてますから、そっちはそんなに時間かからないと思います。とりあえず昨日までに上がってきてる分をやっときましょう」
「じゃああたしはそっちやるわ」
「お願いします。由紀と俺は書類のチェックをやろう。多分こっちの方が時間がかかる」
「企画書と貸出申請書ですね」
「うん。由紀は企画書のチェックをお願い。企画に図面が必要なのに出てないところが結構あるから、それは弾いて。で、図面の数量と企画書と申請書の数量が合ってるかどうかのチェックをお願い」
「わかりました」
「俺は弾いた書類の大体のチェックをして、場合によっては図面作っちゃうから。いちいち頼みに行くよりそっちの方が早そうだし」
仕事が早く進むのはありがたいし、今のうちにできるだけ多く処理できれば、土壇場になって仕事量がパンクする恐怖からも逃れられる。
それはいいんだけれど、物には程度ってもんがあるだろうと思うわけだ。
別に今日全部やらなくてもいい仕事のはずなんだけれど、そうもいかないのは、お金が関わってくるから。足りないものは早く注文しておかないと、後で足りなくなったときに対応できくなるし、そもそも生徒会に申請するお金が足りなくなってしまう可能性がある。そうなったら当然買い物もできず、資材の準備に穴が開く。
そして今日は木曜、今日中に注文する物リストを作って会計に回さないと、発注が週をまたいでしまう。
今日できることは今日やって、足りないものはさっさと注文リストに入れてしまうに限る。
とはいっても、量が量だった。だべってだらだらやって、終わるような仕事量じゃなかった。
「仕分け終わったよー」
「あ、綾華さん、こっちの申請書も上がってますのでお願いします」
「おいおいおい、由紀、あんた、あたしを殺す気かい」
「ご、ごめんなさい、じゃあいいです」
「こら、良くないでしょ、あたしの脅しにコンマ2秒で負けちゃだめでしょ」
「ご、ごめんなさい」
「謝んなくていいから。ほら、書類よこして」
「で、でも、私もやります」
「あんたは書類整理が先でしょ。あきちゃん、指示は?」
「えーっと、由紀はあと30秒そこで待ってて。修正した図面が上がるから。プリンタ見てて、すぐ出す。出たらそのチェックね」
「ということだそうだ。由紀、よろしく」
この会話だけ切り取ると由紀が仕事ができない子のようだけれど、やってる仕事量は大きい。俺が急かされるような展開になっているけれど、これは予想外だった。俺の仕事が先に終わり、由紀がためてしまった仕事を手分けして片付けようと思っていたのに、とんでもなかった。
成績がいいからといって、この手の事務仕事がうまいとはいい切れないはずなんだけれど、由紀の場合はいい切れた。早くて正確。人のミスを探したり、多少の間違いなら直してしまわなければいけない仕事で、いくつかチェックしたけれどミスが無い。
綾華さんは図面作りやその手のチェックなんか絶対やんない、と高らかに宣言した上で資材整理をやっている。いまだに巻かれている俺の頭の包帯が気になり、俺に資材置き場に入る機会など与える気が無いらしい。そしてこちらも仕事が速い。
背か高くてすっきりした体型の綾華さんは、どう見たってさして腕力があるほうには見えなかったけれど、この日は精密機械のような仕事振りを見せた。扱う資材に小物が多かったせいもあるだろうか。パーテーションパネルのような大物は、今日は無い。
そんな風に3人で嵐のような仕事に立ち向かいつつ、過ごしていたら、あっという間に時間が経っていった。
結果として終わったからいいものの、時間は既に7時を回ろうとしていた。
由紀の門限が近付いている。
「由紀、門限は?」
俺が訊くと、由紀はしばらく何の反応も示さなかった。たぶん、集中が切れたとたんに疲れがどっと出て、頭が働いていないんだろう。
そのまま二人で8秒間見つめ合う。
何の情熱もない見つめあいの後、由紀は自分がどんな状態にあるか思い出したらしく、時計を見てからばっと立ち上がった。
そして倒れこみそうになる。あわてて俺が体を支え、綾華さんがあきれた。
「疲れてるのに急に立ち上がったら、立ちくらみするの当たり前だろ」
「由紀、立つのはゆっくりでいいから」
俺はくらんだままでいる由紀に言葉をかける。肩を支えているのだけれど、ずいぶん軽い。
「あきちゃん、由紀を家の前まで送り届けること。いますぐに。可能?」
「可能は可能ですけれど。でもここはここで戸締りとかごちゃごちゃ面倒ですから、俺が戻ってくるまで留守番してもらっててもいいですか?」
「留守番はいいけど、あたしも帰りたいし。戸締りはあたしがしていくから、あきちゃんもそのまま帰りなよ」
「いいんですか? 割と面倒ですよ」
「大丈夫よ、面倒ってだけで難しいわけじゃないんだから」
そんな会話があり、立ちくらみは治まってもまだふらふらしている感じがする由紀を家の手前まで送る任務が与えられた。
というわけで。
俺は結局、綾華さんと、仕事以外の話はほぼすることもなく、むなしく帰ることになった。