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見覚えのある車、見覚えのある顔。
帰り道。
由紀と二人で学校を出て、校門から左に折れて50メートルほど進んだ先の交差点近く。
昨日見たばかりの車が路上に止まっていた。道の左側を歩いていて、対向車線の脇に止まっているから、運転席に座っているドライバーの顔も見える。もちろん、昨日見たばかりの顔があった。
なにやってんだ、こいつ。
高校1年生にとっての20代男性ってのはかなり大人で、こいつ、なんて感想は普通は浮かんでこないものだけれど、この時、こいつという単語以外に浮かんでも来なかった。
いきなり口を閉ざして無表情になった俺に気付いて、俺の左側を寄り添うように歩いていた由紀が不安そうに見上げてくる。
「由紀、あれが昨日の騒ぎの原因」
とあごで指し示すと、由紀は不安そうな顔のままそちらを見た。
視線の先では、男が運転席から降りてくるところだった。明らかに俺の顔を見て動いている。
当然、俺は警戒する。
ドアを閉めると、男はこちらに歩いてきた。警戒心ばりばりで見つめている俺に、意外な姿が見えた。男が、俺に目礼していた。
向こうがお辞儀したら反射的にお辞儀してしまったのは、そういうところだけはきっちり躾けられた人間の悲しいさが。
よく見てみると、彼は地味なチャコールグレーのスーツ姿で、グレーのネクタイも地味。ワイシャツは白。生真面目な営業マン、という感じで、昨夜とは別人みたいだった。
「昨日はすまなかった、どうかしていたんだ」
近付いてくるなりいきなり謝られ、俺は面食らって言葉が出てこなかった。
国道のそばの喫茶店、由紀に告白された日に二人で入ったあの喫茶店に、今度は三人で入っていた。
「広瀬」
と、彼は名乗った。
どう見ても金のかかる車に乗っている「広瀬」というところで、この辺りでは知らぬ者の無い企業グループの名前が思い浮かんだ。地方財閥というには少し規模が小さいかもしれないけれど、この辺りで手広く商売している家に「広瀬」という名がある。
もらった名刺を見て、納得した。会社名が「ヒロセシステムコンサルタンツ」、親父からも名前が聞いたことがある会社で、もともと土建業から始まり、運送業、ガソリンスタンド、半導体工場などに手を広げ、早くからコンピュータシステム開発にも力を入れていた広瀬グループの子会社。肩書きは専務となっているから、広瀬の分家の跡取りというところか。
田舎だから、そういう情報は高校生ごときでも耳にしている。
「綾華からもずいぶん叱られたよ。悪かった」
「いや、まあ、あれはどっちもどっちだったんで」
こうも素直に謝られてしまうと、落ち着かないことはなはだしい。こっちには、なにしろカケスさん乱入というある意味負い目もある。ありゃ反則技もいいところだもんな。
「実は昨日、あれから綾華に会いに行ってね。でも叱られるだけ叱られたらすぐに追い出されてさ、それからは連絡も通じない」
今日は帰りの時間をみて綾華さんを待っていたらしい。でも、綾華さんはいつまで経っても現れず、そのうち俺が由紀と一緒に出てくるのを見つけたんだそうだ。
由紀のことも知っていた。
「綾華から聞いたよ。二人が付き合ってるって」
由紀がうつむいている。初対面の相手だからだろう、と人は思うかもしれないけれど、俺には思いっきり照れているだけに見える。由紀は俺と付き合っていること自体が照れの素になるらしい。
仕事はいいんですか、と聞きそうになったけれど、その口は引っ込めた。専務という肩書きは、仕事に支障さえなければ時間なんか自由に使えるご身分ってことだ。
「あんな小娘に乗せられて……馬鹿だと思うよ、自分でも」
自嘲、という言葉を全身で表現したら、今の広瀬さんのようになるんだろう。顔立ちは悪くないどころか素晴らしい出来なのに、自嘲の色が濃すぎて、疲れきっているように見える。
かなり濃いくまが浮かんでいて、よく見れば顔も脂っぽい。たぶん、あまり寝ていないんだ、この人は。
「最近、綾華とうまくいってなくてね。特に文化祭実行委員になってから、あいつが俺を露骨に避けるようになって、君が原因じゃないかっていってきたあの小娘の口車に乗せられてしまった」
「もともと知り合いなんですか?」
「顔くらいはね。綾華のグループに近付きたがってる子は多いけど、その中にいた奴だ」
彼女の底が割れてきた気がした。
「なんで広瀬さんに俺のことを告げ口したんでしょうね」
「君が気に入らなかったといっていたけどね。ちょっとルックスが良くて、まぐれで喧嘩に勝ったくらいで調子こいてるとか何とか」
「でも、普通、告げ口はともかく、一緒の車に二人では乗らないでしょう」
「俺に近付くのが綾華に近付く近道だと思ったんじゃないのか? あるいは、大人の男と二人になるってのが刺激的に思えたかな」
おそらく違う。
彼女は、綾華さんが好きなわけでも、広瀬さんが気になったわけでもない。
学校のアイドル綾華さんに、地域の支配勢力・広瀬家。
そういう華々しいもの、権威や権力というものに惹かれているだけだ。そうすることで自分が高められた気がするから。いや、本人は高められたと信じているんだろう。
だから、その権威や権力に無造作に近付こうとしている奴に嫉妬する。陥れるための陰謀くらいは企むだろう。あまりの浅知恵に、企まれた方はめまいすらするけれど。
広瀬さんは間違いなくもてる。そのモテ男と二人きりになるってのは確かに刺激的だっただろうと思う。
でも、あんまり深くは考えてない。多少深く考えられる奴なら、綾華さんのことを気にして、絶対二人きりでは車には乗らず、ましてでかい態度で助手席から「あんまりやりすぎないでよー」などと馬鹿な狎れた発言はしないはずだ。
軽蔑にすら値しない馬鹿女。
というところで、俺の中の彼女への評価は確定。
「君が綾華に気があると聞いて、いてもたってもいられなくなって、綾華のつてで知り合った子から君の行動を聞き出して、学校を出たらしいことを聞いてすぐに学校に行った。それが昨夜の状況だ」
広瀬さんはわざわざ解説してくれた。彼なりの誠意らしい。
「彼女がいるとまでは知らなかったんだ」
「仕方ないですよ。できたばかりですし」
由紀は無言。たぶん、うつむいたまま再度照れている。そういう場合でもない気はするけれど、口を挟まれるのも何なのでとりあえずは放置しておく。
「知っていればあんなことはしなかった。まして掛巣さんの弟分だなんて想像もつかなかったから」
「ああ、カケスさんのことは気にしないで下さい。確かにあの人に散々世話にはなってますけれど、あの人の性格上、弟分だからどうしても守るとか、無いですから」
口ではいうかも知れないけれど、あの人の本音は、娘以外のために死ぬとか何の冗談だよ、というところにあるはず。
「だと助かるな。俺も高校生のころは多少ぐれていたりもしたけれど、あの人の伝説はよく聞いたよ。あまり係わり合いにはなりたくない」
そりゃそうでしょうよ。
「今はただの子煩悩パパです。昨日はたまたま不機嫌になるようなことがあって、タイミングが悪かったんでしょう」
ざっと話を流しておく。
「俺も脅されて最初は頭にきましたけれど、もうそれも収まりました。あんま気にしないで下さい」
「気にするよ。高校生に圧倒されるような奴が企業経営とは笑わせる」
広瀬さんの自嘲が激しくなってきた。
「そりゃ、綾華も愛想尽かすよな、当然だ」
「広瀬さん、自虐的になってもなんも問題は解決しませんよ」
「わかっている。わかっていてもね」
というなり、広瀬さんは割と激し目に頭をかき回した。それからふうっ吐息を吐き出し、続ける。
「不安なんだよ、綾華の気持ちが自分に向いていないんじゃないかって」
思わず昨日のボイスチャットで別れ話が出ていたことをいいそうになったけれど、ややこしくなりそうなので寸前で飲み込んだ。
「それで校門を張り番してまでの出待ちですか」
「そうでもしないと、電話もつながらないんじゃ、あいつを捕まえられない」
広瀬さんはそこでコーヒーカップの中の濃い目のコーヒーをあおるようにした。
「……高校生なんて、27の俺からしたら子供だよ」
27歳だったのか。綾華さんとは10歳差くらいか。
「なのに、俺はその子供にいいようにもてあそばれて……男ってのはそういう生き物なのかな」
「さあ、どうなんでしょうね」
俺は適当にごまかしたけれど、内心では「一緒にするな」と思っていた。どうもこの人の行動といい言葉といい、年相応の成熟からは遠い気がしてきた。
「あいつはきれいだ。話していても楽しいし、あんないい女はいない。手離したくないんだよ」
「そうでしょうね」
「たまたま家同士の付き合いもあったから、あいつのことは子供のころから知っている。あいつのことなら何でも知っていたんだ」
「そうなんですか」
ひたすら相槌。もうも相槌男に徹して、聞き出せることは全部聞き出してしまおう。
「あいつが高校に入ってから付き合うようになって、いろんな所に連れてって、いろんな思い出を作った。わがままもいっぱい聞いてやったし、あいつの頼みならどんな無理でも聞いてきたつもりだ」
「ええ」
「なのに最近、あいつは俺から離れようとしている。理由を聞いても答えない。電話すら出なくなってきて、メールなんか返っても来ない。おかしいだろう?」
「そうですね」
なんか疲れてきた。
隣の気配をうかがうと、由紀は広瀬さんの話を聞きつつも、俺の反応が気になって仕方ないらしく、俺の呼吸の音まで聞き逃すまいと耳を澄ましているらしかった。
面白いやつ。