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『なんか、ごめん』
電話がかかってきたのは、親父が運転する車でカケスさんと共に帰宅した1時間くらい後のこと。
「どうしたんすか」
柄にもなく暗い声の主は綾華さん。電話といっても、パソコンの無料メッセンジャーサービス。ヘッドレストマイクを使って話すんだけれど、両耳から音が聞こえるから、息遣いなんかが意外と生々しい。
『馬鹿が馬鹿なことして迷惑かけたようで』
綾華さんの口調は完全にため息交じりだった。
「迷惑ってほどじゃないですけれど」
むしろカケスさんに脅し上げられて、最後の方は哀れを誘った。
あの後、カケスさんはもう2分ほど相手をいじめていた。
大した時間じゃないように思ったら、それは大間違いというものです。あの人の視線を独占する2分間の長さったらあなた。
身動きもできない状態でうわごとのように「ごめんなさい」を連発する彼に、助け舟を出したのは親父だ。
「掛巣、もういいだろう。それ以上やると自殺しかねんぞ」
親父の口調も大概気楽なものだったけれど、カケスさんも大概だった。
「してもらっても構いませんがね」
へっへっと笑い声交じりに応え、その間も相手から目を離さない。
「阿呆、お前のせいならともかく、この場合うちの息子も関係者になっちまうだろうが」
親父がいうと、カケスさんは盲点を突かれたとでもいいたげな顔になった。
「ああ、なるほど。そりゃいかんな」
そこでやっとカケスさんの体が彼から離れる。
一瞬、息をついた彼は、直後に今日一番の気を付けをすることになった。カケスさんがずいっと顔を近付けたからだ。
「……もう一度晃彦に絡むようなことがあれば、どうなるかはわかるよな?」
わざとらしく、ありきたりな脅し文句を口にするカケスさん。脅すときはわかりやすい表現に限る、というのもカケス理論。
さらにカケスさんは入念だった。事情なんかこれっぽっちも話していないのに、大体の背景は見た瞬間にわかったらしい。
彼から体を離すと、運転席の扉を開け、そのまま乗り込んだ。
びっくりしたのは中の女だろう。ただでさえ、すぐ近くで自分を連れていた男が脅し上げられ、恐怖を味わっていたというのに、その恐怖の対象が自分のごくごく近くまで来てしまったのだから。俺なら2秒で漏らすね。
「さてお嬢。お前、何者だ」
ぎし、と車が揺れる。運転席にかかったカケスさんの荷重が、サスペンションを沈ませた。
「あ、あたしはかんけいな」
「関係ないとかほざいたらひねり潰すから、それなりの覚悟で答えろよ?」
鬼だ。この人は鬼だ。
当然ながら、女は何も答えられなくなった。カケスさんがどんな人か知らなくても、単純に、この人に凄まれれば怖い。まして小柄といっていい少女だ。
「どうせ外の男を焚きつけたか何かしたんだろうが、晃彦に何かいいたいことでもあるのか?」
女は恐怖に顔をゆがめたまま、ふるふると首を横に振った。
「なら、そんなにびびるこたあない。今日は大人しく帰れ。そして二度と晃彦にかかわるな」
カケスさんの警告、というより嫌がらせは堂に入っている。なら、という前にタバコを取り出し、ゆっくりとしゃべりつつライターを出し、火をつけた。そしていい終わると大きくタバコの煙を吸い込み、女に向かって盛大に吐き出した。
「わかるな?」
せきこむこともできず、女は首を今度は前後に振った。泣きそうな顔になっている。
「いい子だ」
カケスさんは大きな手で彼女の頭をぐりぐりとなでまわしてから、悠々と運転席を降りた。
「わりいな、車内禁煙だったか?」
などと、立つのがやっとという風情の男に声をかけ、それから俺たちのところに戻ってきた。
「お待たせです」
「悪かったね、収拾役なんぞさせてしまって」
親父がいうと、カケスさんはタバコの煙を天に吐き出してから答える。
「構いませんよ。今日の晩飯代にしたって安いもんです」
そういうとにやっと笑った。
ちなみに、帰ると、母親の反応は、心配されたほど大げさじゃなかった。
包帯を巻いて帰ってきた俺の姿に面食らってはいたけれど、親父がごく当たり前のことのように怪我の説明をすると、大して反応もせず、「髪が洗えなくても体は洗えるんでしょ? 早くお風呂入っちゃいなさい」と命じ、台所に入っていった。
カケスさんもいるし、夕飯作りが忙しくて、俺のことに構っている余裕が無かったのかもしれない。あるいは、傷のじんじんとした痛みを無視して俺がへらへら笑っていたのも良かったのかもしれない。
『それ、一応あたしの彼氏ってことになってる奴だわ。ほんと、迷惑かけてごめん』
「やっぱりそうでしたか」
『やっぱりって、あの馬鹿そういってなかったの』
「いや、名乗らせようかと思ったらカケスさんが来ちゃったんで、それどころじゃなくなっちゃったんですよ」
『もうね……あの馬鹿、死んじゃえばいいのに』
「物騒ですね」
綾華さんの口調があまりらに真面目な慨嘆だったから、おれはちょっとばかりびびった。
『なんかおびえたような顔してうちに来るから、何かと思えばあきちゃん脅しに行って返り討ちに遭ったとか……ありえねーだろ』
よほど腹が立っておいでのご様子で、吐き捨てるようにおっしゃった。
「今もいるんですか?」
『追い返したわよ、たった今』
「ああ、じゃあ帰したところで電話してきたと」
『そういうこと。ほんとごめんね』
「謝らないでくださいよ、逆にこっちはいらん脅しまでかけちゃってるわけだし」
『あんなの、脅す程度ならいくらでもやっちゃってよ』
「いやいやいや」
何でこんなに物騒なんだ、と思う反面、少しも彼氏をかばおうとしないことにちょっとばかり不自然さを感じないでもない。
「いいんですか? 彼氏、結構精神的にもきつかったと思いますけど」
『いくらでも苦しめばいいよ、あんなのは』
綾華さんは盛大に突き放して見せた。
『しかも他の女、車に乗せてたんでしょ?』
「そこまで自分でいいましたか」
『吐かせたのよ』
カケスさんに脅された上に、自分の彼女にまで責められたわけか。ちょっと本気で同情したくなってきた。
『そいつがあたしとあきちゃんが日曜遊びに行ったこと、ちくったんだってさ』
「ははあ」
なるほど、そういうことか。
『そいつが何であたしの彼氏の連絡先知ってるのかが不思議だけど、まあそれはまた後で問い詰めるとしてだ』
「はい」
『またあれが行くような事があったら、本気で潰していいから』
「あれって彼氏さんですか」
『そう。もう人間扱いする必要ないからね』
ひどいいわれようだ。
『それから、その女』
綾華さんの声がさらに棘を増した。
『誰だか知らないけど、ただで済むとは思わないでほしいわね』
電話越しにきいているからなおさらなのか、耳元に響く綾華さんの声が恐ろしい。
『あたしと仲良くしてるのが気に入らないとかほざいて、あきちゃんのこと勝手におどしておいて、あたしの彼氏ってことになってる奴の助手席に乗るとかありえないだろ』
「ありえませんなあ」
『絶対追い込むから。絶対追い込む』
二回いった。この人は本気だ。
「ほどほどにしといて下さいね。そういう奴はたぶん平気で周りも巻き込むから、関わってもろくなことになりませんよ」
『あきちゃんは悔しくないの?』
「別に悔しくは……」
『いきなり脅されるとかわけわかんないでしょ? 悔しいでしょ』
「悔しくはありませんよ。途中からこっちが脅す側になっちゃってたし」
『でも迷惑だったよね、本当にごめん』
綾華さんがまた謝った。なんか、こっちの方が申し訳なくなってきた。
「謝らないで下さい。俺より、彼氏さんの方を気にして下さいよ。精神的なダメージ、でかかったと思いますよ」
俺がそういうと、綾華さんはいきなり爆弾を放り投げてきた。
『……いいよ、あんなの。もう別れるし』
「ちょっと待って下さいよ、短気起こさないで」
『短気じゃないよ、しばらく前からそのつもりでいたし』
「はい?」
思わず聞き返すと、綾華さんはふっと笑った。
『ちょうどいいわ。あの馬鹿切る決心が付いた』
この人はまた何をいい出すんだろうか。
ちょうどそのタイミングだった。
俺の携帯が鳴り出した。
パソコンを置いているデスクの上にマナーモードのままで転がっている携帯が、ぶぶぶ、と音を立てている。
サブ液晶画面を見ると、由紀だった。
俺は迷った。この場合、どっちを優先させるべきか。怪我の心配からかけてきているだろう彼女か、爆弾発言を始めてしまった先輩か。
その迷いは、ごく短い時間しか続かなかった。バイブの音が、綾華さんにも伝わっていたからだ。
『携帯鳴ってるでしょ。出なよ』
「ああ、まあ……」
『早く出なって。今日はここまでにしとこ』
そういうと、綾華さんは逃げ出すようにして、あっという間に通話を切ってしまった。
切られてしまった方は、とりあえずヘッドレストマイクを外し、携帯の通話ボタンを押した。
「はい」
『あ、晃彦くん……まだ起きてましたか?』
「うん、まだ大丈夫だよ」
『遅くにごめんなさい。怪我は痛みますか?』
「多少はね」
パソコンの画面を見ると、綾華さんはサインアウトしていた。