27
この時、俺は明らかに機嫌が悪かった。
一日で色々仕事をこなして疲れていたし、何より、傷が痛む。徐々にいらいらしてきていた、というのがこの時の俺。
「少し顔を借りるぞ」
と左ハンドルの車の運転席から、ややすごむような口調でいわれたけれど、普段の俺ならびびってすぐに従っていたと思う。
けれど、この時ばかりはそうはならなかった。
疲れて頭が働かなかったせいもあって、俺は鈍く返答しただけだった。
「はい?」
その返事が出たのにはもっと理由がある。
まずひとつ目。相手が、体格的には俺より線が細そうに見えたこと。男は常に、無意識のうちに相手の肉体的強健さを測って自分と比較する生き物なのだ。
ふたつ目。男の態度がどう考えても俺に敵意むき出しだったこと。敵意を向けてくる相手に友好的になってやらなきゃいけないような規則も法もないし、俺は絶対平和主義者でもない。
三つ目。綾華さんとの仲を勝手に疑って人を潰そうとした馬鹿女が隣にいたこと。そしてその女が意地悪そうな笑みを浮かべていたこと。
「何とぼけてんだ、ふざけんじゃねえぞ」
年齢は20代半ばというところか。大学生というにはちょっと世間ずれした感じがする。高校一年の小僧に喧嘩を売れる程度には若いらしい。
「はあ」
俺はずきずきと痛む頭の傷を気にしつつ、気の抜けた返事を繰り返す。
それがますます相手の怒気を誘ったようで、運転席のドアが開いた。降りてくる気らしい。
「ちょっとー、やり過ぎないように気をつけてよー」
車の中から癇に障る声がした。降りてくる男のやる気満々な姿といい、物騒この上ない。普段の俺ならびびって身動きが取れなくなっていただろうと思う。
確かに身動きはとらなかったけれど、理由は違う。
けが人の癖に、奇跡的なことに、この時の俺は迎え撃つ気満々だったんだ。
「答えによっちゃただじゃすまさない。覚悟して答えろよ」
男は俺を下から突き上げるような目で睨みつけた。身長は175センチくらいだろうか。俺より少し低いくらい。体格は俺とどっこいという感じに見える。立ってみると筋肉質な体つきが目立つ。
「はあ」
俺にはまともに答える気もなかったから、いい加減に声を出した。
「お前、永野綾華とはどういう関係だ」
意外な名前、とは思わなかった。
助手席に乗って余裕かましている馬鹿女は、綾華さんがらみででしか記憶に残っていないから、むしろその名前が出てきて当然という気がしていた。
「はあ?」
たぶん相手を刺激するだろうな、とはわかっていても、いらいらが募っていたから、そういう返事になる。
「答えろ」
相手はすごんだ。ちょっと肩を揺らせば触れそうなくらいに近付いている。脅し合い、虚勢の張り合いに慣れた人種の動作だと思った。
「どういうって、先輩と後輩ですけれど」
「それにしちゃあ随分なれなれしくしてるそうじゃねえか」
「そう見えますかね」
「とぼけてんじゃねえ、綾華とお前が日曜に会ってるのを見た奴がいるんだよ」
あ、と思った。
やっぱり、見られていたんだ。
あの時は由紀のことしか頭に浮かばなかったけれど、それ以外にも気にすべき人がいたらしい。
この思考が顔に出たのか、男は低い声でいった。
「心当たり、あるみたいじゃねえか」
「まさかとは思うけれど」
と、俺はその男の言葉にかぶせるように大きな声を出した。
土木の現場で鍛えた……というか鍛えないと引っぱたかれるから鍛えた声は、重機の轟音にかき消されない程度には大きくないと意味がない。車のアイドリング音程度じゃ俺の声は少しも覆えなかった。
男の姿勢がややぐらつく。半歩、後ろに下がった。
「あんた、綾華さんの彼氏じゃないよな」
そうでないことを祈る、くらいの感じでいってみたんだけれど、男は俺の言葉に、ぐっと一度息を飲んだ後、
「綾華を名前で呼ぶんじゃねえ」
とすごんできた。
俺はいい加減頭に血が上っていたから、明らかに自分より強そうな相手でもない限り、中途半端な脅しはかえっていらいらに火を注ぐだけだった。
「なんで名前も知らないような奴に」
俺はついっとあごを上げて、思い切り相手を見下した。同時に一歩踏み出す。
「んなこといわれなきゃならないんだ?」
男は異常に強気な俺の態度に、気圧されたらしい。思わず二歩引いた。
どう考えても素行が悪い先輩方や、不良と呼ばれることに何の違和感も持たない人々と付き合っていると、いやでもこういうときの対処法を知ることになる。頭に血が上っていても、その知識は出てきた。
「ふざけるな!」
本気で相手を脅すときは低い声で。喧嘩を売るときはでかい声で。
今出せる最大限の怒鳴り声が俺の口から出た。
男はまさかそんな展開になるなんて想像もしていなかったらしく、思わずさらに後ずさり、自分の車に寄りかかる姿勢になった。
ここで追い込むのはセオリーだ。余裕を与えてしまえば、相手を立ち直らせてしまう。
「綾華さんは、俺が好きな女のことで悩んでいたのを察してくれただけだ。やましいことなんか何もない」
一歩、さらに一歩と相手に詰め寄る。目は相手の目から絶対に外さない。
相手の顔が、さっきまでの怒りの形相から、戸惑い、恐れの表情に変わりつつある。
俺はさらに畳みかけた。頭に上った血が勢いを加速させる。
「だいたい、それが人に物を聞く態度かよ」
ついに距離はゼロに近くなった。のけぞるように車に寄りかかっている男に、のしかかるように視線を下ろす。
「くだらない女乗せていきがってる割に礼儀を知らない奴だな。土方なめてると怪我じゃすまないってこと、知らないわけじゃないだろうが」
「その辺にしといてやれ」
ポン、と肩に手がかかったのはその瞬間だった。
苛立ちが最高潮に達していた俺が、睨みつけるようにしてそっちを向くと、その先によく知っている顔があった。
「か、カケスさん」
カケスさんが、そこにいた。バイト先の社員であり、親父の友人であり、俺の喧嘩の師匠。いや、習ったつもりはないけれども。
「お前がたくましくなったのは嬉しいがな、何も学校の横で喧嘩することはないだろう。場所を考えるんだな」
視界の中に親父の姿もある。
「あんたも喧嘩を売るなら相手を見てからにするんだな」
なにやら陰気な顔をしたカケスさんは、俺の肩越しに相手を見た。
相手は、カケスさんのことを知っているらしい。
「掛巣さん、なんであなたが」
「ん?」
カケスさんは目を細めるようにして相手を見た後、俺を押しのけるようにした。
俺はもう毒気を抜かれてしまっていたし、そもそもカケスさん相手に怒りの発作を持続できるほど我も強くない。押されるままに横に移動した。
「なんだ? 知り合いか? 俺は知らんぞ?」
高校時代、あまりの凶暴さから近隣の不良たちを恐怖のどん底に叩き落したという、伝説の不良だ。カケスさんが知らなくても、相手が知っているということは充分ありえた。
現役時代から10年、多少横に広がったおかげで、たぶん迫力は以前にも増している。現場で一緒に働いているとただの気のいい兄さんだけれど、本気になったらどれだけ恐ろしい人か、不良上がりが多い同業者から数々の伝説を聞かされている身としては、むしろ迫られている相手に同情すら感じる。
「どうした?」
親父が、苦笑しながら近付いてきた。
「なんかよくわかんない。いきなり脅された」
「俺にはどう見てもお前が脅しているようにしか思えなかったがな」
「流れ的にそうなっただけだよ」
「まあ、お前から誰かを脅す度胸は無いか」
「その通りです」
俺も苦笑した。苛立ちは、きれいさっぱり消えていた。
「晃彦は俺の弟分だぞ? 大恩人の息子さんだぞ? 晃彦にいいがかりつけるとか、俺に喧嘩売ってるようなもんだぞ?」
すべて疑問系で迫るカケスさん。横顔がにやけているように見えるけれど、目も声もぜんぜん笑ってない。
怖すぎです。いやもうマジでちびりますって。
「何でカケスさんと一緒なの」
「あいつ以外は奥さんの実家にいるんだってさ。向こうの家の誰かが誕生日らしいんだけどな、女だけで宴会するから来るなとか何とかいわれたらしい」
「ああ、それで……」
陰気な顔をしていた理由がわかった。愛娘にまで「パパは来ないで」とか何とかいわれてしょげていたに違いない。娘関係以外で陰気になることなんかまず考えられない人だ。
「恐ろしく暗い声で仕事の電話してくるから、理由聞いてみたらかわいそうになってな。一人で飲みに行ってもつまらんだろうからうちに呼んだ」
「今日は泊まり?」
「に、なるだろうな」
こんな親父のどこがいいのか、中肉中背でのほほんとしている顔つきしか記憶に残らないようなわが父を見つつ、カケスさんは親父のどこにああも惚れてるんだろう、と不思議な気分になった。