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綾華さんはさすがだった。
「一緒に帰ったらいらない誤解されそうだしね。どうせアキちゃんもそれが気になって仕方ないんでしょ?」
そういうと、綾華さんは新宿から地元までの乗換駅で、一本遅らせて帰るからといって手を振った。
「俺が遅らせますって」
「妙な気を使うなよ、いいから行けって」
額を小突かれてしまった。俺が微妙な顔をして見送っていると、綾華さんはホーム横のトイレに姿を消していった。
「……ありがとうございました」
その背中に向かって、俺は深く深くお辞儀をした。そうしたくなる、綾華さんの背中だった。
そうして、俺の長い一日は、ようやく終わりを迎えつつあった。
この時は、そう思っていた。
立ったまま電車に揺られ、一人になって、ようやく俺の神経は落ち着きを取り戻していった。
なんだかんだいって綾華さんと一緒の時には、常に昂ぶっていたんだろう。急に疲れがどっと出てきた。
体力的なものじゃない。もっと、脳の奥から湧き出てくるような疲れ。
綾華さんにお礼のメールを打つ。なんて書けばいいのか悩んでいるうちに時間は過ぎて行く。
ようやく打ちおわり、送信しつつ、ふう、と大きくため息をつくと、地元の駅に着く。
駅前のロータリーをつっきり、最初の交差点で曲がり、家への道をたどり始めた時、携帯が鳴った。
綾華さんだろうか、と思って携帯を開くと、由紀からの電話だった。
どきんと胸が動く。
携帯の画面の中に浮かび上がる「渋谷由紀」の字体をちょっと眺めてから、キーを押し、左耳に押し当てる。時計は9時過ぎを表示していた。
「はい、佐藤です」
ちょっと硬い声になっていたかもしれない。
『渋谷です』
聞こえるぎりぎりの声で、由紀が名乗っている。携帯を持つ左手の親指が、サイドキーを数度押して、音量を限界まで上げていた。
「こんばんは。お疲れ様」
まばらに通る車やバイクの音にかき消されない程度にははっきりした声で、俺は携帯の向こうにいる由紀に話しかけた。
『こんばんは、お疲れ様です』
オウム返しに小さい声が聞こえてくる。
『こんな時間にごめんなさい。もう寝てましたか?』
「まだ。ていうか、外にいるし。聞こえるでしょ、車の音とか」
『あ、はい』
「どうだった、結婚式。楽しめた?」
『特に楽しくは……親戚が多いから、挨拶してるうちに終わっちゃった感じでした』
「そっか。花嫁さんはきれいだった?」
『ええ、きれいでした。写真もありますから、もしよろしければご覧下さい』
硬いなあ、この子は。いまどき、電話口でこんな敬語使える高校生っているのかね。
ていうか、他の家の花嫁にまで興味はないわけで。
「楽しみにしとく」
と、適当に答えておいて、俺は口調もそのままに話を切り替える。
「で、どうしたの? 声でも聞きたくなった?」
冗談に聞こえる程度には声に笑いを含めたつもり。由紀はその笑いには反応して来なかった。
『それもあります。でも、そうじゃないです』
「うん」
何がいいたいのか、なんとなくわかる気はしている。
今朝の電話の続きだろう。
『せっかく晃彦くんに誘ってもらえたのに、断ったのが気になって……』
「気にしなくていいのに。先約があったんだからそっち優先でしょ」
『それはそうですけど……』
「気にしないで。俺も今日はそれなりに忙しかったし」
『そうだったんです、か』
「久しぶりに休日にネットにつながらない一日だったよ」
『そうですか』
「結婚式ってやっぱ制服で出るの? 振袖着てたりとかはしないんでしょ?」
多分、由紀には俺がかなり意地悪に思えているんだろうと思う。本題に入りかけて、逸らしている。
『あの……』
恐る恐る、という感じで由紀が話を切ってくる。
「うん」
俺はこの時、少し後ろめたさがあった。だって、由紀のことをほったらかしにするみたいに、俺は綾華さんと一日デートしていたわけで。
由紀の細い声が、まるで俺を責めているように聞こえていた。そんなわけはないのに。
『……』
電話の向こうから、由紀がためらっているような息遣いが聞こえてきた、気がした。
『……』
どうした。がんばれ。俺は無言のままエールを送った。綾華さんの完璧超人っぷりをまざまざと見せつけられた一日の後だからか、変に余裕があったのかもしれない。
あるいは、罪悪感のような物が、どこか他人事のように思わせていたのかもしれない。
由紀はそんな俺のことをどう感じていたんだろう。それとも、俺の内心を伺う余裕なんか無かっただろうか。
この電話をかけるのにも、相当勇気が必要だっただろう。でも、かけてしまったものは、なんとか言葉を出さないといけない。
やっと、由紀は呼吸を整えた。
『……迷惑かもしれないし、失礼だとも思うんですけれど……今から、会えませんか』
「え」
これはちょっと意外だった。
「大丈夫なの?」
なぜなら、由紀の家が厳格で、こんな時間に外出できるとは思えなかったから。
『ごめんなさい、やっぱり迷惑ですよね、非常識でした、ごめんなさい』
「いや、そうじゃなくてさ」
由紀がいつものように暴走しかけたから、俺はあわてた。
「俺はいいんだよ、どうせ外にいるんだし。由紀の方が大丈夫なのかなって」
『それは大丈夫です。父も母も疲れて早く床に入りましたし、他の家族もそれぞれ部屋に入りましたから』
「そうなんだ。でも、ばれたら大変でしょ?」
『やっぱり迷惑ですか? 迷惑ですよね? ごめんなさい、私がおかしいんです』
「いや、だからね」
この子は。
「大丈夫ならいいんだよ。でも無理はしちゃだめだよ、夜遅いのは確かなんだから」
『無理なんかじゃないです。いつまでも子供じゃないんですから』
「でも女の子だからさ。いくら田舎だっていったって、危ないものは危ないわけで」
『あの、会えないならそれでいいんです、私が勝手に期待して勝手に盛り上がってるだけだから、晃彦くんに迷惑かけたくないし、わがままだってわかってるから』
「こら」
ちょっと大きく声を出すと、スピーカー越しにも由紀が身を固くしたのがわかった。
「そのすぐ暴走するのを何とかしなさい。可愛過ぎるから」
『……え』
我ながら恥ずかしいことをいい始めているのがわかるけれど、今さら止まれない。
「会えないとはいってないし、きみのわがままだとも思ってないよ。俺だって会いたいし。声だって、電話越しじゃ物足りないし」
由紀の息遣いが伝わってくる。押し殺してはいるけれど、わずかにもれてくる息の音の間隔は狭い。
「ちょうど外にいるんだし、会いに行くよ。ちょっと時間はかかるけど、待ってて」
『そ……そんな、私が行きます』
「何度もいわせないでね。いくら田舎でも女の子一人歩かせるわけにはいかないの。まして由紀みたいなかわいい子に来させるとかありえないから」
普段の俺なら絶対に口にしない「かわいい」という言葉がほいほい出てくる。
勢いって怖いね。
「出来るだけ早く行く。近くになったらこっちから電話入れるから。待ってて」
『……はい』
由紀の短い返事に、涙の成分が混じっている気がしたのは、たぶん勘違いじゃなかったと思うんだ。
こうして、俺の長い長い一日は、何度目かの仕切り直しを迎えた。