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十の命をわが下に……

作者: ナオユキ

 タメ息がついて出る。

 自分で気づかないほどの無意識からくる長々としたタメ息だった。一瞬後にそれと気づいて、悟志の抱える疲労感はいや増した。

 夜も更けかけた淋しい時間帯。うらぶれた住宅街の小道。首を地面の方向に曲げた格好で歩く冴えない男の姿があった。周囲の光景にふさわしく淋しげな風情をたたえた悟志は帰路の途中である。交互に踏み出す両足は実年齢に似合わなく頼りない。ほとんど惰性で筋肉を動かしている。アスファルトを踏む音も小さく、歩くというよりは引き摺るといったほうが幾度か正しい。見るからに疲労感を全身から発散していて、そんな自分を意識すればするほどさらに疲れが増してくる。

 ぶらんぶらんと両脇に揺れる腕にも力なく、片手に下げたビニール袋など指の第一関節にやっと引っかかっている程度である。前方から迫ってくる電信柱を避けるのも、幅数センチまで近づいた寸前に辛うじて逸れたという風で、まったくもって生気に欠けている。外灯に照らされたその顔には血の気がなく、悪い病気にでもかかった病人のようだ。事実、彼の心は病気になる一歩手前にまで切迫しているに等しかった。肉体的疲労と精神的疲労が二重に覆いかぶさって、脳からつま先にかけて炭酸ジュースの風呂にでも浸かったみたいにシュワシュワと発泡している。いつのまにか空気中に溶け出して、自分でも気づかぬうちに存在が消え去っていても不思議ではないかもしれない。

 悟志は郊外の一軒家に母親と二人で住んでいる。すでに鬼籍に入った父親が何十年も前に建てたボロ屋である。悟志は小さな頃から贅沢をしたためしはなく、家が建った当時もそれは変わらなかったらしく、友達の家に遊びに行くたびにみすぼらしい自宅を恥じたものだ。二階はなく、敷地面積とて他人に自慢できる坪数ではない。周りに聳える新興住宅群に比べたら、羊も群れの中に迷いこんだ猫といっても良かった。たださえ褒められた家ではないのに、老朽化のせいで今では涙さえ誘う域だ。。

 鍵を開けて横開きの扉を開ける。さすがに家の中は真っ暗で、母親はとっくに寝付いていた。最近、歳と共に就寝時間が早まってきていて、悟志が仕事を終えて帰ってくる時間では大抵会うことはなかった。たまにファンの芸能人が出演するドラマを遅くまで見ている時があっても、眠気に負けてテーブルに突っ伏して鼾を上げているがオチだ。

 食堂の電気をつける。冷蔵庫からいつも母親がつくり置きしてくれている夕食を盛った皿を取り出し、ラップごと電子レンジに放り込む。低い電子音がくぐもる炊飯器をあけて椀にご飯をよそい、冷たくなった味噌汁を温めずに椀に注ぐ。加熱終了を報せるメロディが流れ、レンジから熱くなった皿を取り出す。

 それらをテーブルに置いて簡単な食事を済ませる。母親の味はいつもと変わらないが、子供の頃から馴れている味だ。もはや、ウマいのかそうでないのかもあやふやだ。

 汚れた食器は流しに無雑作に投げ込む。明日にでも母親が洗ってくれるだろう。

 一息ついて、悟志は外で買ってきた物をビニール袋から取り出す。コンビ二に売っているショートケーキだった。酒が飲めない悟志にとって、甘い物にはストレスを一時的に忘れさせてくれる効能があった。仕事で疲れたときなどはこうして適当にお菓子を買ってきて食べるのだけが楽しみだったりする。

 しーん、と物音一つしない空気が嫌になって、何となくテレビをつけてみた。深夜バラエティ番組のガヤガヤ声にちょっと救われた思いがした。

 フォークを突き刺して生クリームとパン生地を一緒に掬い、口に運んでいく。舌に乗った甘い食感を歯で潰しながら楽しむ。やわらかく崩れ、唾液に溶け、液状化したそれが喉を伝って降りていく。同じ快感をまた味わいたくて性急にフォークを突き立てる。

 ふとしてテレビに目を向ける。中年の司会者と若い女性のゲストがさも面白げに笑い合っていてた。女性のゲストは近頃売り出し中のアイドルタレントらしく、芸能界の苦労やら何やらの世間話をしていた。悟志は芸能人やアイドルには欠片の興味も持ったことはなかったが、そんな彼の目にも女性の容貌はなかなか可愛らしく映った。

 と、突然、女性がこちらに顔を向けた。そして、じぃと真顔で悟志を見つめてくる。いや、普通ならカメラを見つめている言った方が正しいのだろうが、悟志にはそうは思えなかった。悟志には本当に、テレビの画面を越えた向こうにいる彼女がこちらを意識している視線を感じることができた。

 しかも、それまで笑っていたのが嘘のように女性の顔面からは表情が失せているのだ。代わりに彼女の目尻には世にも陰険な気配が宿り、言い難い不吉なオーラに正体不明の不安感が濃くなっていく。

 蛇ににらまれた蛙にでもなったように、悟志はケーキを運ぶフォークを止めて、その場に釘付けになった。奇妙な雰囲気がテレビから周囲に充満していくのが感じられた。

 そして、怖い顔をしたアイドルはほとんど唇を動かさず、機械にでもしゃべらせたようなかすれ声を出した。

「……し。さと……。さとし……」

 自分の名前が呼ばれているのが分かり、悟志は身を堅くした。だが、それは意外にも恐れからくるものではなかった。悟志にとってこれは恐れる必要などないし、驚くものでもなかった。彼がこれと同様に事態に立ち会うのは初めてではなかったからだ。

 悟志は、畏敬と感激に打たれて興奮しただけなのだった。

「さとし。わたしの、こえを、ききとどけよ」

 アイドルが発する言葉は抑揚にかけ、非常に聞き取りにくかったが、悟志は聴覚に全力を傾け、一言一句、聞き漏らすつもりはなかった。

「なんじに、めいずる。いけにえ……。いけにえを、ささげよ。じゅうのいのちを、わがもとへ、けんじょうせよ。くりかえす。じゅうのいのちを、わがもとへ……」

 アイドルは、じゅうのいのち、わがもとへ、という文節を傷のついたCDみたいに何度も繰り返した。悟志はその暗鬱なリズムにただ聞き入っていた。

 やがて、なんの前触れもなく尋常ではなかったアイドルの相好が崩れ、さっきまでの異様な場面は跡形もなく消えた。絶えていた馬鹿笑いが戻って番組は何事もなく再開した。

 金縛りにでもあったみたいに固まっていた悟志は、突然、電気を流された人形のようにフォークを投げ出し、性急な手つきで懐から手帳とボールペンを引っ張り出した。パラパラとページを目繰り、あたりをつけた白紙のページの上辺の空白に慌ただしくペンを走らせる。

 第20回目のお告げ。

 白紙のページにそのように冠した。

 悟志の顔面は、知らず知らずに心から沸き起こった笑みに占められていた。




朝、まだ日は顔を見せない。

 霧が濃かった。玄関を出た瞬間から視界にはクリーム色の涼やかな幕がおろされた。事実、最近なかった気温の低さに起き抜けには体が震えた。

 黒のオーバーを着た悟志は可視化した気体をかき混ぜながら歩いていく。そよとした風に乗せられて乳白色の影が妖しく揺らめく。

 普段からこの一画は騒がしいところではないけれど、今はどこまでも静かだ。異世界にでも迷い込んだような、だれも住んではいなかったような、自分は世界でたった一人のような、そんな気分にさせられる静けさだった。

 そのような空想を打ち破るように、霧を透かして前方に人影が現れた。自分以外には誰もいないというチャチな幻想は素っ気なく否定された。

 先方は自転車に乗っていた。中年の男性である。随分と早起きだ。

 相貌の判別がつく距離まで近づいたとき、悟志は握っていた傘の先鋒を掴み、バットを振りかぶる要領で構える。

 気づかずに横を通り過ぎようとした男性の顔面めがけて思いっきり叩きつけた。

 バチン! 

 手に大きな衝撃が生じる。負けじと両腕に力を込める。

 威勢のいい音がわずかにして、婉曲する柄の部分がもげた。それに続いて自転車の転倒する音が一番派手だった。

 男性は尻もちをついて状況が理解できずに呆然としている。ちょうど鼻梁の中央に赤い丸ができているところをみると狙いは上々らしい。

 悟志は間髪いれずに男性のもとに駆けより、勢いにまかせてその赤い丸を皮靴の先端で蹴飛ばした。

 男性の上半身は大きくのけ反り、後頭部が地面に激突する。低くうめき、鼻血が玉になって噴きだす。濃い霧が男性の首から上を隠してしまった。

 なんだか霧が相手の味方をしているようでムカついた。霧を突き破って足をふり上げ、男性の額を踏みつける。昔、スイカを踏み潰して破裂させた感触が蘇ってくる。

 固いアスファルトに挟まれて圧迫され、足蹴にされ、擦りつけられ、だんだんと頭部が変形してきていた。

 悟志は一切容赦はせず、ぐちゃぐちゃになるまで踏みつけた。男性の身体にはもう随意的な運動をする余力はなく、ただ、悟志が足を落す振動に連動して揺れている。

 胸部や股間を蹴飛ばしてみても全然抵抗しなくなった。作業を終えたのを確認して、悟志はその場を離れた。白い世界に赤い領域が広がっていく。

 手帳とボールペンを取り出してページを繰り、横線を一本記入する。

 とっさに思いついて倒れていた自転車を立て直した。サドルにまたがって走り出す。

 さて、これからどこに行こう。




 

 バタバタバタバタ。

 目の前で白衣の裾がマントみたいにひるがえる。どうしてこの医者は前のボタンを締めないのだろうか。まったく目障りだったらない。

 悟志はそんなことを考えながら医者の後を追っていた。ホールにいた人々は只ならぬ様子にみんな好奇をこめた視線をとばしてくる。

 急患である。先ほど、ナースセンターにコールが入った。どうやらひとりの患者がそうとうな苦痛を訴えているとのこと。担当の看護師は不在のため他の看護師にお鉢が回ってきたというわけだ。

 悟志の気は進まなかった。これまでにも今回のようなケースで初歩的なミスを冒すことが多々あったからだ。落ち着いてやればなんでもないことでも、緊急時になると緊張して正常な思考判断が鈍り、思わぬところで失敗する。ミスをするたびに先輩からはこっぴどく叱られ、同僚には笑われ、患者からは陰口を叩かれる。

 いい加減うんざりだ。

 病棟の入院部屋に入ると大変なことになっていた。相部屋の人々が遠巻きになって見守る先で、件の患者である老女は苦しげにシーツを引っ張り、身体をくの字に折り曲げていた。先に到着していた看護師が懸命に応急処置を施していたが、この様子では期待できる成果は出せなかったらしい。

 医者は看護師を邪険に押しやって、暴れる老女の肩に手を掛けてどこが苦しいのかと質問する。医者が患者の状態を把握している間に、悟志は治療の道具を積みこんだカートをゆっくりと邪魔にならない位置に置いた。

 医者は老女から目を離さずに手だけを後方に差し出して、乱暴な口調で鎮痛剤の注射を要求する。注射はナプキンを入れた容器の隣に並んでいたが、悟志はそちらには手を出さず、どさくさに紛れて用意しておいた別の注射器を手渡した。

 注射器は中の薬品こそ違えど鎮痛剤のものと同じサイズの容器を使ったので、見ただけでは専門職といえど判別はできない。医者は疑うことなく患者の静脈に針を潜りこませた。シリンダーから透明な液体がゆるやかに注入されていく。

 老女の苦悶は消えた。鎮痛剤なら本来、ここまでの即効性は発揮しないのだが、とにかく容態が落ち着いたことに安堵して、医者はただ安静にしてくださいと言い残して去っていった。注射したのが彼の望んだ鎮痛剤とまったく違うものだったとは知らずに。

 翌日、老女は人知れず息を引きとっていた。

 悟志は手帳に縦線が一本増やした。




 最初にあの「お告げ」を耳にしたのは、一体、どれくらい前だったのだろう。詳しいことは忘れてしまった。ただ一つ分かっていること。それは、悟志にとっての人の命とはページに描かれる一本の線だということだ。




 世界が橙色に染まっている。道行く人々は誰もがもれなく蜜柑になっている。たくさんの二足歩行の蜜柑たちがあっちこっち歩き回っている。同じく蜜柑になった悟志が自転車で行く。

 悟志が乗っているのは先日の朝に拝借した自転車だった。最近ではどこに出掛けるにしてもお金のかかるバスではなく、もっぱら、この自転車を利用している。

 サイクリングして風に当たるのは気持ちの良いものだし、適度な運動にもなって実に健康的だ。バスのように時間には縛られないし、手間はかかるがどこに出掛けるにしても自転車のほうが自由度も高い。

 悟志にしては珍しくこの代物を気に入っていた。お得な拾い物をしたとの充実感があり、調子に乗っていろんな場所に足をむけたりした。急な坂道を一気に駆け下りるスリル感など子供の時に味わって以来であった。

 だから、その日が久しぶりに楽しい時間を過ごさせてもらった自転車との、お別れの日にるなど知る由もなく、後々、それがが悲しくもあり、また嬉しくもあったという複雑な気分にさせられるのだ。

 悟志に直感が与えられたのは大きな橋の上を走っている最中だった。悟志が走っていく方向に歩いている親子連れがいた。夕食の材料を買いに行っていたのだろう。母親と思しき丸髷の後姿の人の片手にはビニールの袋、もう片手には小さな手を握っている。まだ三歳前後のような子供は母親に引かれつつ、しきりにアイス棒を舐めているようだった。

 それを見て悟志は確信した。ああ、来てしまったのだと。よりによって今……。自転車を捨ててしまうのは辛い。しかし、決まってしまった運命には逆らえない。自転車のことは諦めよう。

 悟志はペダルを踏む力を強めた。スピードがグンと上がる。ハンドルを強く握り、両足をさらに素早く回転させる。

 母親が後方から近づいていくるチェーンの回る音に振り返る。だが、時すでに遅い。

 前輪が幼い身体に衝突する。つながっていた子供の小さな手が離され、母親は横手に突き飛ばされる。車輪の下で柔らかな肉の塊を横断していく感触がリアルに伝わってくる。薄い背中をタイヤが轢いていく最中、脊椎が粉砕したのが感じられた。

 後輪が子供の着衣に滑ってバランスを崩し、聡は自転車ごと倒れた。自転車の下敷きになる前に抜け出して体勢を整える。状況確認のためにサッと子供の様子を見遣る。

 子供は内臓が破裂したらしく口から大量の血潮を吐きまくっていた。さらに背骨が折れ曲がったように湾曲しているのを見て、悟志は回復の見込みは薄いと判断した。目的は無事に完遂した。

 悟志はその場から消えるため全速力で走った。後ろから正気づいた母親の悲痛な叫び声が尾をひいた。。

 手帳に新しく横線を加えてから、置き去りにしてしまった自転車に申し訳ないと謝った。




 夜。でも一日の境目は越えていない中途半端な時刻。

 悟志は今、他人の民家の軒下にいる。べつに知り合いの家というわけではなく、ほとんどくじ引き同然の巡り会わせが働いた結果、その家の敷地に忍び込んだのた。とどのつまりは適当である。強いて理由を挙げるなら、玄関の表札にしたためている「川村」という名字が、昔いた同姓のムカつくヤツから受けた不快な行いの記憶を思い出させたからだろうか。

 悟志は家人に気づかれないように慎重に息を殺して移動していた。抜き足差し足忍び足である。庭を半周したあたりで足を止めた。

 ちょうど底辺が腰のあたりくらいから伸びたガラス窓がある。照明のあかりが外に漏れているので誰かがいることは明らか。問題は何人いるかだ。

 幸いにもカーテンが引かれていて、外から透かして覗いても、内側からはわかりづらい。

 どうやら窓の向こうにいるのは女の子が一人いるだけのようだ。見た目は中学生に入学したばかりといった感じ。ベッドの寝そべってポッキーをつまみながらケータイに向かって大声で談笑している。部屋中に外にいても聞こえるほどの音量でBGMを流していた。

 悟志は窓の枠下に屈んで隠れ、コンコン、とノックする形で窓ガラスを鳴らした。音楽に隠れて聞こえない可能性があるので割りと強めにした。

 しばらく待っても反応がない。本当に音がといていないかのしれないし、または、こちらを探っている可能性もある。覗いて確かめたくても迂闊にはできない。

 もう一度コンコン、とノックする。

 すると、今度は変化があった。女の子は窓枠まで来て鍵を開けている。

 女の子が不思議そうな顔つきで窓から身を乗り出したのに合わせて、悟志の両手が下側から伸びていく。女の子の首筋にまわしてガッチリと捕獲し、全体重をかけて下に引っ張った。

 キャッ、と驚きの声をあげて女の子はつんのめり、軽い身体は一回転して外の庭にどさりと落ちた。

 事態を理解させる暇を与えず、悟志は女の子に馬乗りになって四肢の自由を奪った。悲鳴を上げられる前に悟志は持っていたハンマーで女の子を殴りつけた。

 ゴリッ、と音がして女の子のコメカミらへんにヒットした。続けてもう一打を脳天めがけて繰り出す。

「まっ! ちょ、ま、まっ! あっ」

 女の子は両腕で頭を庇おうとするが、最初の一撃で脳震盪でも起こしたのか死に物狂いの抵抗をしているはずなのに、どうにも力がはいっていない。多少の物音なら部屋から流れる音楽がかき消してくれる。悟志は力押しで強引に決着をつけることにした。

 グリッ。ガリッ。グチッ。ヌプッ。

 頭皮が裂け、頭蓋骨が割れ、髄液があふれた。ハンマーに長い黒髪が絡みつく。血の飛沫がパッパッとハネ上がり、灰色のブヨッとした肉片があたりに撒き散らされた。

 何度目か攻撃をして、さすがに腕も痺れてきたので、一旦休めるが、腿の下で仰のいている肉体の破壊具合は充分にみえた。上部に連結されている相貌は素人が刻んだトマトみたいだし、腹部の鼓動がみられないということは呼吸も止まっている。

 立ち上がって自分の顔についた液体を手の甲で拭う。ハンカチで手の汚れを拭いさって、手帳に縦線を引いた。




 「お告げ」に従うとなぜか捕まらない。どんなに杜撰な犯行であってもなぜか上手くいく。悟志のもとに警察の手が届くことはない。それどころか、現場を目撃されても誰一人として悟志を通報する者はいない。

 自分は天に選ばれたのだと思った。もしくは悪魔に見初められたのだ。どっちにしても自分には理屈から外れた守護がついているのだと確信していた。

 



 うららかな休日の正午。天頂にのぼった太陽の光はやさしく、肌を掠める風のほのかな冷たさはいっそう心地よく、草木から薫ってくる植物の匂いが鼻を喜ばせてくれる。

 そんなのどかな風景に似合わない家宅が一軒あった。庭先でなにやら口論している。

「おじいさん、危ないから早く降りてきてください!」

「心配ねえよ。すぐに終わるから」

「いいえ、だめです。早く、ほら! もうどうして梯子なんかに……!」

「大丈夫だよ。オレは若い頃から梯子とは友達みたいなものなんだ」

「そんなこと言ったって、もし足が滑ったりしたらどうするんです。私はおじいさんんお世話を任されているんです。もしものことがあったらあの人にどんな顔をしたら……」

「オレの息子なら、オレがどんなにこういうことに手慣れているかよぅく知ってる。あんたは心配しずぎなんだ。ちょっと待っとれ」

「………ああ、そうですか。では好きにしてください」

 家の壁に立掛けられた梯子の下から呼びかけていた女性は腹を立ててしまい、捨て台詞だけを残して家に入っていった。梯子の上にはいかにも危なっかしい様子の老人がひとり取り残された。

 悟志は向かいの家の塀に寄りかかり、人待ち顔を装って、その一部始終を目にしていた。

 老人は梯子にのぼって何をしているのかといえば、特に破損も変質もしていないキレイな屋壁にカナヅチで釘を打ちつけているのだ。なにか意味のある行為なのだろうかと、その秘められた意図を察しようとしたが見当もつかない。そこにこの家の嫁らしき人物がでてきて、だいたい理解できた。

 老人は認知症だった。老人の視点では、彼はまさに大工仕事の真っ最中なのだった。どんなにそれが無意味な行いであったとしても。

 悟志は自然な動作で家の梯子の下に歩いていった。その梯子は支柱もなにもない昔ながらの壁に立掛けるだけの仕組みで、ずいぶん不安定そうだった。

 老人は悟志の存在に気づいた。

「おや、お客さんかね。わるいね仕事中で。ここが終わったらすぐにお茶を出すからの」

 老人はにこやかな表情を悟志に向けた。

 悟志は手で梯子を押した。

 あまりにもあっけなく梯子は転倒した。大きな物音があたり一帯に鳴り響き、老人が悟志の足元に落下してきた。

 生死は確認するまでもなかった。後頭部が花壇を囲むレンガの角にめり込んでいたからだ。虚ろな瞳が羊雲を散らす青空を映している。

 ふと横を向くと、物音に驚いて飛び出してきたのか、さっきの女性が棒のように突っ立って茫然としていた。悟志を、いや、その足元の動かなくなった老人を凝視していた。

 悟志は何事もなかったように女性の脇を通り過ぎた。通りに出てから振り返っても、相変わらず女性の時間は止まったままだった。

 手帳に横線を記すと「正」という字ができた。




 悟志の前でバスが停まった。悟志が座っているベンチはバス停の待合席だったので乗客だと間違えられても仕方がない。

 プシューッ、というガス抜け音と共にドアが開き、乗車を誘う。乗りますか? と質問してきた運転手に否定の身振りを示す。

 ドアが閉まりバスは再び発車した。乗客の何人かが車窓から悟志を見下ろしている。それとも、単に外の景色を見ていただけか。こんもり曇った空色は朝から物憂げな気分にさせる。

 腕時計をみるとまだ午前七時半。目当てのバスがやって来るまで三十分はある。この前、本意中の不本意ながら自転車を手放してしまったばかりに、悟志はまたしても以前とようにバスで職場に通わなくてならなくなった。

 それにしても、どうして今日に限っていつもにない早さで家を出てしまったのだろう。きっと自転車通いの習慣が抜けきっていないのかもしれない。いや、それとも……。

 とにかく、バスが来るまで待ってなくてはならない。悟志は、そういう場合にいつもしているように、ベンチに座ってジッと身動きを止めた。何もすることがないときは、何もしない方が良いのだ。

 車道には朝の通勤ラッシュが展開されている。車どおりはひっきりなしで信号前では列をつくることもしばしばだ。

 幅狭い視界のなかに現れては去っていく自動車たち。まるでうたかたの幻影のように瞬間の色彩を残像にして刻んでいく。沈んだ天気のしたを疾走する車体はどれも、どこか不機嫌そうにむっつりしているようだ。

 微量の眠気によって麻痺しかけた脳髄を貫く甲高い音が発生したのはそのときだった。救急車特有のサイレンが横からどんどん大きくなってくる。

 見るとまさに救急車が一台、こちらの方向に走ってくる。通勤途中の車たちはサイレンの効力で路肩に寄っていく。

 稲妻にも似た直感が轟いた。

 悟志は弾かれたようにベンチから腰を上げ、路上に駆け込んだ。そして、まさに走り抜けようとする救急車の真ん前に立ちはだかった。

 突然現れた乱入者に動転したのは救急車の運転主だった。反射的にハンドルを大胆にきったたため、救急車は悟志を轢かずに逸れたものの、きりかえしに失敗して路傍に停車していた一台の自動車に横っ面から衝突してしまった。

 かつてない大音響が場を圧した。ほんの数秒間、怖いほどの静寂がこの空間を支配していた。人々が成す術なく凍りついている間に、悟志は現場から退避していた。

 次の瞬間、爆発したような喧騒が事故現場に満ち満ちた。野次馬の濁流に紛れて悟志はまんまと逃げおおせた。

 後のニュースによると、この事故で死亡したのは救急車の運転手一名と搬送されていた患者一名、そして、暴走した救急車が突進した車の主一名、計三名だったという。

 「正」の隣に三つの線を書いた。




 何のために「お告げ」が下されるのか、その真意は定かじゃない。何者の意思によって行われ、どのような意味を持っているのか。

 しかし、悟志にとってそんな事はどうでも良いことだった。ようは犯罪が日頃のストレスを解消する手立てになるのなら、そして、犯罪を半ば趣味的に行える環境が提供されるのならば、それだけで文句はないのだった。




 今日は特別な晩になる。悟志は珍しく浮き足立ち、ソワソワと落ちつかない様子だった。

 先日、ついに九本目の線を引いた。真夜中の路地裏だった。ゴミ捨て場に積み重ねられたゴミ袋の一つに背中をあずけて熟睡している泥酔男をみつけた。チャンスとばかりに手近にあったブロックを掴んだ。御あつらえ向きにも泥酔男は頸のつけ根を斬首刑の罪人みたいに突き出して眠っていため、その急所を狙って投げつけた。素晴らしい手応えを感じて、確かめると頚椎がぐにゃりと折れていた。一応、脈を調べてみたが完璧に止まっていた。申し分のない手際といえた。

 そして、ついに来た。最後の時が来てしまった。悟志はこれまで、できる限り楽しみを先延ばしにしたくて制限人数までちびりちびりとこなしてきたつもりだった。しかし、一度火がつくとなかなかコントロールが難しくなり、結局、あっという間に残りは後ひとつとなってしまったのだった。

 前回の件はどうだっか、残念ながら記憶が薄れていてよく思い出せないが、最後になって後悔したのだけは覚えている気がする。

 とはいえ、泣いても笑ってもこれが最後である。次があるかどうかはまったくの不明だ。だから、せめて最後なのだから、自分なりのお祝いをしよう、と悟志は考えていた。

 十本目記念としてまずはシュークリームを買った。このシュークリームは話題のケーキ屋の名物商品なので、普段ならなかなか手が出せない値段の高級菓子なのである。それを一個買ってきて、事が済んだらゆっくりと舌鼓を打つつもりだ。

 それから、こればかりは本当にサプライズ。これまでに試したことない趣向だったが、今回はなぜかやる気になっていた。

 押入れから母親が若い頃に購入したというイヴニングドレスを引っ張り出した。埃まみれのうえ樟脳のニオイが染み付いていたので、日中に丸洗いして天日に晒した。多少はニオイも良くなった。それを身にまとい、母が使っていた鏡台に座っておつけ直しをした。抽斗にしまわれていた化粧品の類いを台上に並べてみた。母が毎日していた化粧の仕方を思い出して苦心しつつファンデーションを塗りつけた。アイシャドウをひき、まつげを反り返らせ、眉毛を描いた。口紅をべったりと塗って舌で嘗めとってみた。そして、この日のために購入しておいた黒い長髪のカツラを頭に被せる。

 鏡をのぞいてみると、下手な化粧をマブしたボサボザ髪のお化けが笑っていた。これで良いと悟志は満足した。

 特別のシュークリームをきちんと冷蔵庫にしまったのを確認して、いざ、外に飛び出して行った。

 悟志はその格好のまま繁華街を練り歩いた。街中では注目の的だった。誰もが悟志の方を振り返り、意味ありげな視線をなげかけてくる。一般の人だったら敬遠しそうなコワそうなオニイサンたちでも悟志の姿を目にした途端、頬を引き攣らせる始末だった。

 悟志はすっかり得意になり、堂々と人波を割って進んでいった。が、中には悟志の容姿に怖気づかない人種もいるらしく、例えば、ある肩がぶつかったチンピラなどは「このブスオカマ野郎」と悪態をつき、さらに唾を吐くというオマケ付きの面罵を表現してみせた。

 それでも悟志は挫けなかった。飽くまで堂々とした態度を崩さなかった。それは根拠のない自信を依り代にしたものではなく、これまでの他人とは異質な経験によって裏打ちされた信念から漲るものなのだった。

 そして、ついに例の直感が訪れたのは、ある一組のカップルを目にしたときだった。

 目が離せなくなった。セーラー服を着た女子高生とくたびれたスーツ姿の中年。援助交際を絵に描いたようなわかりやすいカップルだった。そのわかりやすさが妙に気に入り、距離を置いてつけてみた。

 二人は繁華街を抜けて路地裏に入っていった。照明が極端に減って薄暗くなっていく。二人は仲良く談笑しながら目立たないうらぶれたラブホテルに入っていった。

 悟志は近くの茂みに隠れて待つことにした。

 一時間が経過した頃。ようやく二人が外に出てきた。通りで分かれて互いに別々の方向に歩いていった。どちらにするか迷いはしなかった。悟志が初めから目をつけていたのは女子高生のほうだったのだから。

 彼女はまるで襲ってくれとでも言わんばかりに人気のない方へと歩いていった。そっちに自宅があるのか、それとも新しい稼ぎの約束でもあるのか。そんな事はどうでもいいが悟志にとっては非常に都合がいい。

 遊び心は大切だが油断は禁物だ。一気に畳み掛けるつもりだった。歩きづらい女物のブーツを脱ぎ捨て素足で地面を蹴る。隠し持っていた柳刃包丁を抜き取っていつでも突き刺せる構えをとる。セーラー服の背中がどんどん間近に迫ってくる。

 しかし、やはり何もかも完璧というわけにはいかない。女子高生は気配を察して振り向いたのだ。

 迫り来る異様な風体の通り魔を目にして、息をのむ暇もなく、反射的に逃げ出した。あと一歩というところで取り逃がした獲物に、悟志は思わず舌打ちをしたが、これはこれはで面白いと思い直した。

 見れば、恐怖でパニックに陥った彼女の足取りは見るからに覚束ない。なんでもないところで躓いたりするし、絶えず背中に注意を向けているので前にある障害物を避けきれずにぶつかったりする。これでは追いつくのも案外簡単そうだ。

 しかし、油断は禁物。悟志は慎重に機会を見計らい、隙を突いて駆け出した。女子高生はここにきて初めて悲鳴らしい悲鳴を高らかに絞り出した。

 悲鳴を聞きつけて誰かが来ないともかぎらないが、悟志は一向に気にしなかった。自分には見えない力の守護がついているとの自負があり、そして、何が起ころうとも自分はこれをやり遂げるだろうとの確信があった。

 やがて、女子高生はフェンスを乗り越えて影の塊が林立する工事現場に逃げ込んだ。

 あちゃ、面倒くさいことになったな。

 しかたなく悟志も工事現場のなかに侵入した。昼間は掘削機やクレーンの駆動音で充たされるこの空間も、作業員不在では廃墟も同然に静まり返る。

 その沈静を打ち破る騒がしい足音がどこからともなく聞こえてくる。どちらににいるのかはだいたい見当がついてしまう。狂奔する人間ひとりが立てる物音はこの静かな空間においては異質すぎる。

 悟志は工事途中の小さなビルの中に入っていく。当たりをつけて探していくと、彼女が通った証拠となる手がかりがそこかしこに見つけられた。床に積もった埃に新しく付けられた足跡だとか、散らかされた道具だとか……。

 そして、耳を澄ましていると聞こえてくる、彼女の息遣い。恐怖と酸欠のせいで止めたくても止められなくなった荒い呼吸音。

 それが聞えてくる部屋の前に立つ。包丁をしっかりと握りしめ、勢いよくドアを開ける。

 部屋に乱入した瞬間、脳天に鈍い衝撃を受けた。悟志はポカンと間抜け顔をさらして動きを止めた。額に手をやるとヌルリとした液体が指についた。暗闇を透かして女子高生が片手に鉄パイプのようなものを持っているのが認められた。

 悟志は予想外の反撃を食らったのだ。

 悟志はにわかに逆上した。

 それから先は悟志の記憶に残っていなかった。気がつくと女子高生の顔といわず、胸といわず、腹といわず、足といわず、とにかく全身くまなくメッタ刺しにしている自分に気づいた。

 意識が飛ぶほどの怒りに駆られていたらしい。が、ここまでやれば気も済むというものだ。悟志は立ち上がって帰ろうとした。

 だが、受けたダメージは予想以上に深刻だったらしく、さっきまでは煮えたけるアドレナリンの作用によってはねつけていた痛みがふいに襲いかかってきた。

 ふらふらと二、三歩踏み出したものの耐えがたい眩暈に抗いきれず、前のめりに倒れ伏してしまった。が、不幸なことに倒れただけで終わらなかった。

 まったく意識朦朧としながらも包丁はしっかり持っていたことが禍いした。倒れた拍子に包丁の鋭い切っ先が自分の脇腹を貫いたのだ。

 息がつまり、遅れてきた激痛に、悟志は声をかぎりに叫んだ。

 



 なんとか自宅までたどり着いた。

 しかし、もはや限界であった。負傷した箇所は手で押さえてはいたものの、指の隙間からとめどなく漏れ出ていく大量の血液は道々垂れ流してきた。悟志の身体からはすでに生命の源が尽きようとしていた。

 玄関に膝を突いて倒れ、肩で息をしていた。意地だけで重い肉体を引き摺った。包丁が刺さったのが比較的重要な血管の通っていない脇腹だったのが不幸中の幸い。とはいえ、腹筋に力をいれられずにここまで歩いてきたのだから体力など空っぽになっている。

 ゾンビみたいに這い回って台所まで来たが、そこで本当に限界がきたみたいだった。四肢も胴体も満足に動かせない。もう潔く諦めるしかない。

 壁に背中を預けて心を静めた。腹に空いた穴からは変わらず黒ずんだ血液がじゅくじゅく染み出している。母のドレスは真っ赤に染まり、服を伝って床にまで広がっていく。

 最後の仕事だ。悟志はポケットから手帳とボールペンを取り出し、例のページをめくる。最後の横線をつけ足し、二つの「正」の文字は並んでいる。

 それを眺めているうちに思い当たることがあった。そういえば前回もこうじゃなかったか、と。

 前回、十九回目の「お告げ」のときも最後の十本目はこうして瀕死の負傷に耐えながら線を記入したのだ。

 そうだ。今すべて思い出した。あの最初の「お告げ」を受けたときから数えて二十回。九人をつつがなく送り、十人目を送るときに不慮の事故が起こって自分も死ぬ。同じことを繰り返してきたのだ。人の命を奪っては最後に自分も死ぬ。毎回、「お告げ」によって死した悟志は呼び出されて人を殺し、同様の手順で悟志自身は元いた場所に戻っていく。

 となると、母親は……ははっ、何言ってる。母親なんてもう何年も前に……。

 それが真実だ。悟志はようやく安堵した。なんだ、死なんてちっとも恐いことなんてない。「お告げ」が必要としたとき、また自分は目覚めるのだ。そして、それこそが再び巡ってくる悦楽の密を啜る機会となる。「お告げ」に従っている時間だけが、己を己として何一つ偽らなくてすむ真の自由なのだから。その時が来るまで待てばいいだけなのだ。いつまでも、いつまでも……。

 視界全体に霧が立ち込めていく。今は夜中なのに妙に白い。全身が炭酸ジュースみたいに発砲していく。全身が空気中に溶け出して、いつのまにか存在が消えても不思議じゃない。

 シュワ、シュワ、シュワ、シュワ、シュワ……。




 悟志は消えた。

 あとに残されたのは無人の廃屋。そこだけ何度も血が流されたかのような黒い染み。そして、電気の通わない冷蔵庫のなかで朽ち果てていくシュークリームの山だけだった。



                            (終)

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[一言] 特に相手を殺しているシーンの文章表現が好きでした 非常に読みやすかったです
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