第5話 馬鹿なんじゃないか
★
大の大人が、涙を流し、鼻水を垂れ流し、無様にも這いつくばって赦しを請う姿勢ほど醜いものは無い。謝罪の言葉の一切を受け入れなかった神楽宝樹は、後処理を供回りの1人へと任せ、その部屋を後にした。
この感情は、苛立ちだ。
自分を裏切ったその人間に対してではない。
その人間が紡ぎ出した言葉の羅列を、愚かにも額面通りに受け入れてしまった過去の自分に対してだ。
「……私もまだまだね」
近くに侍る黒服の1人が小さく震えた気がして、宝樹は僅かにそちらへと向ける。しかし、その時には既に平常心を取り戻すことに成功していたのか、その黒服に異変は見られなかった。
宝樹は視線を前に戻して歩き出す。
離れと呼ぶには長すぎるその廊下を。
「今回の一件、おじい様への報告は私がするわ」
「はっ。御当主様の予定を確認して参ります。何に対する面会か、前以って伝えさせて頂いても?」
「ええ、構わないわ」
「畏まりました。手配致します」
「お前は……」
宝樹の供回りを、一緒にいた同僚へと任せてその場を去ろうとする黒服へ、宝樹が声を掛ける。それは半ば無意識のものだった。しかし、しっかりとその言葉が耳に届いていた黒服は一度立ち止まり、改めて宝樹へと向き直る。
宝樹の頭の中では、口にする前からそれが愚問であることに気付いていた。
しかし、結局は口にすることにした。
「お前は、私のために死ぬ覚悟がある?」
「勿論でございます。お嬢様から頂戴しました御恩を忘れたことはございません。この身朽ち果てるまで、お仕えいたします」
あの女も、言い回しは多少違うが同じようなことを言っていた。
結局、宝樹は裏切られる形となったわけだが。
別に初めてのことではない。
供回りだって人間だ。欲はある。それが今回は異性に対するものだったというだけ。甘言にそそのかされて、他国に神楽家の情報をリークしそうになった。宝樹の供回りは女性しかいない。しかし、それを男性に変えたところで相手側もそれに合わせて変えてくるだけだから意味は無いだろう。
「……そう。行っていいわよ」
「はっ。失礼致します」
その後姿を宝樹は見送る。
信用も信頼もしてはいけない。
ただ、利用できそうだから利用するだけ。
心を冷やす。
冷徹に。
何の躊躇いも無く、切り捨てられるように。
――――宝樹様。私は、貴方が『いらない』と仰るその日まで、貴方のお傍にいますからね。
脳裏に蘇ったその言葉に、宝樹の顔がしかめられた。
頭を振る。
宝樹は歩き始めた。
その時にはもう、宝樹の表情に感情の色は残っていなかった。
☆
「馬鹿なんじゃないか? あいつは」
学食にて。
生姜焼き定食をテーブルに置いてからそう切り出してみた。
もう1週間。
1週間である。
神楽はあの衝撃的な顔合わせから1週間学園に来ていない。
舞は肩を竦めるだけだし、可憐は苦笑いで咲夜は姉の顔色を窺っている。エマは最近では聞き慣れてしまった唸り声を上げているし、美月はそんなエマから逃れるように、そっと席を1つずらした。
「聖夜ぁ、午後の授業は合同だからよろしくなー」
「おう」
通りすがりに声を掛けてきた将人に手を挙げて応える。
午後の授業は、魔法実習だ。
確か、内容は集団戦を想定しての立ち回りについてだったはず。
そういった内容の場合、人数の少ないクラス=Aでは対応しきれないため、他のクラスと合同でやることもある。今日はまさにその日だった。
生姜焼きにかぶりつく。
美味しい。
それにしても神楽である。
何なんだよ。やる気ないなら最初から来るんじゃねーよ。場を引っ掻き回すだけ引っ掻き回して、このままさようならじゃないだろうな。……いや、その方がエマの精神状態としては良いんだろうけど。唸りながらとろろそばを啜っているエマを見て、気付かれる前に視線を外した。
「……どうしたものかね」
そう呟いたところで意味は無い。
俺が何をするにしても、神楽が学園に来なければ始まらないのだから。
☆
《マスター》
「……ああ」
ウリウムの声に頷く。
そろそろ寝ようかという時間。ベッドに腰を掛け、今まさに電気を消そうと思っていたタイミングだった。照明のスイッチに伸びかけていた手を止めて、代わりに机の上に置いていたウリウムへと手を伸ばす。
その気配は突然現れた。
明らかな違和感。
意図的にそうしたとしか思えない。
近付いてくる気配など無く、本当に突然その気配を察知した。
俺の部屋の、扉の外に。
「……神楽だと思うか?」
《……何とも言えないわね。でも、あの子だったら扉を壊して入ってきそうだけど》
違いない。
どう対応すべきかと思考を巡らせていると、あちら側からアクションがあった。こんこん、と。無機質なノックの音が室内に響く。この時点で、相手は神楽ではないことがほぼ確実となった。あいつは相手方にお伺いをたてるような奴じゃない。先ほどのウリウムの「扉を壊して入ってきそう」まではいかなくても、何もせずに扉の前で待ち続けて「いつまでこの私を待たせるつもりなの」くらいは言ってきそうだ。
立ち上がる。
身体の節々が痛い。
扉の前まで向かい、覗き窓から外の様子を窺ってみた。
黒服を身に纏った女が、直立不動で待機していた。
「このままUターンして電気消して寝たいんだが?」
《そんなことできないってことは、マスターが一番理解しているでしょうに》
俺の小声での提案に、ウリウムが呆れたように返す。
うっせぇ。
分かってるわ。
開錠して扉を開ける。
一歩退いた黒服が、お手本のような一礼をしてみせた。
「夜分遅くに申し訳ございません。中条聖夜様を神楽家へご招待に参りました」
結構です。
そう一言で切り捨てられたらどれだけ楽だろうか。
「今からですか?」
「左様です」
毅然とした態度でそう言い切られる。
今が何時か分かっていますか、という問いは無意味だということは理解した。
「ちなみに断ることは?」
「意思を示すことは可能ですが、推奨はされません」
招待じゃねぇ。
命令じゃねぇか。
これ絶対にお友達の家にお呼ばれした、って展開では無いよな。
「学園側に連絡は――」
「不要です」
被せるようにして遮られた。
この反応から見るに、既に許可を取っているから不要なのではない。
内密に連れ出そうとしているから連絡をさせたくないのだ。
「……保護者への連絡は?」
「それがリナリー・エヴァンスに対するものであるのなら、お待ちします」
……。
当然のように俺の素性も調査済みか。
エマのこともガルガンテッラだと知っていたくらいだから当然か。というか、あの教室内でガルガンテッラ呼びされたせいで後始末が大変だったんだぞ。最終的には、花園と姫百合の力で日本文化に興味があったガルガンテッラのご令嬢を、学園内でのみ素性を隠して登校させていたという無理の有り過ぎるストーリーで強引に納得させた。勿論、紫会長、花宮、そして片桐には口止めをしてある。
「では、一旦失礼しま――」
扉を閉めようとしたところで、黒服の手が扉を掴みそれを押し留めた。
そして、言う。
「お嬢様より許可が出ているのは、リナリー・エヴァンスへの連絡のみです。それ以外の……、軽率な行動は慎んでくださいますようお願い致します」
手が離れる。
扉が閉まった。
「……どう思う?」
《とりあえず、連絡する他無いんじゃない? あまり時間をかけて「これ以上待てません」と言われるほうが面倒だと思う》
なるほど。
道理だ。
素早く携帯を取り出して師匠へと掛ける。
6コールめで繋がった。
『……こんな非常識な時間に電話を掛けてくる悪い子は誰かしら』
不機嫌そうではあるものの、寝ぼけた状態で通話に応じたような声ではない。
「そんな俺よりも遥かに非常識な奴から自宅への招待を受けたので連絡しました」
『……今から?』
「今からです」
だよね。
思わずそう聞き返したくなるよね?
暫しの沈黙の後、師匠が口を開く。
『それで……。この連絡にはどんな意味が? 招待を受けるか否かの判断を仰ぐためでは無いわよね』
流石は師匠。
その招待とやらがある程度の強制力を持っていることは確認せずとも伝わったようだ。同時に、招待に応じる前にこうして連絡する時間を用意してもらうことへの危険性も。
「どのような対応をすべきか確認させてもらおうかと」
『神楽家と敵対する許可が欲しい、と』
「そこまで好戦的な考えは抱いていませんが、相手次第ではゼロではありません」
俺だけでは無く、エマも白石先生も被害にあっている。あちら側がその件に対して罪悪感を抱いているかは不明だが、そのような態度が今後も続くのなら、それを大人しく傍観しているわけにはいかないだろう。
『……そうねぇ』
それなりの間を置いても、師匠は明確な回答を口にしない。
やはり神楽とはそれほどの存在ということなのか。あの傍若無人で剛さんや美麗さんに失礼極まりない態度を取り続けている師匠ですら、好き勝手にあることはできないと考えるほどの。
『よし、決めたわ』
そんな俺の思考を余所に、結論を出した師匠が言う。
『好きになさい』
「は?」
まさかの丸投げという形だった。
思わず間の抜けた声が出る。
『貴方の好きにするといいわ。敵対するもよし、恭順するもよし。貴方の思った通りにやってみなさいな』
「ちょ、ちょっと待ってください。なんでそんな適当なんですか!」
また俺に面倒事を押し付けるつもりなのかもしれないが、今回のケースは「じゃあ好きにやっちゃいますよ。どうなったって知りませんからね」で済むようなものではない。神楽の異常性は、接触が僅かな時間しか無かった俺でも分かる。
あいつは、他人の命を軽く見過ぎている。
敵対者に対する慈悲の無さ、というわけではない。そもそも、自分を絶対的上位者として捉え、周囲の人間に何ら興味を見出していないのだ。利用できそうなら利用する。そうでないなら切り捨てる。邪魔なら排除すればいい。神楽の中では、俺たちのような存在などそんなものだろう。選択を誤れば、俺に関係する人間全てを血祭りにあげるくらいのことはしてきそうだ。
それに、あちらが俺の素性調査を終えているのなら、俺が『黄金色の旋律』に所属していることも把握していることになる。俺と師匠の関係性を知っているのだから、ほぼ確実に把握していると考えていい。つまり、俺の口にした結論がそのまま『黄金色の旋律』の総意として捉えられる可能性もあるわけだ。
無責任な回答はできない。
だからこそ、こうして無理を押してでも師匠へ連絡したというのに。
『聖夜、私は面倒事を貴方に押し付けたくてこう言っているわけではないのよ』
嘘つけ!
と、いつもなら声を大にして言うところなのだが。
師匠の声色が、真面目なものだったため口にはできなかった。
『魔法世界での一件を通して、貴方は随分と成長してくれた。少なくとも、私の背中を預けても良いと思えるくらいにはね。これは魔法技能だけに限った話では無いわ』
思わず言葉に詰まる。
そこまで評価を上げてくれているとは思っていなかったからだ。
しかし、それでも。
いや、だからこそ。
言わなければならない。
「そう言って頂けるのは嬉しいですが、こういった頭を使う分野は俺には向いていません」
遥か高みを何度も目にしてきた今、決して自分の戦闘能力を自慢できるわけでは無い。それでも、俺はどちらかと言われたら、やはり指示を受けて戦場を駆けまわる兵隊側の人間だ。
『そうやって身の程をきちんと弁えられるようになったことも成長の1つ。可愛い子には旅をさせよ、とは良く言ったものだわ。やっぱり、愛弟子は一度地獄に叩き落とすべきだったのね』
「いや、それは違うと思います」
条件反射で反応したことで、師匠は通話越しにくすくすと笑った。
『まあ、そういったリスクを含めて言っているの。この件は貴方に一任する。そして、それに応じて生じた責任は全て私が取ってあげる。敵対することになって身の危険が生じた場合は「上書き」で戻って来なさい。媒体は教会の地下に置いてあるでしょう?』
「……ええ、まあ、置いてはありますが」
本当にいいのだろうか。
俺なんかに任せて。
確かに魔法世界での地獄を切り抜けたことで多少は成長できたと思う。しかし、劇的な変化が生じたかと問われたら首を傾げざるを得ない。あくまで俺は俺だ。栞やエマのように、常に何手先も思考を巡らせた上での発言なんてできない。
第一、後のことを考えていたのなら、あの時に神楽に突っかかったのは間違いだったのではないかとも思うのだ。しかし、師匠はそのことについて指摘することはなかった。それが正しかったからなのか、自分で気付かせようとしているのかは分からないが。
『聖夜』
「はい」
師匠から名を呼ばれたことで、思考の海から浮上する。
『最後に、貴方が出すであろう結論を口にしやすくするために、1つだけ教えてあげる』
「はい」
『私の屋敷には、見られて困るようなものはもともと置いていない。失っても惜しくは無いわ』
「はい。……は?」
それはいったいどういうことだ。
神楽側から、屋敷を取り押さえられる可能性もあるということか?
信用を得たければ、まずは危険物をこの国に持ち込んでいないか確認させろ、的な。
なぜそんな情報を今寄越してきたのか。
そう聞こうと思ったのだが、既に通話は切られていた。
「……マジかよ」
びっくりするくらい、現状では何のヒントにもならないんだが?
《マスター、そろそろ向かった方が良いと思うわ》
ウリウムの声に頷く。
仕方なく、制服に袖を通して玄関へと向かった。
☆
神楽家の屋敷は東京都にある一等地に、堂々と構えられていた。
大きさは花園家や姫百合家と同じくらい。
そう思っていたのだが、案内されたのは本館によって隠れていた離れだった。
この離れですら、一般人が東京の一等地に土地を持つことを考えれば大きすぎるものだ。長すぎる廊下を歩き、応接間と思われる一室へと通される。あらためて神楽家の持つ財力に驚かされる思いだった。
ここまでは黒服の用意していた車で来たのだが、青藍魔法学園を後にする際、校門前の守衛室は違和感を覚えるほどに静まり返っており、車が悠然とその前を通り過ぎた時には薄ら寒さすら感じてしまったほどだ。
道中では、黒服からは「到着まではお休みになられていても構いません」と言われたが、敵になるかもしれない勢力を前にして眠ることなんてできるわけがない。車には運転している黒服1人だけだったが、この状況を監視している人物が別にいたと見るべきだろう。あちら側も、無条件で俺が首を差し出す存在ではないことは、学園での一件で承知しているはずだ。
隙を見せた瞬間に何をされるか分かったものではない。
そして、それはここへ着いてからも同じだ。
目の前に紅茶とお茶菓子が用意される。
しばらくお待ちください、と一礼して黒服が下がった。
扉が閉められ、応接室には俺1人だけが残される。
「……監視の人間を付けないとは。それとも、録音・録画はばっちりで、する必要も無いということか?」
念のために口元を隠しながら小声で言う。
《かもね。魔法が使われているようには思えないから、あり得るとしたら物理的な手段になると思うけど》
「ここへ案内したのも、立場の違いを分からせるためかね」
《おそらく。ただ要求するだけなら電話でいいでしょ》
確かに。
話し合いの前に、まずはマウントを取りに来たということだ。
一度相手にペースを握られてしまうと、そのままずるずると引き摺りかねない。特に言葉での駆け引きが苦手な俺ならなおさらだ。注意しなければいけないだろう。
神楽がここへ来るまで、あとどれくらいの猶予があるかは分からない。
しかし、心の準備だけはしっかりとしておくべきだろう。
そう決心してから、1時間が経過した。
「……馬鹿なんじゃないか? あいつは」
録音・録画されている可能性なんか知ったことか。
むしろ、聞かせてやりたいくらいだ。
時計を見れば、もう少し粘れば2時になるくらいの時間。
あれか? こちらの忍耐力でも確かめているのか?
それとも、俺が寝落ちするのを待っている、とか。
どちらにせよふざけていることに変わりはない。
こっちは明日も学園があるんだぞ。
《一応、こうやってわざと長時間待たせるのもテクニックの1つって聞いたことあるけど》
「誰から?」
《ウリウムたち》
ウリウムがその名を口にするということは、『七属性の守護者』の方のウリウムか。身分が下の者に、その事実を知らしめてやろうってか? 貴族の嗜みというやつだ。ふざけやがって。
目の前に置かれた、すっかり湯気も立たなくなってしまった紅茶へと目を向ける。ここに来た時は、どんな毒が入れられているかも分からない飲み物なんて口にできるかと思っていたが、そんな考えすら馬鹿らしくなってきた。
そもそも、こんなところで毒殺を考えるくらいなら、道中で殺ってしまえば良かったのだ。あいつの異常な思考回路なら、運転中の黒服くらい平気な顔で巻き込んで車を爆破させそうだ。
そう考え、ティーカップを手にする。
しかし、乱暴な手つきでティーカップを手にしたのが失敗だった。
指が滑り、ティーカップが落ちる。
お茶菓子の上へ落下したティーカップは、打ちどころが悪かったのか音を立てて割れてしまった。
《あーあ。何してるのよ、マスター》
「……えっと」
当然ながら、わざとではない。ただ、神楽に会う前からこちら側が謝らなければならないことになってしまったのは明らかにマイナスだ。
とりあえずは、テーブルにどんどん広がっていく琥珀色の液体をどうにかしなければ。
そう考えながら立ち上がったところで、応接室の扉がノックと共に開かれた。
そちらに目を向ける。
黒服によって開けられた扉の先には、1週間ぶりに顔を合わせることになった神楽がいた。
神楽の視線が、俺から俺の手元にある惨状へと向けられる。
そして一言。
「どうして痺れ薬が入っているって分かったの?」
は?
どうやら謝らなくていいらしい。
むしろ謝らせる側になれそうだった。
次回の更新予定日は、6月24日(水)17時です。