第1話 取捨選択
☆
大勢の人たちが歩く音。
キャリーケースが転がる音。
飛び交う言語の大多数は英語。
笑い声に、どこからか泣き声。
流暢な英語でアナウンスが流れる。
その中で。
俺は『脚本家』から与えられた指令と警告を必死になってメモしていた。うっかり忘れようものなら笑い話では済まされない。正直、走り書きした警告を読み返してみて、6つしか無かった時は焦った。与えられた警告は全部で7つだったからだ。おかげで嫌な汗をかいてしまった。
紙とペンを取り出そうとして最初に手にしたのが修学旅行のしおりだったため、そのまましおりに走り書きしてしまったところからも、俺がどれだけ焦っていたのかが分かるというものだ。3回ほど見直した後、ようやく漏れが無い事に確信を抱いて胸を撫でおろす。
知らぬ間にうっかり地雷を踏み抜いた、なんて馬鹿な真似はしたくない。一番酷いのは、地雷を踏み抜いたのにそのことにすら気付かないケースだ。いつの間にか最悪な選択をし続けたせいで修復不可能なルートへ突入していて、バッドエンドへ一直線に突っ走っていたら目も当てられない。
そもそも、今の俺の行動すら正しいことなのかが分からない。人は大なり小なり常に取捨選択を繰り返して生きている。朝、予定通りに起きるか起きないか。朝ごはんを食べるか食べないか。学校や会社に行くか行かないか。友人の誘いに乗るか乗らないか。家に忘れた携帯電話や弁当を取りに帰るか帰らないか。気になっている新譜を予約するか予約しないか。床屋に行くのは今週か来週か。小さな選択肢を1つ間違えるだけで、それが数珠つなぎのように連鎖しびっくりするような結末を呼び込んでくることもあり得る。
そう。
そもそも。
そもそも、だ。
俺は、魔法世界エルトクリアへ入国するべきなのか?
確かに、一見ここで入国しないという選択肢は無いようにも思える。しかし、しかしだ。『脚本家』の神法とやらで無かったことになった前回のルートで、俺の何かしらの行動がトリガーとなって師匠やヴェラが死んだ可能性はゼロではない。いっそのこと入国しなければそのフラグは立たずに平和に終わることだってあったかもしれないのだ。
だが、それを証明する術など無い。俺は『黄金色の旋律』と『ユグドラシル』が魔法世界内で会談していたことすら知らなかった。なぜした? なぜこの時期に? どこで? その場にいたのは誰だ? 分からない。俺の行動は何かしらの影響を与えたのか? 登城したことが問題だった? エースと一戦交えたことか? T・メイカー捕縛クエストについて『ユグドラシル』は静観していたのか? 『赤銅色の誓約』との繋がりはどうだったのか? 分からない。そもそも師匠は戦って負けたのか? それとも嵌められた? 分からない。
そう。
何も分からない。
しかし、1つだけ分かっていることがある。『脚本家』は直接口にしなかったが大切な事だ。この修学旅行をやり直すにあたって、俺は最終日から初日まで遡ることになった。与えられた指令では、3日間ある修学旅行のうちの最終日、つまりは修学旅行2日目の終わりまでリナリー・エヴァンスを生かせということだったにも拘わらずだ。
つまり。
俺は、修学旅行初日でやらなければいけないことがあったのだ。
初日の行動がベストな選択をし続けていたのなら、初日に戻る必要は無かった。完璧な状態で迎えた2日目からやり直せばいい。『脚本家』の神法の特性上やむを得ない理由などがあるのなら話は別だが、それならもはや推測しようが無い。しかし、おそらくこの考えは間違っていないはずだ。俺は修学旅行初日で何かしなければいけなかった。
それが何かはまだ分からない。
しかし、それさえ出来れば未来は変わる。
もしかすると、初日のそれをこなすことで、2日目に新たな問題が生じてそれをクリアする必要もあるかもしれない。しかし、指令を達成するためには、まず初日に何かしらのアクションを起こして前回とは違うルートに乗る必要がある。
そこで生じる選択肢。
俺は、前回同様このまま魔法世界へ入国するか否か。
明確に分かっているのは、ここで引き返せば俺が危険に晒される可能性が激減するだろうということだけ。……いや、それも分からないか。もしかするとこの雑踏の中で『ユグドラシル』の構成員が息を潜めている可能性もゼロではない。
引き返すなら相応の理由が必要になる。修学旅行という行事を欠席することになるのだから学園への言い訳も必要だし、何より俺は班員である花園舞と姫百合可憐の護衛の依頼を引き受けているのだ。依頼をキャンセルするためには適当な理由付けでは納得してもらえないだろう。『脚本家』からの警告や助言もあるし、詳細を説明するわけにもいかない。この選択は現実的ではないと言える。花園と姫百合へ救援要請を出してはならないという警告は、この選択をさせないための牽制だった可能性すらある。
そうなると、消去法で入国ということになる。
ただ、こちらの選択には消去法以外でも理由はある。
それは『脚本家』から与えられた指令と警告のことだ。あれらは、俺が魔法世界へと入国することが前提として与えられたものであると考えて構わないだろう。そもそも指令が「修学旅行最終日まで」と言っているのだから、俺が修学旅行に参加しているのは確定だ。まさか修学旅行に参加していると仮定した上で、魔法世界外の場所からタイムリミットを計算しろなんて回りくどい真似はしないはずだ。加えてあれらの警告だ。少なくとも表面上は、全てが魔法世界へ入国した上で気を付けるべき事として与えられたと考えられる。
それに、今思えばウリウムと『脚本家』が交わしていた会話にもヒントはあった。『脚本家』はウリウムへ言った。「君の記憶も引き継がれる。しかし遡った瞬間、もしくは魔法世界へ足を踏み入れた瞬間に、このルートの記憶を失うことはあるかもしれない」と。あの時はウリウムが前回のルートの記憶を失うリスクばかりが頭を占めていたが、あれはつまり入国することは大前提として発言したものではないか。
ならば、俺が入国することは間違っていない。
間違っていない。
間違ってはいないはずだ。
くそ。
完全に疑心暗鬼になってやがるな。
これから先、こんなことをずっと繰り返していくのか?
無理があるだろう。
絶対にどこかで破綻する。
俺は頭脳戦のようなやり方は不向きだ。
そのくらいは重々承知している。
俺1人では手に余る。出来れば、早急に一緒に考えてくれる仲間が欲しいところだ。魔法世界入国後、仮に前回ルートの記憶を失ったとしてもウリウムなら説明すればすぐに協力してくれるだろう。『脚本家』のことや、前回ルートで聞いた精霊王の話を出せば信じてもらえるに違いない。修学旅行初日の入国直後まで記憶が戻るなら、ウリウムの中でそれらの話は無かったことになるからだ。
後は誰か。
戦力的な面で真っ先に名前が上がるのは泰然だが、『脚本家』からの「権力者に近しい人間に話すことは勧めない」という忠告が引っ掛かる。
縁先輩は外せないだろう。あの時の会話を思い返してみれば、あの先輩は『トランプ』以上に『脚本家』のことを知っているように感じた。遡る前の記憶が無かったとしても、下知識があるなら俺の話も分かってもらえるかもしれない。
後は。
……エマ、か?
権力者に近い者へ話すことは勧めないという助言は貰ったが、エマはガルガンテッラ家から勘当されている。権力者に近い者というカテゴリーからは外れているのか?『脚本家』が「話すな」ではなく「勧めない」という表現でグレーゾーンを作ったのは、エマには話しても良いというヒントを与えるためだった、とか。それは都合のいい解釈なのだろうか。
視線を横へ向ける。俺のキャリーケースを預かってくれたエマ・ホワイトは、何も言わずに黙って2つのキャリーケースを両手で転がしながら隣を歩いている。視線を前へと向けた。少し前には同じ班のメンバーである舞、可憐、そして鑑華美月の姿がある。美月に声を掛けるべきかも悩むんだよな。あいつには出来るだけ『ユグドラシル』に関わって欲しくないと思っているからこそ。
視線を手元のしおりへと落とし、書き洩らしが無いかをもう一度確認してからポケットにねじ込んだ。話す相手を誰にするかも含め、おいおい考えていこう。あまりここで時間を掛けるのは得策ではない。
エマに声を掛ける。
「エマ、悪いな」
預けていたキャリーケースを返してもらおうとして。
「聖夜様」
エマに名を呼ばれた。
受け取ろうとしていた手が止まる。エマは俺の名前を呼んだだけでそれ以上を口にしない。しかし、俺に向けていた視線を前へと向けた。その視線を追って俺も前を向く。舞や可憐、そして美月の歩く後ろ姿が見える。そこには何ら違和感は見受けられない。
どうかしたのか、と。
聞くよりも早く、理由が分かった。
舞や可憐、そして美月が歩くその先。
そこに、いた。
「……栞」
そう。
そうだ。
栞だ。
ここは魔法世界へ向かう為に飛行機を乗り換えたサンフランシスコ空港。そこで俺は、栞から封筒に入った鍵を受け取るのだ。T・メイカーの仮面とローブ一式が入れられているロッカーの鍵を。
栞は真っすぐにこちらへ向かってくる。
舞たちの横をすり抜け、俺のもとへと。
舞たちは気付かない。
当たり前だ。
前回もそうだったのだから。
このままの流れなら、前回と変わらず栞はすれ違いざまに俺へ封筒を手渡してくる。何も言わずに。そして、何事も無かったかのようにすれ違う。俺の手には封筒だけが残るのだ。
さあ、どうする。
行動を起こすべきか、否か。
答えは瞬時に出た。
「栞」
その名を、呼ぶ。
「……お兄様?」
栞が驚いた表情で足を止める。
少しだけ茶色がかったショートヘアが軽く揺れた。
「この後、直近で片付けなければならない案件は残っているか」
「……それは、どういう意図での質問でしょうか」
僅かにだが栞の顔が強張ったのが分かる。
なるほど。
俺に言いたくない何かがある、と。
エマの瞳に剣呑な光が宿ったのを察して、咄嗟にエマから栞を隠すような配置に立つ。どうしてこいつは……。俺の行動の意味を理解したのか、栞の目が大きく見開かれた。栞が俺から一歩距離を置く。それは無意識での行動だったのか、自らの行為に驚いた表情が酷く印象的だった。
「あ、あの……」
「この場で言えない内容なら言わなくて構わない。但し、これだけは教えてくれ」
俺にはある。
今の俺は無関係ではない、と端的に伝える事の出来るキーワードが。
「それは、会談に関係する案件か?」
今度こそ、栞の両目が限界までに開かれた。
「……なぜ、……それを、お兄様が」
「説明したいがこちらにも時間が無い。そっちの用事を済ませたら魔法世界へ入って欲しい。可能か?」
「……それが命令であれば。会談の件をご存知であれば、隠し立てする必要はありません。リナリーからは助力を要請していた『断罪者』へのメッセンジャーを頼まれていました。それが終われば事が済むまで魔法世界の外で待機せよ、と」
魔法世界の外で。
それなら栞は巻き込まれてはいなかったか。
……『断罪者』とは、アメリカ合衆国が保有する魔法戦闘部隊の名称だ。まさか師匠がこの一件でアメリカに借りを作っているとは思ってもみなかった。誰が来るのか気になるところではあるが、いい加減時間が無い。早くしないと先行している舞たちが不審に思って戻ってきてしまう。
「なら、なるべく早く魔法世界へ入国してくれ。ホテル・エルトクリア、部屋番号は……」
部屋番号が変わるようなミラクルは流石に無いだろう。
俺の行動ひとつでホテルの予約内容すら変わるとは思えない。
「0514だ。鍵は扉正面にある窓のカーテンの裏に隠しておく。師匠へ連絡はするな」
「分かりました」
封筒を受け取って別れた。
これが正解だったのかは分からない。だが、栞に事情を説明することが出来ればかなり楽になるのは間違いない。可能ならば全部を任せてしまいたいくらいには今回の一件では適任だ。本来なら安全なところで待機しているはずだったのに、こうして巻き込んでしまうことになるのは申し訳なく思う。その分、俺が命を懸けてでも守ってやらなければいけない。
「……聖夜様」
再び歩を進める。
前を歩く舞たちへ追いつくために急ぎ足で。
それの速度に合わせてぴったり横を歩くエマが俺の名を呼ぶ。そりゃ疑問に思うよな。エマからすれば、舞たちの護衛があるとはいえ、さっきまでは修学旅行ほぼ一色だったはずなのに、急にきな臭い会話を始めているのだから。
「……悪いな、色々と立て込んでいるんだ。ただ、お前にも協力して欲しいと思っている。事情は後で――」
「はい。後で詳しく聞かせて頂ければと思います。ですが、1つだけ確認させてください。答えたくない、もしくは答えられない場合は黙秘しても構いません」
「……前置きが長いな。何だ?」
思わず身構えてしまいたくなる言い回しだ。
真面目モードになっているようだし、変な事は言わないと思うが。
エマは、俺との距離をさらに詰めて。
「聖夜様、もしや――」
声を潜めて、こう言った。
「『脚本家』に会いましたか?」
キャリーケースを取り落とした。
プラスチックが床を打ち、大きな音を鳴らす。幾人かがこちらへと視線を向けたが、構っている余裕は無かった。代わりにエマが愛想笑いを振りまいて俺のキャリーケースを拾い上げる。「急ぎましょう」というエマの声に従い、俺も再び歩き出した。
「エマ……、お前、どうして」
声が震えているのが分かる。
「私も事情は後ほど。次の飛行機、席を美月と変えてもらいましょう。構いませんね?」
「あ、ああ」
《……ちょっとこれどういうこと?》
分からない。
ウリウムからの疑問に答えられるはずもない。
なぜ、エマの口から『脚本家』という単語が出てくる?
なぜ、俺が『脚本家』に会ったと分かった?
まさか。
エマも。
「聖夜様、私は記憶を持っていません」
2つのキャリーケースを両手で転がしながら、エマは言う。
「ですから、これが何度目の遡りかも知りません」
ほとんど聞き取れない音量で、エマは言う。
「ですが、今、貴方は全てを知ってこの場所へ戻ってきた」
その大きな瞳に僅かな涙を溜めて、エマは言う。
「これでようやく事象改変のスタートラインに立てました」
エマの顔がこちらへ向く。
「変えましょう。貴方が戻らなければならなくなった未来を。私も戦います」
そう言って、エマは笑った。
次回の更新予定日は、5月20日(月)です。
エマに引っ掛かりを覚えていた方々は流石でした。特に、わざとらしい描写のある9章〈下〉???話の公開前から指摘して下さっていた方の読み込み具合にはびっくり。ありがとうございます。