【バレンタインss】舞編
このssは、以前「活動報告」にて公開したものです。
内容は変更されていません。
『ハッピーバレンタイン』
卵を割って卵黄と卵白に分離させるという作業を淡々とこなしていた舞は、ふぅとため息を吐いた。
ここは花園家のお屋敷にある厨房だ。厨房にいた使用人を全て追い払い、いるのは舞ただ1人。もっとも、毎年この日は舞が学園から無断で帰ってきていて、使用人たちの間でも予想通りの展開だったために騒ぎにはならなかった。
「……やりますか」
その一声で作業を開始する。
卵黄、砂糖、生クリーム、アーモンドプードル、そしてオレンジピールを少々。それらが入ったボールに泡だて器を突っ込んでよく混ぜる。混ぜる。混ぜる。とにかく混ぜる。そこにココアと薄力粉を投入して再び混ぜる。
次にメレンゲだ。別のボールに卵白と砂糖を投入。こちらも混ぜる。混ぜる。泡立てる。自力で角が立つくらいまで泡立てる。
2つの出来に満足そうな笑みを浮かべた舞は、手慣れた手つきでフライパンを火にかけた。中にはバターと砂糖、そして本日の主役であるミルクチョコレートだ。弱火でじっくりと溶かしていく。じっくり。じっくり。チョコレートが焦げないようにへらでかき混ぜながら。じっくり。じっくり。
「んー。こんなものかしらね」
フライパンを火から上げ、中身を1つめのボールに移す。そして混ぜる。混ぜる。混ぜる。そこへ2つめのポールからメレンゲを少々流し込み、再び混ぜる。最後に残りのメレンゲを一気にぶち込み、なじませるようにして混ぜていく。
「よし、っと」
メレンゲの白さが消えた辺りで手を止める。生地は完成だ。小さな容器に出来上がったものを分けていき、オーブンへ。後は焼き上がるのを待つだけだ。
じりじりと焼けていく生地をぼんやりと眺めながら、舞は思う。
どうせ、作ったところでこれが渡したい人に届くわけではない、と。
花園家がある青藍市は高級住宅街とされているが、その一角には人が寄り付かない一際大きな屋敷がある。ツタが生い茂り見るからに手入れの行き届いていない屋敷であるが、近隣住民はおろか、県も、国も、その屋敷に対して一切の介入をしない。
それもある意味で当然だ。
その屋敷の主は、魔法使いならば知らぬ者などいない、単騎で世界最強と称されるリナリー・エヴァンスその人だからである。
金髪碧眼、絵に描いたような美人だった。昔、両親の言いつけを守らず、青藍市を走り回っていた頃の事。近付くなと言われていたその屋敷に探検と称して侵入しようとして、門前であの魔女に鉢合わせしたのはいつの頃だっただろうか。おぼろげな記憶ながら、まだまだ小さかった頃の自分が、同性相手にそういった印象を抱くということは、余程印象が強かったのだろうと舞は思う。
そして、その魔女と一緒にそいつはいた。
「聖夜……」
白髪で目つきの悪い男の子。
それが舞の第一印象だった。それでも、一緒に遊び、月日を経て、ついにはこうしてバレンタインで意識することになるほどになった。人の心とは本当に分からないものだ、と舞は笑う。
もっとも、意識したところでもう遅い。聖夜はリナリーに連れられて、いつの間にやらこの青藍市から姿を消した。今はアメリカを拠点にしている、とリナリーから聞いた。相当な荒事にも駆り出されているらしい。あのリナリーが荒事と表現するような場面に駆り出される。呪文詠唱ができない、と不貞腐れていたあの幼馴染ともいうべき存在が、だ。
「本当に、分からないものよね……」
そう呟いたタイミングでオーブンが鳴った。どうやら、いつの間にかそれなりの時間が経過していたらしい。オーブンを開けてお目当てのものを取り出す。良い香りのするガトーショコラに、舞は頬を緩めた。
「よし」
会心の出来である。
後は、冷めるのを待ってラッピングするだけだ。ラッピングした後は……、自分の部屋でラッピングを剥がすことになるのだが。
余ったものは屋敷の人間にでも配ればいいだろう。
冷めたのを確認して、箱に入れてラッピングを施していく。『何か聖夜に渡す物があるなら預かってもいいわよ』といらぬ気遣いを寄越したリナリーのことを、舞は今更になって思い出した。あの時は羞恥のあまり勢いに任せて通話を切ってしまったのだが……。
そこまで考えて、舞は首を振る。仮に聖夜が青藍市に残っていたとして、自分がチョコを素直に渡す場面が想像できない。
「はぁー……」
舞は人知れず大きなため息を吐く。
そして。
「ハッピーバレンタイン」
その言葉は当然誰の耳に届くはずも無く。
花園家の広い厨房の中で寂しく消えていった。
Fin