家族 【2】
今、部屋の中には俺と母さんの二人がいた。
「…久しぶりね」
俺はできるだけ母さんをみないようにしながら麦茶をテーブルに置く。カチャ、と氷とコップがぶつかる音がした。
「拓哉、あなた大きくなった。それに、とっても大人っぽく…」
「4年も経つんだ。当たり前だろ?」
「そうね…」
母さんは随分と老けたように見える。歳のせいもあるだろうが、俺の記憶にある母さんはいつでも若々しく綺麗で明るかった。しかしそこには俺の知っている母さんはいなかった。体は痩せ細り、ほとんど骨と皮だ。頬がやつれて目が落ち窪んでいる。まるで骸骨のよう。
「この写真…この子が瑠佳?」
「ああ」
「大きくなった…」
まるで長年会ってなかった、甥っ子か姪っ子でも見たような口で言う母さんに、俺の怒りが募る。
「瑠佳は…まだ帰っていないの?」
「瑠佳は帰ってこない。…死んだ」
母さんは、写真を取り落とした。
「瑠佳が…死んだって…」
「…だから、来たんだと思ってた」
「そんな…知らなかった。…私、再婚するの…。だから今日は、一緒に暮らそうと思って…迎えにきたのに…」
迎えに来た?どの面下げて言ってやがる。俺はその台詞を、済んでのところで堪えた。どこまで分勝手なんだ。
母さんは変わってしまった。父さんが死んでから、ほとんど母親らしい姿を見せてくれなくなった。
+++++
『…母さん、瑠佳が泣いてるんだ。なんでか、分からない』
『お腹でも減ったのよ』
母さんはソファーに寝たまま、俺のほうを振り返らずに言った。
『飲ませてあげて?』
『母さん疲れた。粉ミルクでも作って、あなたが飲ませてあげて。お兄ちゃんでしょ』
『う、うん。でも、作り方が…』
『…缶の横に書いてあるから。見ながら作りなさい』
俺はがっくりと肩を落とすと、泣き叫ぶ妹のため、台所へ走る。
本当は、瑠佳が泣いていた理由は分かっていた。粉ミルクの作り方も分かっていた。母さんに、優しい“母親”に戻って欲しかった。…父さんが死んでから、母さんはずっとあんな調子だったから。
『瑠佳ー。ほら、おいしい?』
俺が哺乳瓶に粉ミルクを溶かして、人肌に温めて持っていってやると、瑠佳はよろこんでキャッキャッと笑った。
『あーあ。もう飲んじゃったよ』
空になった哺乳瓶を横に置き、瑠佳を抱きなおす。すっかり泣き止んでご機嫌になった瑠佳は、さっきから俺の指を握ったり離したりしていた。
『どうした? すごいご機嫌だね』
俺は瑠佳に顔を近づける。微かにミルクの匂いがした。
きょとんとした顔で見つめ返す瑠佳。俺はそっと、その頭を撫でた。くりくりとした大きな目。暖かくて、触れば壊れてしまいそうなほど小さな、俺のタカラモノ。
『母さんが守らないなら…俺が、守ってやるからな』
『んぁー』
小さなタカラモノは、キラキラと輝く笑顔を見せた。
+++++
「母さん…知らなかった。瑠佳が…」
「なに言ってんの?」
俺は、優しく言った。このまま、母さんを励ましてやればいい。離れて暮らしてたんだから、しかたないよ。母さんは悪くないよって。
「あんたは母親なんかじゃない」
無理だ。この女に俺は優しくなんかできない。
コイツはほとんど瑠佳に愛情を向けてやらなかった。愛してはいただろう。大切には思っていただろう。でも、優しくしてやらなかった。母親の顔を見せてやらなかった。
「知らなかった…」
俺は立ち上がってまっすぐに睨む。
「教えようにも…あんた、俺に連絡先を知らせなかっただろ。それが、いまさらのこのこやってきて…」
「拓哉…」
怒りが腹の底から湧き上がってくる。森田に向ける怒りとは違う、誰にもぶつけることができなかった、四年分の怒りが。爆発する。
「ふざけんなよ!!俺たちが、今までどんな気持ちで生活してきたのか…瑠佳が…どんな気持ちで…ずっと…」
「本当に、最低なことをしたと思ってる。ごめんなさい…」
そう言う母さんの声は、震えていた。
「ごめんなさい?あの時、もしあんたが俺達の傍から離れなければ、瑠佳は死ななかったかもしれない。あんたがもし、瑠佳の近くにいたなら…」
詰る。傷つける。
「あんたなんか、母親じゃない。母親だったら、俺達を捨てたりしないだろう!!俺達を…瑠佳を…まるで…まるでゴミみたいに…捨てたくせに!!」
俺の目から大粒の涙が流れる。声を出して泣く。悔しい。
俺は自分に嘘をついてきた。
母さんは俺達を捨てたわけじゃない。母さんは俺達のことを忘れて幸せになるべきだ、って。でも、違う。心のどこかで俺は、この女は俺達を捨てたんだ。自分だけ幸せになろうとしている、卑怯な奴なんだ、ってずっと思っていた。
俺の心は、四年前のあの日から全く成長なんてしていないんだ。
「だって、そうだろ?あんたにとって、俺たちはゴミでしかなかったんだ!!いきなり来て、母親ヅラして…一緒に暮らしましょう?もう手遅れなんだよ!!なんでわかんねぇんだよ!!なんで…」
俺はもう、壊れたんだ。
「なんで…それを…四年前に言ってくれなかったんだよ…」
四年前にそう言って、俺と瑠佳と三人で暮らしていれば…。
「帰れよ」
でも、もう手遅れなんだ。
「たく…」
「帰れよ!!」
俺は、母さんの手を振り払い、麦茶の入ったままのコップを投げつける。コップの中身が、容赦なく母さんの細い体に降りかかった。
「…あなたの気持ちを踏みにじったこと、ごめんなさい。もう、あなたの前には現れないから。でも、これだけは受け取って欲しいの」
「これ…」
目の前に差し出された、小さな封筒を俺は受け取る。
「写真…?」
「拓哉。最後に、あなたは私の子供だなんて思いたくもないだろうけど…。私の息子に生まれてきてくれて、ありがとう。…本当にごめんなさい」
母さんが、俺の前に現れることは二度と無かった。
残されたのは空のコップと、一枚の写真。
「この写真は…」
その写真は、俺と母さんと父さんの三人で写っている写真だった。それは一瞬、瑠佳が生まれる何年も前のものだと思ったが、違った。裏に、母さんの字でこう書いてあった。
『拓哉の、(甘えっ子)お兄ちゃん記念日。父さん・母さん・拓哉・るか』
「これは…」
俺の記憶の中で、一番幸せだった瞬間。唯一、俺の『家族』が全員揃った瞬間。
俺はその写真を写真たてに入れ、テーブルの上に飾った。テーブルの上には既に、父さんの写真、瑠佳の写真、俺と瑠佳で撮った写真が飾られている。横にはくまのぬいぐるみと、赤いランドセルが置いてあった。
「これで、いいんだ…」
きっとこれが、俺達『家族』のあるべき姿なのだから――
回想が多くてごめんなさい…。文章力が無いばっかりに…(T^T;)