第二章 家族 【1】
放課後―ホームルームが終わると、俺は重い鞄を肩に担ぎ教室を出る。
「なぁ、楠木。お前今日暇か?宮校の女子と遊ぶんだけどさ、お前もこねぇ?」
そんなに親しくもないクラスメイト…名前は忘れた。そいつが話しかけてきた。宮校というのは俺が通う高校のすぐ近くにある女子高だ。
「いや、俺は、家で妹が待って…」
反射的にそう断ろうとして、口を噤む。俺はいままで一度も学生らしい『遊び』というものをしたことは無かった。平日は瑠佳が学校から帰ってきていて、家に一人にするのも心配だし、休日は休日で家事やなんやで忙しい。だから俺は少しクラスで浮いていることが多かった。
でも、それは苦では無かった。瑠佳の将来を考えれば当たり前のことだし、そのことが理由で、俺がクラスメイトからハブられることはなかった。そんなに馬鹿らしい幼稚なことをする連中はいない。
「どうした?行くのか?」
もう、家で待っていてくれる妹はいない。俺は自嘲気味に笑って答える。
「いいよ。行く」
「マジか!!やった」
「俺、そういうのよくわかんねぇけど」
「いいよ。お前はビジュアル担当だから。じゃ、また後でな」
「ああ」
クラスメイトが走って帰っていくと、背後から声をかけられた。
「いくの?」
「ん?実沙希…」
実沙希は友達を先に行かせると、俺に詰め寄った。
「無理、してるんじゃない?本当なら学校くるのだってキツいんでしょ?」
「別に」
本当はここ数日、というか、あの日からずっと、まともに寝ていない。
「別に。何?」
「別に。ちょっと気晴らしだよ」
「…拓哉、変わったね」
「…」
俺は何も言わずに歩き出す。
「復讐だけが、全てじゃないよ?」
「…分かってる」
+++++
「そうだ。こいつは俺の知り合いの楠木拓哉。どう?カッコイイでしょ」
俺は自分の話題に反応して、飲んでいた飲み物から顔を上げる。
「わぁー。石井クンの知り合いにこんなイケメン君がいたなんて。拓哉君、よろしくねー」
向かい側に座っている宮高生が俺に話しかける。俺は軽く会釈する。
今、俺の周りには数人の男女が座っている。一人はさっきのクラスメイト。他は全く知らない人ばかりだった。
「歌っちゃいまーす」
「カッコいーよ!!」
「ヒューヒュー」
「…」
周りのテンションが次第にあがっていくにつれて、俺は少しずつ冷めてきた。なんだか、場違いな気がする。…正直、アホらしい。
例のクラスメイト、石井が歌い終わると、俺は静かに席を立った。
「ごめん。やっぱ俺帰るわ。用事思い出した」
「えー。帰っちゃうのぉー?」
「まぁまぁ。俺がいるからいいじゃないか」
「ビジュアル不足だよー」
俺は石井にもう一度謝ると、石井は笑って首を振った。
「いいって。無理言って頼んだの俺だし。気にすんな」
「ほんっと、ごめん」
そう言って俺は、逃げるようにそこを後にした。
+++++
高校生の『遊び』なんて、たいして面白いものでもなかった。これだったら、瑠佳と遊んでやってるほうが楽しい。
「違う」
あの日からもう一ヶ月も経とうとしていた。それなのに、瑠佳の影が頭から離れない。薄れるどころかどんどんと濃くなっていく。
「お兄ちゃん!!」
「…?」
気づけば小さな女の子が、しきりに俺の袖を掴んでいた。
「ねぇ、お兄ちゃんってば!!」
「どうしたの?」
女の子の背の高さに合わせてしゃがむ。くりくりとした大きな目が特徴的な、可愛い子だ。
「ボールがね、あそこの木の上に引っかかっちゃって…」
見ると、近くに大きな建物があって、女の子が指をさしている先は、その敷地内の木だった。確かにボールが挟まっていて、まわりに子供たちが集まっていた。
「ん…ちょっと待ってて」
俺はフェンスをまたぐと、腕を伸ばしてボールを取ってやる。
「ほら」
「わぁっ。ありがとう!!お兄ちゃん!!」
俺がボールを手渡すと、女の子は元気に礼を言った。
「お兄ちゃん、か…。そうだ、君は、どこの子なの?」
「ん?ここだよ」
女の子が指差す先は、さっきの建物。玄関には『しらゆり園』と書かれていた。
「しらゆり…園?」
小学生ぐらいの子もいるし、幼稚園ではないだろう。
「あ!!す、すみません!!」
建物の中から、若い女の人が走ってくる。
「あ、いや、気にしないでください。この子のお母さんですか?」
女の人にそう問いかけると、困ったように笑った。
「お母さん、というか。この子達みんなの親代わりですかね」
「はぁ、親代わり…じゃあここは…」
「身寄りのない子たちが、共同で生活をしているんです」
女の人は、少し寂しそうに笑った。
「ここにいる子達は、みんな親に捨てられて…」
「そうなんですか…」
俺が少し見てくるというと、女の人は優しく笑った。
「ふふっ。子供、好きなんですね」
「まぁ、はい。でも、なんでですか?」
「いいえ。ただ、お兄さんが子供達を見る目、とっても優しいから」
女の人はまぶしそうに目を細める。
「この子達は、私には絶対に分からない影を背負ってる。当たり前の家族が、この子達にはないんです。…お兄さんのご家族は、きっと優しい人たちなんでしょうね」
「…妹がいるんです。俺の家族は、その子だけで。とっても、優しい子なんです」
「まぁ…。じゃあ、兄妹二人で?」
「父さんは妹が生まれる前に死んで。母さんは、出て行きました」
子供たちの後姿を眺める。その景色はしだいに滲んで、夕焼けに墨絵のように広がった。
「ココの子達と、似ています…」
「すみません。会ったばかりなのに、こんな話」」
「いいんです。…また、来てもらえますか?今度は子供たちと遊んであげてください」
「はい。もちろんです」
俺は笑って答えた。この女性には、瑠佳が殺されたことは言わないでおこう。言ってもどうにもならないし、この人の中で瑠佳が生きているなら、なんだかうれしい。
それに俺自身、まだ瑠佳が死んだということがいまいち理解できていなかった。だからつい、『妹』の話をしてしまったのだと思う。
「お兄ちゃん、またね!!」
「今度はアカネちゃんとばっかりお話しないで、一緒に遊ぼうね!!」
「バイバーイ」
帰路に着いた俺の背中に、子供たちの声が追いかけてくる。
「おう、じゃあな!!」
俺も大きく手を振って答える。アカネちゃん、というのがさっきの女性だということは、なんとなくだけど分かる気がした。
しらゆり園を出た俺の心は軽く、また足取りも軽かった。子供たちと触れ合えたことが、よかったのかもしれない。
俺は少しずつ、本当に少しずつだけど、瑠佳の死を、悲しみや憎しみという形ではなく、心で受け入れようとしていた。
「あ、すみませ…」
角を曲がったとき、人にぶつかって、反射的に謝る。でも、なかなか続く言葉は返ってこなかった。俺は不思議に思って振り返る。そこにいたのは…・
細くて、化粧っ気がなくて、やつれて不健康そうな女性。俺は驚きに立ち竦んだ。昔より、かなり痩せてやつれてはいるけど、この人は確かに…。
その女性は俺を見て、その場に泣き崩れた。
「あ…あ…あんたは…」
俺は女性を震える指で指差して、言った。
もう二度と、呼ぶことはないだろうと思っていた言葉を。
もう二度と、会うことはないだろうと思っていた人に。
「あんたは、母さん…?」
やせ細り、苦しそうに泣く姿は、それでもまぎれもなく俺の記憶の中の母さんだった。