『いってきます』 【3】
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俺はあの後家に帰った。どうやって帰ったかは覚えていない。泣き叫び、暴れたのだろう。とても一人で帰れる状態ではなかった。警察が家まで送り届けてくれたらしい。
警察が帰ったあと、俺はしばらく部屋に立ちすくんでいた。ここは、こんなに広かっただろうか。瑠佳がいなくなっただけで、ここはこんなにも広く、静かになるなんて。
ケーキの蝋燭に火を灯す。七本の蝋燭は、儚く、静かに揺れた。
『誕生日、おめでとう』
人は、こんなにも簡単に炎を消すことができるんだ。人の命はこんなにもあっけなく、弱弱しくて…。自分もそんな人間の一人だと思うと、嫌悪感が募る。
瑠佳、俺は…兄ちゃんは…こんなにも弱い人間なんだよ…?
そして、炎を吹き消した。あたりは暗闇に包まれる――
―それでも同じように、朝は訪れる。
どんなことがあっても、太陽の光は平等に降り注ぐ。
犯人はまだ捕まっていない。瑠佳の人生を奪った奴が、いまものうのうと『生きている』なんて。そいつが、言い表しようもないほど憎い。いままで一度も抱いたことのない感情。苛立ちに似た、身体を引き裂かれるような痛みを伴う感情。
でも、きっとそいつは警察が捕まえて、死を以って罪を償わせるだろう。今俺がすべきことは、そいつを捕まえて償いをさせることじゃない。そう、俺がしなくてはいけないことは…
俺は虚ろな目で立ち上がり、台所へ向かう。
鋭利な刃物を取り出すと俺は自嘲気味に笑った。この世にもう未練は無い。
『待ってろよ…兄ちゃんも、今行くからな…』
そして、冷たい刃物を自分の肉体に押し当て、俺は…俺は―――
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服の上から、キツく胸に巻かれた包帯を触る。鋭い痛みが走った。
「祐太…実沙希…」
俺は顔を上げ、遠くから歩いてくる制服姿の男女を見つめた。水崎祐太と刈谷実沙希。親友と幼馴染の姿を。
俺が目覚めたとき、聞こえてきたのは幼馴染の啜り泣き。それに親友の『馬鹿野郎』という喝と張り手だった。そして涙目の親友が言った。『お前は瑠佳ちゃんの分も生きなきゃ駄目だろう』と。
「拓哉、傷は?」
実沙希の問いかけに俺は曖昧に首を傾げる。何針も縫ったのだから本当なら何ヶ月も入院していなくてはいけないのだが、瑠佳をそのままにはしておけないと無理を言って、ここまで出てきた。
結局俺は死ねなかった。心臓に大きな傷を抱えて、生きるしかなかった。
それからはずっと病院に入院していて一度も家に帰っていない。家の片付けは、隣のおばさんがやってくれたらしい。無表情で、血だらけになりながら自分の体を切り裂く俺を、一番最初に見つけてくれたのもおばさんだった。
「さっきそこで、警察の人に会った」
「ああ」
「お前はずっと寝てたからな。…早い話が、犯人が捕まった」
「え…?」
「森田慎司。20代後半の、フリーター。殺す気は無かった、と言い張っているらしい」
俺の中で、憎しみという感情が膨れ上がる。
コロスキハナカッタ?ジャアナンデ、ルカハシンダノ?
俺の手が、怒りにわなわなと震える。
「森田慎司…」
モリタ、シンジ。モリタシンジ。モリタシンジ、モリタシンジ、モリタ…
「落ち着け。もう一つ、奇妙なことがあってな…」
「奇妙な…こと?」
「まだ決まったわけじゃないからなんともいえないが…このままじゃ、森田は無罪になる」
「ちょっと、裕太!!それはまだ…」
実沙希の声が遠くに聞こえる。
「はははっ。何言ってるんだ?この後に及んで冗談なんか言うなよ」
気が狂ったかのように高笑いすると、実沙希と祐太を交互に見た。その表情は重く、険しかった。
「冗談じゃない」
「…は?」
「森田には、このままじゃ極刑はおろか実刑が与えられるか分からない」
俺は、言葉を失った。
「は?なんでだよ。捕まったんだろ?」
「それが…。森田慎司は、三ヶ月前に死んでいるんだ」
モリタハ死ンデル…?
「…ふざけてんじゃねぇよ」
俺は、祐太の襟元を掴んで捻りあげる。
「死んでる?はははっ!!馬鹿にすんなよ。森田は生きていて、瑠佳を…瑠佳を殺しただろ!!」
「だから奇妙だって言っただろ!!」
祐太も俺の襟を掴み、その衝撃に俺たちはそのまま地面に転がる。椅子の転がる、激しい音がした。
「混乱しているのはお前だけじゃない!!もし本当に森田が死んでいたんだとしたら…」
「森田は生きてる!!」
「もしも、だ!!もし死んでいたんだとしたら、法じゃ裁けない」
「じゃあ瑠佳はどうなるんだよ!!」
頭が混乱してする。感情のコントロールができない。分かる感情は、憎しみ。
俺は本能のまま、祐太に殴りかかった。
祐太はそれを手で受け止めると、俺の頬を思いっきり殴った。
「落ち着け!!話を聞け!!」
「くそ…」
俺はそのまま、床に転がった。
「今の時点では何がなんだか、警察も分かってない。だからお前は、今は生きろ」
「…やる」
死ンデヤル。死ンデヤル…殺ロシテヤル
祐太の声は、俺の耳には届いていなかった。憎い。その、森田という男が…ニクイ…
「…頭、冷やしてくる」
「拓哉!!」
殴られた頬を押さえ、俺は立ち上がる。
俺の名前を繰り返し呼ぶ祐太に背を向け、雨に濡れるのもかまわずに外へと出て行った。
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瞬く間に全身が雨に濡れ、雨が怒りで火照った俺の体を冷ましていく。自分がどんどん壊れていくのが分かった。
そのとき、俺の胸ぐらいの高さに傘が差し出された。
「お兄ちゃん。風邪引いちゃうよ」
「え…?」
一瞬、言葉を失った。小さな女の子の手が、必死に俺に傘をかぶせようと伸ばされる。瑠佳によく似た、背格好の…。俺は振り向くと、そこに立つ女の子に向かって微笑んだ。そっと傘を受け取ると、しゃがんでその女の子にもかぶせる。
「ありがとう。…カナちゃんだっけ?」
「うんっ」
「…ごめんね。誕生日会、できなくて」
そっと女の子―瑠佳の友達の、カナちゃんの頭を撫でる。
この子は瑠佳じゃない。一瞬でも期待した。これで思い知らされた。瑠佳は戻ってはこないんだ。
暖かい雫が頬を伝う。きっと、瑠佳は俺が死ぬことを望んではいなかっただろう。瑠佳は、優しいから。
瑠佳が死んだから。瑠佳は一人ぼっちだから。瑠佳は寂しいだろうから。そう言い訳をして、瑠佳の傍に行くといって、俺は『死』に逃げた。あの子はそんなことでは喜ばないと分かっているのに。
死ねば瑠佳と同じところにいけると思った。でも、全ては俺の自己満足。
「ごめん…」
「お兄ちゃん、泣いてるの?」
「大丈夫?」
小さい手が、俺の涙を拭う。
「うん。もう大丈夫」
「よかった。…るかちゃんが『遠いところ』にいっちゃって、カナすっごく寂しいから…。瑠佳ちゃんのお兄ちゃんは、もっと寂しいでしょ?」
俺は固まった。悲しいのは俺だけじゃない。この小さな女の子も、瑠佳がいなくなって寂しいと言ってくれる。
「…寂しいよ。すっごく寂しい」
「か、カナに何か、できることはない?」
こんなに小さな子でも、人を気遣うことができる。人を思いやって、慰めることができる。どうして人間は、そんな当たり前のことに気づけないのだろう。六歳の少女でもわかることが、なぜわからない…?
俺はカナちゃんに優しく微笑む。
「じゃあ、一つおねがいしてもいい?」
「おねがい?」
「瑠佳のことを、ずっとずっと覚えていて欲しいんだ。カナちゃんのお友達の中に、楠木瑠佳っていう女の子がいたことを、覚えていてくれる?」
カナちゃんは一瞬ポカンとしたが、とびっきりの笑顔で答えた。
「うんっ!!」
俺は、このときの笑顔を一生忘れないだろう。
これで安心だ。たとえ俺がこの世から消えてしまっても、瑠佳を覚えてくれている人はいる。
だからって、むざむざ命を投げ出すことはもうしない。死ぬなら、あの男―森田を道ずれにしてやる。
覚悟を決めた。どうせ壊れるなら、壊れるところまで壊れてみよう。堕ちるところまで堕ちてみよう…。
「瑠佳。『いってきます』を言ったら、『ただいま』も言わないと駄目だって、あんなに言っただろう」
俺はそう言って、涙を拭った。
森田がどんなトリックを使ったんだとしてもそんなことは知らない。法で裁けないのなら、俺がこの手で裁いてやる。手が汚れたってかまわない。
ここからが、俺の復讐劇の始まり。
そして、幸せな時間の終わり―。