第七章 護りたい
気分が悪い。
消えることの無い血の臭いが絡み付いてくる。生臭く、残酷な血の臭い。耳朶を打つのはいつでも誰かの悲鳴。俺は静かに嘲笑した。
「本当に、馬鹿だ…」
『瑠佳…ちゃんは、大好きなおにいちゃんが…自分のために狂うことを望んでいた…だろうか』死に際に放たれたその一言が、俺を惑わせる。
「違う」
あいつは自分が死にたくなかっただけ。だから瑠佳の死を利用し、俺を惑わせようとした。それにまんまと引っかかってしまっただけだ。
だから、殺した。
俺のことを心配してくるから、惑わせるから。
だから、殺した。
憎いから。
だから、殺す。
今更、何を血迷うことがある。失うものは全て失った。親友も、家族も、居場所も。何も無い抜け殻が、何を迷うことがある。
不意に降り出す冷たい雨。髪が濡れ、瞬く間に体の芯まで冷えさせる。頭が、冷めていく。
その雨はあまりにも似ていた。似すぎていた。あの日、瑠佳が死んだときの雨に。道路をかけていったときに降っていた、冷たい雨に。非情で残酷な冷たい雨は止まなかった。何日も何日も降り続け、葬儀の日まで降り続いた。
「風邪、引きますよ?」
「え?」
優しい声に振り向くと、何故かそこには赤い傘を差した茜さんがいた。
いつも、間が悪い。
「どうして、ここに」
「用事があって出かけていたんです。傘を持っていって正解でした」
茜さんはふわりと微笑むと、赤い傘を半分俺に差し出した。少し背が足りなくて、爪先立ちをしている。
「はい」
「え…いや…でも…。それじゃあ茜さんが…」
「私は大丈夫です」
やっぱり笑顔の茜さんを見、俺も曖昧に微笑む。
「えっと、綺麗な赤ですね」
背の足りない茜さんから傘を受け取り、困った俺は微妙な質問をするしかなかった。
「ええ。昔父が、茜には赤が似合うって選んでくれたんです」
俺の心配をよそに、あかねさんはやはり笑顔だった。
その笑顔で、俺はとある記憶を思い出した。
女の子を思い出した。顔も曖昧で名前も思い出せない。瑠佳の小学校の友達で、雨の降り続くあの日、小さな手を精一杯に伸ばして傘を差し出してくれた小さな女の子。友達が死んで寂しくて悲しいといってくれた女の子。瑠佳を、楠木瑠佳をずっと覚えていてくれるといった女の子。
「どうかしましたか?」
その子と茜さんが、ダブる。
「いいえ、なんでも…」
茜さんは、俺が死んだら悲しんでくれるだろうか。覚えていてくれるのだろうか。
もしかしたら…。
もしかしたら、俺に足りないものは彼女だったのかもしれない。瑠佳を失ってから開き続ける心の隙間を埋めてくれるのは茜さんなのかもしれない。一番に大切な存在は彼女で、一番に殺さなければいけないのは彼女だった。きっと、間違いない。
俺は茜さんを見つめる。
子供のように、屈託の無い笑顔を見せる茜さん。この笑顔を奪う術を、俺は知っている。悪魔に喰わせればいいんだ。
「あの…?」
俯く俺を、茜さんは静かに覗き込む。
そして、俺の頬を撫でた。優しく。
「な、何を…」
「あなたが、泣いているように見えたから」
「ははは。雨の粒ですよ」
「でも。あなたが泣くなら、私がその涙を拭います」
真っ直ぐな、瞳。
俺には、殺せない。この人を、失うことはできない。
「私が拭う必要も無いですかね。拓哉さんは強くて優しいですから」
「俺は…あなたの思っているような人間ではありません」
弱くて、汚くて、ずるくて、茜さんとは正反対の人間ですらない生物。
「前に、茜さんは苦しんでる人を救いたいと言っていました。そしてあなたは言葉通り、俺を救ってくれた。本当にありがとうございます」
もうこれ以上俺と関わらないほうがいい。そう、思った。でも――。
「俺は必ず帰ってきます。だから、待っていてください」
茜さんは、驚いたように目を見開いた。
「どこかに、いってしまうんですか…?」
「…それはいえません。でも必ず戻ってきます。何年…何十年になるかわかりません。でも必ず、罪を償ってから帰ってきます」
「…そのときは、きっと私に全てを話してくださいね?」
俺は頷き、傘を茜さんの手に握らせると、振り返らずに駆け出した。
雨が冷たく俺の体を突き抜ける。