生きる価値 【2】
遅れてしまって本当にすみません!
桐嶋さんを押し倒し首を掴んで床に押し付けた。――はずだった。
「っく…」
それなのに俺は今冷たい床に頬を付け、自分の体に馬乗りになる男を見上げていた。圧倒的に不利だ。俺は、すっと桐嶋さんを睨みつけた。それはまるで、痛みを堪えているかのような、苦しげな顔。
「…してくれ……放してくれ…っ」
俺のほうが不利なはずなのに。
そう叫び声を上げたのは俺ではなかった。
「桐嶋さん?」
気づけば彼の腕からは力が抜け、体までもがだらしなく床に崩れていくところだった。彼は本当に痛みに耐えていたんだ。
無意識。本当に無意識だった。俺の手が無意識に掴んでいた温かく、太く、そして僅かに動くモノ。俺がそれを更に強く握り締めると、握り締められた桐嶋さんは呻き声をあげ、自分の首へと手を伸ばした。自分の首を絞め続ける俺の手に縋るように。
「私が…何をした…」
「なにもしていません」
「だったら、何故…ぐ…」
「それは…」
俺の邪魔をするから。俺を救おうと手を伸ばしてくるから。
だから、憎イ。ダから、コロス…。
「俺は貴方のようにはなれません。…瑠佳の無念を晴らせないのなら、生きる価値なんかありませんから」
「瑠佳…ちゃんは、大好きなおにいちゃんが…自分のために狂うことを望んでいた…だろうか」
瑠佳…?望む…?
『瑠佳は、優しい子だな』
『えへへ。…おにいちゃん、肩車して?』
『いいぞ。ちゃんと捕まってろよ?』
『やったぁ! たかーい! お兄ちゃん大好き!』
『あはは。よかったな』
俺はいつも、瑠佳の幸せだけを願ってきた。ずっと、ずっと。瑠佳が生まれる前から。
じゃあ、この穢れた手を、あの子はどう思うだろうか。嫌うだろうか。避けるだろうか。
『お兄ちゃん、大好き』
いくつもの考えが俺の頭の中を駆け巡り、結局は――。
『お兄ちゃん』
可愛い、瑠佳の声。
『オニイチャン』
醜い、獣の声。
『お兄ちゃん』
違う。
『オニイチャン』
俺には、こっちでいい。獣でいい。
だって――。
「死んじゃったじゃ…ないか…」
瑠佳ハ、死ンダ。アノ子ハモウ、戻ッテコナイ。
可愛イ妹ハ、殺サレタンダ。
考エタッテムダ。瑠佳ハ死ンダ。コノ男モ、自分ガ助カリタイダケ。瑠佳ノ死ヲ、利用シタ。
…………死ネバイイ。
ミンナ、死ネバイイ。
「た…くや君…?」
ミンナ、死ネバ…………。
「お前はどうせ自分が助かりたいだけだろう。瑠佳の話を出せば、俺が揺らぐと思って!!」
俺の双眸から、雫が零れ落ちた。
無抵抗な桐嶋さんの首を絞める。ありったけの、力をこめて。
涙が、溢れ出す…。
「そんなの、もう…もう効かねぇよ。だって瑠佳は死んだじゃねえか」
俺の手を自分の首から引き離そうとする力が、弱くなる。どんよりと曇った目が俺を見つめていた。そんな目で、俺を見るな――。
「ひひひひ…ははははっ」
きっと今俺は、酷い顔をしているだろう。泣きながら笑い、憎み、悲しみ、喜び、愛する。全ての感情が渦巻く。俺という壊れたナニカを中心にして。
桐嶋さんの体が重くのしかかる。
「死んだ」
今コノ男を絞め殺した。
俺は体に重くのしかかる桐嶋さんの屍…。いや、ただの肉のカタマリを押しのけた。これはもう、ただの肉のカタマリ。ただの抜け殻。実沙希のときも祐太のときも同じだった。
サッキマデ人間ダッタケド、モウ違ウ。
憎しみという感情にとりつかれた俺という名の悪魔は、目の前の肉のカタマリを踏みつけた。柔らかく、ほんのりと温かさが残っている。
「死ねぇ!!」
ぐしゃ…。やけに生々しい音が、俺の足元から聞こえる。なんだか足が濡れている気がする。おかしいな。雨なんか降ってなかったし、そもそも室内に水溜りなんかできるわけないんだけどな。
「ああ…そういえばもう死んでいた。死ねっていっても意味無いかぁ…」
生臭い、血ノニオイ。吐き気をもよおしそうなその匂いに、俺は酔いしれた。
「お家の中に水溜りはできないけど、血溜まりだったできるよねぇ?」
だから足が濡れている。じゃあこの匂いは…?
「芳香剤かな。いい趣味してるねえ」
ぐちゃぐちゃにしてやるよ。何もかも。原型も残さないほどに。骨を砕いて内臓を引っ張り出して、代わりに憎しみを詰めてやるよ…。人間の本当の姿に戻してやる。奇怪で、不気味で、おぞましい。
そうしたらほら、多分誰もわかんないだろう?
悪魔がちょっと中身をかじったなんて。
拓哉君、キャラ崩壊。