第六章 生きる価値 【1】
街の喧噪が痛いほど俺の耳朶を叩く。多すぎる人ごみに呑まれ、しかしそれでも自分は孤立しているように感じた。
流れに逆らわず、ただ流されるように歩く。体が酷くだるく、動くのも抗うのも億劫だった。
「…」
体が火照る。いやに意識が朦朧とし、足元もおぼつかない。
そういえば、どうやってこの人の多いところまできたのか、全く覚えていない。
胸が痛む。
胸の奥のほうが針でも刺したように微かに、けれども確かに痛む。そこは、かつて自ら命を絶とうとした場所に近かった。
俺は小さく呻いた。その呻き声が周りに聞こえるはずもなく、世間はいつもどおりに騒がしく、けれども穏やかに過ぎていく。
なぜだろう。ここにいる人々はみな活気に溢れ、自分とは違う世界を生きている気がした。
まさかここに、人を何人も殺した殺人鬼がいるとは夢にも思わないだろう。
「いい…」
捕まったっていい。死刑にされたっていい。罵られ、死よりも酷い仕打ちをされたっていい。
…死刑にして欲しい。死よりも酷い仕打ちをして欲しい。殺して欲しい。
何度も自分の中で繰り返してきた言葉。
憎い。コロセ。
森田を殺すまでは死んでも死に切れない。もはや俺は『瑠佳を殺した犯人』を憎むのではなく、森田慎司そのものを憎んでいた。森田のあの蛇のように細められた目を思い出すと、吐き気と悪寒が込み上げる。
不快な笑い声が耳の奥を引っかく。一瞬は森田の笑い声にも聞こえたがよくよく落ち着いて聞いてみると、それは俺の笑う声だった。
通りがかる通行人が気味悪そうに俺を見た。俺はその通行人の一人を見るとにたりと口を歪ませ、すっと手を伸ばす。人々は恐怖に顔を歪ませ悲鳴を上げて逃げ去っていった。
肩に衝撃が走る。後ろに強く引っ張られ俺はよろめいて振り返る。そこには真面目そうな男が突っ立っていた。二十代後半。きっちりした格好はしているが、警察関係者ではないようだ。
「君、彼女に謝れ。一体何のつもりだ」
「ははは…」
「ふざけているのか? 警察を呼ぶぞ!」
「けーさつぅ?」
焦点が定まらない。それがかえって不気味に見えたらしく、男は微かに一歩さがった。
「話が通じないようなら、体に教えてやるしかないだろう」
男はふっ、と体に力を込めると、俺に向かって拳を振りかざす。
俺はその拳を左手で楽々と受け止め、男の腹に拳を叩き込む。続けて右頬、左頬と休まず殴った。硬い感覚がして一瞬手を止めると男の折れた歯が血と唾液を纏って地面に転がっていた。
自分の体のどこにこれだけの力があったのだろう。殴っているうちに苛立ちがこみ上げ、更に力を込めた。
次に気がついたときには俺は三人の男に地面に組み伏せられていた。戸惑いが生まれ、男の一人を殴りかけていた腕が止まる。自分の体が無意識のうちに抵抗していたことを知った。
動きが止まったところを取り押さえられ、わけが分からないうちに手足を拘束された。俺はうな垂れ、それを諦めたと思ったのか三人の男―三人の警官はふっと力を抜いた。今なら逃げられるかもしれないが体が動かない。
俺はされるがままにひっぱられ、途中で気を失ったのか気づいたときには狭い部屋の中にいた。
部屋の中は薄暗く俺は椅子に座っているようだ。俺の前に人がいる気配がする。視界がぼやけてよく見えないが、それはどこかで見た顔だった。
「桐嶋さん…?」
俺は目の前の人物が信じられなくて、二、三度目を瞬く。しかし霞は大きくなるばかりで次第に吐き気が込み上げてきた。
「俺…。ここ、どこですか? 俺、一体何を…」
ここは警察署で、君は人を殴ったんだよ。という桐嶋さんの声が遠くに聞こえた。耳鳴りがする。
「自分のしたことは、覚えているんだよね?」
「…はい」
「ならよかった。なんで、殴った?」
「分かりません」
俺が聞き取りやすいようにゆっくりといっているのが見て取れる。その後に繰り返された質問に、俺は頷くか分からないというしかなかった。
「まいったな」
桐嶋さんはお手上げだといわんばかりに手を頭の後ろで組んだ。
「君も自分がどうなったか理解していないようだから、少し話をしようか」
「話…?」
「君はここに連れてこられるまでに何度も気を失った。きっと精神的な面が関係しているんだと思う」
心と体は比例する、と桐嶋さんは続ける。
「かけがえのない家族を失い、盟友を失った。一人残された自分が憎いんじゃない?」
「…」
一つだけ違う。自分が憎いのはそうだ。森田が憎いのと同じぐらい自分が憎い。ただ、実沙希と祐太を殺したのは俺だ。その罪悪感で、自分が憎い。
「しばらくの間はここで生活をしてもらうことになるかな。だからその間に、心を落ち着つけて欲しい」
「俺、少年院に入るんですか」
「それは…」
「言ってください」
「…入らない。といえば嘘になる。でも今のところは君の精神状態が不安定だから、ある程度安定するまでは保留としているよ」
「嫌です」
そんな悠長なことをしていたら、森田がどう動くか分からない。
「嫌です。そんな、森田が…」
「これは、君がこれから前向きに生きていくために必要な期間なんだ」
「いやだ…」
俺なんかに、前向きに生きていく資格なんて無い。生きる資格なんて無い。
「俺は…死ぬんです」
森田を殺して、自分も死ぬ。それで全てが丸く収まって、万々歳だ。
「だから…生きないんです。もう死ぬんです」
「生きなさい」
「嫌だ…」
子供のように嫌だとダダをこね、震える手を押さえる。
「生きて、罪を償いなさい」
「嫌だ!!」
「君の罪は現実を見ることをやめたことだ。君の罪は、死だけでは償えないほど拡大している」
「俺には生きる資格なんて無い!!」
「死んで楽になりたい?でも、罪を償わないまま死んでもらうわけにはいかないんだよ。実沙希さんのためにも、祐太君のためにも」
俺ははっと顔を上げた。この人は、きっと初めから知っていた。
「ずるいと思わない?罪も償わないで、自分だけ楽になろうっていうのか?二人に合わせる顔がないだろう」
「うるさい…」
ごめんなさい。でも、いいんです。俺は目をカッと見開くと、無防備な桐嶋さんの首に飛び掛った。