ケモノ 【2】
「実は…」
そう言って声のトーンを落とす。聞いてはいけなかっただろうか。
「私、恥ずかしながら医者になりたくて…」
「医者?」
医者、というよりも、それとここにいることとどう関係があるのか疑問だ。
「呆れますよね。冗談だと思うかもしれませんが、本気だったんです。誰かを助けたくて…。助けるっていったら、お医者さん、ってしか思いつかなかったから。ただ漠然と、『医者になって誰かを助けるんだ』って勝手に意気込んで。今考えると、本当に馬鹿だったなぁって」
「…俺は、馬鹿だとは思いません」
「ふふ。ありがとう。でも…落ちたんです。夢と現実は違い過ぎた。結局受かったのは、医者になんかなれっこない、三流大学だけで」
「え?」
「私には時間が無かった。私は、幼いころに母を亡くして、男手一つで育てられてきました。でも、そんな父が病気で。その病気を治すことはできなくても、一人でもやっていけるって、父を安心させたかったんです」
俺はなんと言ったらいいのか分からなくて、目を泳がせた。
「焦って、焦って、焦って。一生懸命勉強しても、思い描いたものには到底及ばなくて。絶望して、そんな自分が嫌で嫌で…そんなときに出会ったのが、ここにいる子供たちなんです」
茜さんは目を細めると、子供たちへ微笑みかけた。優しい、自愛に満ちたまるで母親のような微笑みを。
「ここの子達は辛い境遇なのに常に笑っていた。私はその笑顔に救われたんです。そして教えられた。人の微笑みは、こんなふうに人を救えるんだって。医者にならなくても、助けることはできるんだって。私は実家に帰って、家族と共に父の最期を看取りました。父の顔は穏やかで…。父を最後に、『助けられた』かなって。だから私がここにいるのは、私を助けてくれたこの子達を、今度は私が『手助け』したいと思って…
そう言って笑う茜さんの目に、涙も後悔も無かった。あるのは深い悲しみだけ。それは、父を失ったという悲しみとはまた違う気がした。
「人間って、どうしてこんなに不完全なんでしょう…」
「不完全、ですか?」
俺は混乱した。完全な人間なんていない。と、よく言う。俺もそう思うし、だから茜さんの言葉が理解できなかった。
「人は、その在り方一つで人の心や人生を救えるんです。私も、もっと早くに気づければよかった。こんなに小さな子だって、人を救うことはできます。それなのに、どうして人の命を奪うことしかできない人がいるんでしょう」
「…」
「その人が憎くい気持ちは分かるけど、それをその人に返しても何にもならない…。ただ憎しみが増えていくだけで、悲しむ人が増えるだけで、自分に何もプラスにならないと思うんです」
胸が締め付けられる思いだった。でも、俺に何ができるだろう。守るものはとうに失った。誰かを憎まずにはいられない…。
「茜さんは…」
「はい?」
「茜さんは、そんな人達を、怖いと思いますか…?変だと思いますか…?」
茜さんは遠くを見つめ、少し考えたあと首を横に振った。
「きっと、その人達は今、すごく苦しいと思うんです。辛いと思うんです。でも私達が怖がって、手を差し伸べてあげなかったら、救えるものも救えない。私は、そんな人達を助けられる人になりたい。…ふふ。なんて、そんな簡単なことじゃ―」
「茜さんなら…きっと…できます」
「はい?」
「茜さんなら…」
今だって俺の心を救おうとしてくれている。俺の頬を涙が伝った。嬉しかった。俺を救ってくれようとしてくれる人が、こんなに近くにいたなんて。
「ご、ごめんなさい。私、なにか悪いことでも…」
「違うんです。なんでも無いんです」
もう少し早く気づけていたら。そうしたら、手遅れにならずに済んだのに。
俺は初めて後悔した。そして森田ではなく、自分が、自分の運命が憎いと思った。
もしもあの時、森田が殺したのが瑠佳じゃなかったら。
もしもあの時、母さんが出て行かなければ。父さんが死ななければ。
もしもあの時、森田に出会わなければ。
もしもあの時、ああしていれば…。
でも俺は、人を殺めてしまった。茜さんがいくら光を差し出してくれても、俺にそれを受け取る資格は無い。この汚れた手で、何も守ることはできない。
俺にできるのは復讐を成功させて、そして罪を償うことだけ。
光に手を伸ばすには、もう『手遅れ』だから――
俺は目元に光るものを拭い、茜さんに一礼して駆け出した。決心が揺らがぬうちに。
風が、頬を撫でる――