千春との約束
こっちに戻ってから、自分の墓に参るのはこれで三度目だった。
この墓石の前に立つたびに気持ちは変わっている。
そして私自身も変わっている。
私たちは学校が終わると制服のまま線香とお供え物を持って墓地へと向かった。
彼岸でもなんでもない普通の日。
墓地には人がいるはずもなく、しんみりとした雰囲気の中、私たちは静かに手を合わせた。
おばあちゃん……。
私、もう少し頑張るね。
そっちで……会えた時に褒めてもらえるように。
私はそっと目を開け、隣でまだ手を合わせている千春の横顔を見た。
聞くのは、今しかない。
「ねぇ千春。訊きたいことがあるんだけど」
千春は私の方へ顔を向けて小首をかしげた。
「何?」
「屋上にね、深雪のスカーフがあったの……もう一つのスカーフは千春のだよね」
千春は少し驚いた顔をしたけれど、すぐに笑顔に戻った。
「そうだよ。私と深雪で結んだの」
「深雪……と?」
なんで? 私たちの間に何があったの?
「うん。愛里ちゃんは深雪とメル友だったんだよね」
「え、うん」
「深雪がいじめられてたのも知ってるんだよね」
千春の声に寂しさが混じる。
私は千春の顔を見てられなくて、墓石に視線を移した。
「……聞いた」
「私は、深雪を守ることが出来なくて、一人にさせちゃったの」
千春、気にしないで。
私は千春がいてくれただけで十分だったんだから……。
「約束のしるしなんだ。もう、思い出話だけど……あの日、私はクラブが長引いて、一人帰ろうと校門を出たの――」
千春が下駄箱で靴を履いて、昇降口を出ようとした瞬間、視界を何かが横切った。興味が湧いてそれを探してみる。それは上から降って来たようで、昇降口の隣の植え込みに落ちていた。
それは、生徒の上靴だった。千春は不思議に思ってそれをよく見た。大抵上靴には名前が書いてあるはずだ。
そして書かれている名前を目にした瞬間、千春は踵を返して校舎に駆け戻った。
頭よりも体が先に動く。
屋上に続く階段を靴下のまま駆け上った。
あれは深雪のものだった!
なんで? どうして深雪のものがあそこにいるの?
不安は焦燥を呼んで、胸の中に広がっていく。
うそだ、やだよ………深雪!
深雪はフェンスに腰を下ろしてボーと景色を見ていた。
死んでしまいたい……。
今、ここから降りたら死ねるよね。
このままちょっとフェンスを蹴るだけで向こうに落ちる。
深雪は視線を下にやる。
すると等間隔に植えられた木が目に入る。
そして無愛想なコンクリート。
これくらいの高さがあったら死ねる。
死んじゃおっかな。
別にいいよね……もう疲れたし。
ここで死んじゃうのが一番いい。
みんなに私の苦しみを伝えられるから。
死。
楽になれるかな?
深雪は片方の靴を落としてみた。それはまっすぐ落ちて、植え込みの中に紛れた。自分も、ああやって落ちるのだ。
そういえば、自殺する時って靴を脱ぐよね。
なんでかな。
深雪は無機質な空を見上げる。そのまま吸い込まれてしまいそうな空。
あ、そっか。気づいてほしいんだ。自分がそこにいたこと……みんな一緒なんだ。
もう片方の靴も落とそうとした時、後ろで扉が大きく開かれた音がした。
なんだろう……。
深雪が後ろに首をめぐらせようとした瞬間、ぐっと後ろに重心が傾いて空が見えた。
あれ?
落ちた? 死ねる?
しかし、落下の衝撃は思ったよりも早かった。
「っ……痛い」
頭は打たなかったが背中が痛い。
深雪はなんで痛いんだろうと空を瞳に映しながら考えていた。
何が起こったの?
深雪はゆっくりと上体を起こし、首を巡らせる。
そして左に顔を向けた瞬間、鋭い痛みが頬に走った。
その痛みに深雪ははっと我にかえり、初めて傍に人が座っていることに気づいた。
「ち、千春?」
千春は息を切らし、目には涙を浮かべていた。
どうして千春がここにいるの?
私……。
「深雪のバカ!」
千春はまだ痛みの残る右手をぐっと握りこんだ。
この手があと少し深雪の服に届くのが遅かったら、深雪に触れられなかったら……。
「勝手に死なないで!」
深雪は千春の必死な形相に、自分のやろうとしていたことを思い出した。
見られた?
「残され側の気持ちも考えてよ!」
深雪は千春の顔を見れず何も言葉を返せないまま俯いた。
ただたった一人の友達に心配されて、迷惑をかけてしまったことが情けなかった。
千春を泣かせてしまっていることが何よりも辛かった。
「なんで何も言ってくれなかったの?」
千春の悲痛な言葉は深雪の胸に深く突き刺さる。
「……ごめん」
深雪にはそう言うしかなかった。
千春はその言葉を聞くと弾かれたように頭を振って服の袖で涙を拭った。
「違う……謝らないで」
違うの、悪いのは深雪じゃない。
私は分かってた。
深雪が話しかけてこないのも、一緒に帰らないのも、全部私を守るだめだったって。
「ごめんね……深雪が辛い時に傍にいられなかった……こんなの友達じゃないよね」
千春……。
「友達だよ」
大切な、大切な友達
「私、深雪の優しさに甘えてばっかで、何の役にも立てなくて」
千春はまた眼尻を袖で拭った。
「いいの、そんなこと思わないで…私は、千春が笑っていてくれるだけでいい」
千春の笑顔に私は何度も救われた……。
「深雪……約束して。私はいつも笑顔でいるから、深雪も死のうなんてしないで」
千春の声は力強くて、その目は真っ直ぐ深雪を捉えていた。
「うん。約束。もう、負けない」
生きたい……。
初めて、そう思えた。
千春がいてくれる。私はまだやれる。
「じゃぁ、約束の印残しておかない?」
「しるし?」
うん、と千春は頷いて、深雪のスカーフを抜き取った。
そして自分のも引き抜く。
「これを結んでおくの」
千春はフェンスの際に歩み寄ると二つのスカーフを一緒に括りつけた。
「これで、絶対忘れないでしょ」
そう言って笑う千春があまりにも無邪気で、深雪もつられて笑っていた。
「久しぶりに深雪の笑った顔を見た」
そう言われて初めて深雪は自分が笑っていることに気づいた。
「そうかも」
屋上には二人の女の子の笑い声が響いた。
二人のスカーフは夕日を受けて鮮やかに揺れていた……。
私は千春の話が終わっても、すぐに言葉を発せられなかった。
謎は一つ解けた……でもその約束を破ってしまった自分が許せない。
千春はずっと約束を守ってくれているのに…
「なんか不思議な感じ」
千春は私の方を向いていつもの笑顔を見せた。
「お墓の前だからかな、深雪ちゃんに聞いてもらえた気がする」
おかしいよね、と千春はくすくす笑った。
「深雪はきっとありがとうって言ってるよ……千春みたいな友達がいて嬉しかったって」
「だと……いいな」
「私にはわかるよ」
千春はうん、とひとつ大きく頷くと一歩踏み出した。
「なんか話したらすっきりした。私は帰るけど、愛里ちゃんはどうする?」
「私は……もう少しここにいる」
もう少しここで考えていたい。
「わかった。じゃぁ、また明日ね」
「うん。また明日」
そして千春の背中を見送ると、私は向かいのお墓の階段に腰をおろした。
また明日……。
その言葉を口にしたとたん明日が遠くに感じた。
そっか、私に明日がある確証はないんだ。
何が最後の記憶なのかはわからないけど、確実に最後に近づいている……。
何を思い出せばお終いなのかは分からない。
死ぬ前の私はどんなのだったの?
今の私よりも多くのことを知ってたの?
それとも今の私の方が知ってるの?
知るほど、私の欠けた部分が埋まっていくほどに不安は大きくなる。
私……。
「愛里?」
私はその声にはっと我にかえって顔を上げた。
「まさかとは思ったけど、やっぱり来てたのね」
愛沢さんは花と線香を片手にこちらに近づいてきた。
「あ、愛沢さん」
「墓の前でそんなしみったれた顔されると怖いんだけど?」
そして愛沢さんは墓の前まで行くと、花を置いて手を合わした。
深雪……ごめんね。
私が、あの時あんなこと言わなかったら……。
それと、深雪と同じ目をする子を見つけたわ
貴女と同じ、強い意志を持った目。
そして、貴女と同じ、人を強くする子よ。
愛沢さんはふっと息をついて振り返った。
「本当に、あなたたちはいつも私が折れそうな時に現れるのね」
愛沢さんの独り言のような言葉がかすかに聞こえた。
「え?」
なんて言ったの?
「ねぇ愛里、明日会えない?」
愛沢さんの声は決意を含んだ、涼しい声だった。
「……何で?」
明日は土曜日、予定は何もないが。
「話しておきたいことがあるの」
話? あれ以上にまだあるの?
「いいけど」
何だろう。
気になったけど、愛沢さんの顔が何時になく真剣だったから訊けなかった。
「どこか、ゆっくり話せるところは……」
「あ、駅前の公園は?」
私の頭にふと、広い公園の景色が浮かんだ。
たしかあそこはベンチの数も多かったはずだ。
愛沢さんは複雑そうな顔で、公園、と呟いた。
「そうね……そこがいいわ」
「何時にいけばいい?」
「……十時に」
「わかった」
愛沢さんが何かを伝えたいのなら、私はちゃんと受け止めなくちゃいけない
深雪の時には、出来なかったから……。
「気をつけて、来てね」
「子供じゃないのに」
愛沢さんはくすくす笑って墓の階段を下りた。
「そうだったわね」
そして私は愛沢さんと一緒に墓を後にして家に帰った。
その間、妙に気をつけての一言が引っ掛かっていた。
なんで、あんなことを言ったんだろう。
確かに、駅前は車どおり多いしなぁ。
明日……私はまた何かを知るのかな。