ただいま私の家
そして放課後、校門前で私たちは集合した。
お世辞にも愛想がよいとはいえない二人に囲まれ、私は必死にその場をつなごうとしたが挫折した。周りの視線も痛い。
そうして私たちは一言もしゃべることなく私の家へと向かったのだ。
久し振りにみる我が家は冷たく。私は緊張していた。
「あなた、大丈夫?」
見るに見かねてか愛沢さんが声をかけてきた。
「……き、緊張する」
「まぁ、な」
珍しく、早川君の同意があった。先ほどから彼がしゃべらなかったのは緊張していたからかもしれない。
恋人の家を訪ねる気分なのかな……。って恋人私じゃん! や、どうしよう、自分で言ってて恥ずかしくなってきた。
動揺する私の耳になじみあるメロディーが届いた。愛沢さんがチャイムを押したのだ。
「ちょ、まだ心の準備が」
血圧上昇により顔が火照っている私と反対に愛沢さんは涼しい顔をしていた。
「はい」
「愛沢です。友達と遊びに来ました」
「あぁ……今開けるよ」
応答に出た声はお兄ちゃんのものだった。でも私の知っている声とは違う、固く、低い声だった。ほどなく扉があき、出迎えてくれたのはやはりお兄ちゃんだった。
“お兄ちゃん”
うっかり言葉にしそうになって、あわてて引っ込める。
「今日は深雪の友達も一緒なんだね。あがって、深雪も喜ぶよ」
お兄ちゃんの案内で通された私の部屋は以前と変わらず、そのままだった。
「何も、変わってない」
自分が今までここにいたような錯覚を起こしそうになった。
「来たことがあるのか?」
「い、一度だけね」
そうか、と短くつぶやいた早川君の顔には悔しさがにじみ出ていた。
もっと早くこの気持ちに気付けたら、もっと早く声をかけたら…それは私も同じ。私は死んで、結局後悔だけが残った。
私はベッドに座った。少し硬めのマットも可愛さのない無地の布団も、すべてが深雪だった。
「愛沢さんはよく来てるの?」
私は本棚を眺めている愛沢さんに声をかけた。
彼女は本の背表紙を眺めたまま言葉を返す。
「そうよ」
そっけない返事だが今は暖かく聞こえる。
もしかしたら私は、愛沢さんの優しさに気づいてあげられなかったのかもしれない……。
ふと視線をあげると、窓辺に飾られている写真立てが目に入った。
「写真立て……?」
思わず漏らしたその言葉に早川君は怪訝そうな顔をして私の視線の先に歩いて行った。
「なにか覚えでもあるのか?」
早川君は写真立てを手にとって、ほこりを払った。
「……ないけど」
ないから問題なのだ。私の記憶ではそこにそんなものを置いた記憶はない。だがあの埃を見るに長い間放置されていたらしい。
早川君はそれを持って私の隣に座った。正直な心臓が高鳴る。
「……小さい頃の神崎の写真か?」
私が覗きこんで見ると、そこには二人の女の子がいた。
髪の短い子と長い子、顔の細かい部分は写真の劣化が進んでいてわからない。
「たぶん髪の長い方が深雪ね」
「だろうな」
「何それ?」
私たちの会話に興味を持ったのか愛沢さんが寄ってきた。
「深雪の小さい頃の写真。髪の長い方が深雪だと思うんだけど」
写真を見た瞬間、愛沢さんは顔をこわばらせた。だが一泊後には目を細めて微笑を浮かべた。嬉しくも、悲しくも見える複雑な笑み。
私は初めて見る愛沢さんの表情に驚きを隠せなかった。早川君も軽く瞠目している。
「違うわ。髪の短い方が深雪よ」
彼女の声は今までで一番柔らかかった。
「え、なんで?」
反射的に聞き返したがそう言われれば昔は髪が短かったような気もしてきた。
「だって、その隣に写ってるのは私だもの」
間三拍。
「うそぉぉぉ!」
愛里としての驚きに深雪としての驚きも加えられなんとも素っ頓狂な声をあげてしまった。
「お前ら、そんな昔からつきあいがあったのか?」
ないないない!
私は心の中で必死に首を振る。
「まあね。深雪は覚えてなかったみたいだけど」
お、覚えてない……。
愛沢さんは早川君から写真立てを受け取ると向かいにある勉強机のイスに腰をおろした。
「あの時、私の姓はまだ桜井でずっと家にこもってる女の子だったしね。分からなくても無理ないわ」
彼女の口から出て言葉はおよそ今の彼女からは想像もつかないものだった。
「両親も不和でね。毎日家にいるのが嫌で図書館ばかり行ってたの。そこでね、深雪にあったのよ……」
夏が近づき、気温は日に日に高くなっていく。気の早いせみは既に鳴き始め、短い生涯を謳歌している。空は色を濃くし、雲も厚く、大きくなった。
迷いなどない空、それを見上げる度、沙那は陰鬱とした気分になった。
家には昼夜を問わず喧嘩をする両親がいて、父親が働きに出ても、母親は沙那にかまってなどくれなかった。
そのせいか、沙那小さい頃からよく本を読んだ。本の中には幸せがたくさんあった。
この日も、沙那は癒しと涼を求めて図書館に向かった。
図書館はいつも静かで落ち着いた。そこには幸せがたくさんあった。
沙那がいつもの席で絵本を広げていると、正面の席に誰かが座る気配がした。沙那は気にもせずに読み続ける。
「ねぇ、あなたいつもここにいるよね」
あまりにも突然すぎて沙那はその言葉が自分にかけられたものだと気付くのに時間がかかった。
「わたしもそれ読んだんだ。おもしろいよね」
顔をあげるとショートヘアーの小麦色の肌をした女の子がいた。
……なんでまだ夏じゃないのに焼けてるんだろう。
第一印象はそれであった。
「私けっこうその話好き。お姫様が出てくる話ってワクワクしない?」
女の子は沙那の反応なんか気にせず一方的に話し続ける。
「お姫様っていえばさぁ……」
「ちょ、ちょっと。あなた誰?」
やっとのことで沙那は言葉を振り絞った。止めなければ話がどんどん進む。
「え、私?深雪。神崎深雪だよ」
「深雪……」
やはり初めて会う人のようだ。記憶にそんな名の知りあいはいない。
「あなたは?」
「……桜…い……」
緊張のあまり声が消え入りそうなほど細い。
「さくら?へ~さくらちゃんか、可愛い名前だね」
「え、ちが……」
沙那が訂正しようとした時にはもう深雪は本に目が行っており、とうてい話を聞いてくれるような様子ではなかった。
沙那は諦めて再び視線を本に落とした。
沙那が一冊を読み終え、立ち上がりざまに深雪の様子を窺ってみるとなんと彼女は寝ていた。
……何しにここにきてるのかしら。
沙那は深雪を横目に本の貸し出し手続きをして図書館を後にした。
もう昼時だ。さすがに昼には一度家に戻らないとまずい。やつあたりされるのはごめんだった。
団地が立ち並ぶ息が詰まるような住宅地。団地と団地の間には必ず公園があって、帰るにはそこを通らなくてはいけなかった。
休日ともあって、子供たちが元気に遊んでいる。沙那と同じ年の頃の子供もたくさんいた。
沙那は彼らをなんとなげに気にしながら団地へ入って行った。
ボタンを押してエレベーターを待つ。
楽しそうな遊びの輪に、沙那は昔から入ろうとしなかった。
幼稚園でやった家族ごっこも面白くなかった。彼女は母親の演じ方が分からず、娘の演じ方もわからなかったのだ。
エレベーターの扉が開き、沙那は乗り込んだ。
自分の階を押して上のランプを見上げる、一定の間隔で進んでいき、止まる。
そして扉が開くと沙那は重い足を踏み出した。
家の中に入ると空気は冷たかった。物音もない。台所のテーブルの上にはお好み焼きが置かれていた。それを電子レンジで温めて食べた。
母親は寝ているのだろう。
沙那は食べ終わった食器を片づけて居間で本を広げた。自然と今日会った女の子のことが思い出される。
あの子……いつも来てたのかしら。
全く記憶にないが相手は自分のことを知っていた。これまでも何度か正面に座っていたのかもしれない。
誰かと口を利いたの久しぶりかも……。
そして次の週の休日も図書館に行くと深雪がいた。
彼女は沙那に気がつくと本を脇に置いて笑顔で歩み寄ってきた。
「さくらちゃんだ~。おはよう! こないだはいつの間にか寝ててさぁ、目が覚めたらもうさくらちゃん帰っててびっくりした」
そして桜ちゃんで定着していた。
「おはよう……」
「図書館って静かだからつい眠くなるの」
あははと笑いながら深雪は沙那の手を掴んだ。
「ひゃぁ!」
突然のことに沙那は変な声を出してしまった。
周りの利用者の視線が痛い。
「ねぇ、今日の午後から暇? 遊ばない?」
「え……え?」
遊ぶって何?
「今日いい天気だし。公園で遊ぼうよ」
え、もしかして私、誘われてるの?
遊べる? みんなと同じように……?
「……うん。いいわよ」
沙那は極力いつもと同じ口調で言った。
だけど嬉しくて顔が自然と笑顔になる。
「やったぁ!」
「ちょ、静かにして」
大声を出した深雪を慌てて沙那は落ち着かせる。
深雪は満面の笑みで沙那の後ろをついてきていた。
同じ本棚に目をやって、好きな本を取っていく。いつもと同じ動作なのに、隣に人がいるだけでなんだかわくわくした。
……変な子。
沙那は胸の辺りがくすぐったいのを我慢しながら必死に背表紙を目で追っていた。
昼ごはんを家で済ませ、テレビを見ている母親の背中を一瞥してから家を出る。
娘が何時何処に行こうが関係ないのだろう。
「さくらちゃ~ん」
外に出ると、前の公園に深雪はいた。
そして沙那を引っ張って他の子供たちがいる方へと歩いて行く。
「え、ちょっと待ってよ。何するの?」
「え~? わかんないよそんなの」
行ってからのお楽しみ、と深雪は付け加えた。
遊んでいる子供たちが二人に気がついて視線を上げた。
「あ、深雪ちゃんだ」
「深雪ちゃんの友達?」
「そうだよ~。さくらちゃんっていうの。一緒に遊んでもいい?」
深雪はこの子供たちとよく遊んでいるらしく、
すんなりと輪の中に入って行った。
しかし沙那はどう話しかければいいのか分からず、輪の外でうじうじと深雪の背中を見ていた。
「さくらちゃん? あ、向いのマンションの子だ」
「ほんとだ~さくらちゃんっていうんだね」
深雪に紹介された沙那の下に子供たちが集まってくる。
沙那は小学校でもこんな多くの友達に囲まれたことがなかったので、一気に緊張してしまう。
「よ、よろしく」
「ね~ね~。何してたの?」
深雪は沙那の緊張など吹き飛ばすほどの明るさで女の子たちに訊いた。
「おままごと。だけど人数も増えたからおにごっこしよっかな」
「おにごっこやる!」
深雪が万歳をしておにごっこに賛成すると、他の女の子たちも乗ってきた。
「じゃぁ、おに決めるよ! じゃんけんぽん!」
沙那もつられて手を出す。
最初は知らない子がおにだった。
おにが十数える間に、沙那と深雪は全力で逃げる。
追われて、追って。
知らない子でもタッチして、タッチされて。
初めて走ることを楽しいと思った。
初めて、遊ぶことが楽しいと知った。
そして初めて、友達ができた。
それが、一番嬉しかった……。
深雪とさよならする時も、自然とまたねと言えた。
また遊べるという自信が何故かあった。
それから週末は深雪と遊ぶようになった。
校区が違うのか、小学校は違い、会えるのは週末だけだった。
それでも、沙那は十分だった。
深雪と会ってからたくさん笑って、たくさん話をした。知らない場所にもたくさん行った。
そして、夏が始まるころ、両親の離婚が決まった。
沙那は泣きじゃくっていた。
両親が離婚するのが嫌なのではなく、ここから引っ越して、深雪に会えなくなるのが嫌だった。
深雪にもなんて言えばいいのか分からなくて、泣きながら言った内容も伝わったかどうかは分からない。
ただ、もう会えないんだと、それだけを繰り返していた……。
そして、深雪も泣いていた。
「……ぐすっ…しゃ、写真…写真とろ」
「…写真?」
沙那は泣きはらした顔で深雪を見上げる。
「うん。一緒にいたことが一生消えないように」
深雪の目からは涙がこぼれていたが、顔は笑っていた。
その顔を見ていると、なんだかまた会えるような気がした。
「はいチーズ」
そうやって撮られた写真は二枚。
一枚は沙那の部屋に、一枚はここにある。
その後沙那は隣の市に移り、そこで母親に育てられた。そして四つ葉学院に入学し、深雪と再会したのだった……。