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9話

「超ウケる」


 トン子の声に重ねるように、奇妙な記憶の端を手繰り寄せた一丸も、その温かな輪の中に加わった。

 自分の時はもっと酷くて、競技用の細いサドルに付け替えられていたと話すと、あのカチカチに硬いやつかと、皆が食いつくように声を上げ、前後が逆向きに固定されていたことまで明かすと、部屋は笑いに包まれた。

 詩亜なんて、泣き出しそうなほど笑い転げている。目尻に滲んだ涙を指先で拭いながら、労うように視線を向けてきた。


「でも丸ちゃん、サドルがあっただけまだ良かったじゃん」


 労う? いや、違う。完全におちょくられていた。


「ばかやろう。座ると股間が超痛いんだからな」


 また四人分の笑いが、狭い部屋に溢れた。

 明るい話題は絶えず続き、そのあわいに誰かのふっと整える息が混ざり合った。やがてテレビの音が切なく漂い始めると、山場を越えた舞台のような静かな倦怠感が覆いかぶさってきた。

 一丸は、その気持ちを悟られないように、今日あった出来事を口にした。ひとまず建前として。この四人の中で、恋愛は禁止だと。


 けれど詩亜は何も言わなかった。漫画のページをめくる音だけが、やたらと白々しく耳につく。続いたトン子も「は? このメンツでそれはないわ」と、どこまでもあっけらかんとしていた。


 駿も似たようなものだった。軽く右手を上げて「僕も右に同じ」と短く言葉を添えた。


 画面では、瑞々しい桃が揺れる飲料水のCMが終わり、月曜の夜にはOLが街から消えるとまで言わしめる人気ドラマが始まっていた。煌めく東京を舞台に、格好いい大人たちが街中を回り回って、息も止まらぬほどのラブソングを奏でている。

 いつの間にか会話は途絶え、皆で画面に釘付けになっていた。


 あの光の中に何を見ているのだろう。未来か、希望か。


 一丸の中には、そんな眩しいものは一欠片も見当たらなかった。小さな頃に描いたはずの夢写真さえ、どこかへ無くしてしまった。現実は闇深く、声の大きい奴が勝つ、理不尽で不透明な世界だ。

 この四角関係では、込み入った話をほとんどしない。誰も自分のことを話さないし、聞こうともしない。ただ、世の中に対する漠然とした不満だけが、時おり言葉の端に透けて見えていた。

 もしかしたら皆も気づいているのかもしれない。こんな夜が、永遠には続かないことを。本当の意味での長期休暇を欲しているのは、テレビの中の主人公ではなく、自分たちなのだと。




 一丸は「いってきます」と独り言のような声を残して、玄関を出た。


 結局、三人が帰ったあとも執拗なバイクの音のせいで、浅い眠りのまま朝を迎えてしまった。

 ふと、門扉の側に置かれた自分の自転車に目が留まった。未来の飛行機を模したかのような、どこか軽薄で奇妙な形をしたサドル。朝日を浴びたそれは、滑稽なほど異様な存在感を放ってそこに居座っていた。

 昨夜の排気音が、不意に耳の奥で蘇る。悪戯したやつらが、どこかでこれを見て笑っている顔が浮かんだ。どくん、と心臓を叩くその音に急かされるように、手を伸ばした。

 何の抵抗もなく引き抜いたサドルを、あてどなく放り投げる。

 続いて、勢い任せに蹴り飛ばした車体がガシャリと悲鳴を上げたところで、ようやく我に返った。慌てて倒れた自転車を起こすが、一度沸騰した衝動の熱はなかなか引いてくれない。

 何だか、差し始めたばかりの陽の光に、自分の青さを見透かされ、馬鹿にされた気分だった。

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