第45話「左腕の別れ」
レッドゾーンの廃墟。
慎吾がA級魔物と戦っていた。これまでで最も激しい戦闘だった。
魔物は巨大な熊の姿をしている。高さ五メートル。鋭い爪が、慎吾の体を狙う。慎吾が火炎魔法で防ぐが、魔物は怯まない。
『全力を出す』
左腕が告げる。
「頼む」
慎吾が答える。
黒い炎が左腕から噴き出す。魔物を包み込む。魔物が咆哮する。だが、黒い炎は容赦なく燃え続ける。
やがて、魔物が倒れる。動かなくなる。
慎吾が膝をつく。呼吸が荒い。全身から汗が流れている。疲労が、限界に達している。
『……魔素濃度、Level 5に達した』
左腕が告げる。
慎吾が顔を上げる。
「……本当か」
『ああ。周囲の魔素を感じる。濃度は501 MS。基準値を超えた』
慎吾が立ち上がる。空を見上げる。
亀裂が、これまでより大きく開いている。まるで、何かを待っているかのように。
『……時間だ』
左腕が静かに言う。
「……ああ」
慎吾が答える。
慎吾が廃墟の中の静かな場所に移動する。かつてビルだった建物の残骸。瓦礫が積み重なっているが、その一角に平らな場所がある。
慎吾がそこに座る。
「……ここでいいか」
『どこでもいい』
左腕が答える。
慎吾が左腕を見る。紋様が、肩から胸、背中まで広がっている。まるで、体全体を覆うかのように。
風が吹く。静寂がある。
慎吾と左腕の、最後の対話が始まる。
「……お前と、どれくらい一緒だった」
慎吾が問う。
『2年と3ヶ月だ』
左腕が答える。
「……そうか」
『長かったか』
「いや。短かった気がする」
沈黙。風が、瓦礫の間を吹き抜ける。
『慎吾』
左腕が名前を呼ぶ。
「何だ」
『お前は、変わった』
慎吾が自分の手を見る。
「……そうか」
『最初に会った時、お前は死にたがっていた』
慎吾が頷く。
「ああ。第七班壊滅事件の後、俺は……」
『生きる理由を失っていた』
「……ああ」
『今は?』
左腕が問う。
慎吾が空を見上げる。
「……分からない。でも、死にたいとは思わなくなった」
『なぜだ』
慎吾が左腕を見る。
「お前がいたから……かもしれない」
『……そうか』
左腕の声が、微かに震える。
慎吾が問う。
「お前は? 変わったか」
『……ああ』
「どう変わった」
『最初は、お前を宿主としか思っていなかった。生き残るための道具だと』
慎吾が微かに笑う。
「そうだったな」
『だが、今は違う』
「何だと思っている」
沈黙。左腕が答えを探している。
『……仲間、かもしれない』
慎吾が驚く。その言葉を、予想していなかった。
「仲間、か」
『おかしいか』
慎吾が首を振る。
「いや。嬉しい」
慎吾の目が潤む。
「お前が、そう思ってくれていたなんて」
『……俺も、最初は分からなかった』
『だが、お前と共に戦う中で、分かった』
『お前は、ただの宿主ではない』
慎吾が涙を拭う。
「……ありがとう」
沈黙。だが、それは温かい沈黙だ。
慎吾が問う。
「……お前が本体に戻ったら、どうなる」
『分からない。記憶が残るかも分からない』
慎吾が俯く。
「……そうか」
『だが、もし残ったら』
慎吾が顔を上げる。
「もし残ったら?」
『お前のことを、覚えていたい』
慎吾の目から、涙が溢れる。声を上げて泣きそうになるのを、必死に堪える。
「……ああ。俺も、お前のことを忘れない」
『……ありがとう』
二人の静かな時間が、流れる。
しばらくして、左腕が言う。
『……始まる』
慎吾が顔を上げる。
「何が」
『本体が、俺を呼んでいる』
慎吾の左腕が熱くなる。紋様が光り始める。黒い光から、白い光へ。そして、透明な光へ。
慎吾が歯を食いしばる。
「……痛いか」
『いや。だが、お前は痛いだろう』
「どういう意味だ」
『俺が離れる時、お前の左腕は消える。激痛が伴う』
慎吾が静かに言う。
「……そうか」
『耐えられるか』
「……耐える」
紋様の光が強くなる。慎吾の左腕から、黒い霧のようなものが立ち上り始める。
痛みが始まる。鋭い痛み。まるで、腕を内側から引き裂かれるような痛みだ。
慎吾が声を殺して耐える。歯を食いしばり、呼吸を整える。
『……すまない』
左腕が謝る。
慎吾が答える。
「……謝るな」
『だが』
「お前のせいじゃない。これは、俺が選んだことだ」
痛みがさらに強まる。慎吾の体が震える。だが、声は出さない。
『慎吾』
左腕が静かに呼ぶ。
「……何だ」
慎吾が答える。声が震えている。
『ありがとう』
その言葉で、慎吾の涙が止まらなくなる。
「……こちらこそ」
慎吾が言う。
「お前がいなければ、俺はとっくに死んでいた」
「お前と共に戦えて……よかった」
『……俺も』
黒い霧が、完全に左腕から離れ始める。空中に浮かぶ。人型に近い形を取る。
それが、慎吾を見る。
『……生きろ』
左腕が最後の言葉を告げる。
慎吾が答える。
「……ああ」
霧が空へ上がっていく。亀裂の方へ向かう。そして、亀裂の中に吸い込まれていく。
慎吾の左腕が、完全に消失する。肩から先が、何もない。空気だけがある。
激痛。
慎吾が叫ぶ。これまで我慢していた痛みが、一気に噴き出す。声が廃墟に響く。
だが、叫びは長くは続かない。数秒後、痛みが引いていく。
不思議な感覚。左腕があった場所に、何かが満ちてくる。
光が、肩から流れ出す。それが、腕の形を作っていく。
魔法ではない。自然治癒でもない。何か、別の力が働いている。
十分後、光が消える。
慎吾の左腕が、そこにある。
普通の人間の腕だ。紋様はない。黒い光もない。ただ、普通の腕だ。
慎吾が左腕を見る。動かす。感覚がある。痛みもない。
だが、左腕の「声」はもうない。
静寂。
慎吾が空を見上げる。
「……行ったか」
その言葉が、静かに流れる。
亀裂が、さらに大きく開いている。遠くで、何か巨大なものが動く気配がある。
慎吾が呟く。
「……ありがとう」
涙が一筋、流れる。慎吾はそれを拭わない。ただ、流れるままにする。
風が吹く。瓦礫が音を立てる。
慎吾は一人、座っている。左腕は戻った。だが、声はもうない。
二年三ヶ月の旅が、終わった。
慎吾が立ち上がる。空を見上げる。
「さよなら」
その言葉を最後に、慎吾が歩き始める。
廃墟を出る。グリーンゾーンに向かう。
もう、魔物を狩る必要はない。もう、戦う必要はない。
ただ、生きればいい。
左腕が最後に言った言葉。「生きろ」。
慎吾は、それを守る。
歩き続ける。新しい世界へ。
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