第40話「水無瀬遥」
レッドゾーンの廃墟。
慎吾がC級魔物を倒した。犬型の魔物が地面に倒れ、動かなくなる。慎吾は杖を下ろし、深呼吸をする。
だが、今日の動きは鈍かった。普段なら一撃で仕留められる相手に、三発も魔法を使った。集中が切れている。
慎吾は魔物の死体を見る。そこから何かが放出されている。目には見えないが、感じる。空気が重くなる。
『……魔素が増えている』
左腕が呟く。
「……ああ」
慎吾が答える。声に、力がない。
『気になるのか』
「……分からない」
慎吾は自分でも、その答えが正直なのか分からなかった。気になる。だが、考えたくない。エマの紙がポケットにある。真実を知る手段がある。だが、知りたくない。
慎吾は廃墟の壁に寄りかかり、水を飲む。体が重い。疲労が、骨の奥まで染み込んでいる。
その時、気配を感じた。
慎吾が顔を上げる。誰かがいる。殺気ではない。だが、明確な敵意がある。慎吾は杖を握り直す。
廃墟の影から、人影が現れた。
女性だ。黒い服を着て、黒髪を長く伸ばしている。身長は百六十センチほど。顔立ちは整っているが、その目は鋭い。まるで刃物のような、冷たい光を帯びている。
女性が口を開く。
「柊慎吾」
慎吾が警戒する。
「……誰だ」
女性が一歩、近づく。
「覚えているか。第七班壊滅事件を」
その言葉で、慎吾の体が固まる。血の気が引く。第七班。あの日の記憶が、一気に蘇る。
女性が続ける。
「私の婚約者……橋本誠を、お前が殺した」
慎吾の中で、記憶が鮮明になる。橋本誠。あの日、血まみれになった顔。「柊! 俺だ! 分からないのか!」という声。そして、自分の手が、その首を締めた感覚。
「……橋本」
慎吾が、その名前を呟く。声が震えている。
女性が右腕の袖を上げる。そこには、黒い紋様が刻まれている。肩まで伸びた紋様は、慎吾の左腕と同じものだ。ただし、右腕に。
慎吾が息を呑む。
「まさか……お前も……」
女性が答える。
「ああ。お前と同じだ。魔物を右腕に憑依させた」
慎吾が問う。
「なぜ」
女性の目が、さらに鋭くなる。
「お前を殺すためだ」
女性が杖を構える。白い杖だ。その先端から、冷気が漏れ出す。周囲の空気が凍り始める。地面に、薄い氷が張る。
慎吾が後ずさる。
「……待て」
だが、女性は待たない。
「私の名は、水無瀬遥。覚えておけ」
遥が魔法を発動する。氷の槍が空中に現れ、慎吾に向かって飛ぶ。
慎吾が防御魔法を展開する。火の壁が氷の槍を溶かす。だが、次の攻撃がすぐに来る。
遥の魔法は、氷だけではない。雷も使う。氷の槍と雷の矢が、交互に慎吾を襲う。攻撃の間隔が短い。まるで、息をするように魔法を使っている。
慎吾は防御に徹する。反撃しない。できない。
遥の顔に、橋本の面影が見える。この人の大切な人を、自分が奪った。その事実が、慎吾の体を縛る。
遥が叫ぶ。
「なぜ戦わない!」
慎吾は答えない。ただ、防御を続ける。
遥の攻撃が激しくなる。氷の壁が地面から立ち上がり、慎吾を囲む。そして、その壁から無数の氷の刃が飛び出す。
慎吾が防御魔法を強化するが、一部の刃が体を切り裂く。血が流れる。
遥が再び叫ぶ。
「全力で来い! そして死ね!」
慎吾は動けない。橋本の顔が、頭から離れない。「柊! 俺だ!」という声が、耳に残っている。
『このままでは死ぬぞ』
左腕が警告する。
「……構わない」
慎吾が答える。
『俺が困る』
左腕の声が変わる。そして、慎吾の意志を無視して、左腕が体を動かし始める。
慎吾の体が勝手に動く。黒い炎が左腕から噴き出し、遥の氷の壁を砕く。炎は通常の火炎魔法とは違う。黒く、重く、まるで生き物のように動く。
遥が目を見開く。
「やっと……本気か」
遥も右腕の力を解放する。右腕から、白い光が溢れ出す。その光は冷たく、触れたものを凍らせる。
二つの力が激突する。黒い炎と白い氷。廃墟が揺れ、建物が崩れていく。
慎吾の体は、左腕に操られている。意識はあるが、動きを制御できない。まるで、自分の体を外から見ているような感覚だ。
遥の攻撃は正確で、容赦がない。氷の刃が慎吾の体を狙い、雷が地面を走る。だが、左腕はそれらを全て避け、反撃する。
戦いは互角だ。どちらも引かない。廃墟は戦場と化し、瓦礫が飛び散る。
その時、声が聞こえた。
「柊さん!」
陽菜だ。遠くから走ってくる。その後ろに、桐生もいる。
桐生が遥に向かって叫ぶ。
「やめろ!」
遥が二人を見る。攻撃の手が止まる。
「……邪魔だ」
桐生が前に出る。
「これ以上は危険だ。周囲に一般人が避難している」
桐生が指差す方向を、遥が見る。確かに、少し離れた場所に避難民の建物がある。戦闘の余波が届けば、建物が崩れるかもしれない。
遥が舌打ちする。
「……チッ」
遥が杖を下ろす。慎吾を見る。その目には、まだ殺意がある。
「次こそ、殺す。覚悟しておけ」
遥が去る。氷を足場にして、廃墟の上を飛ぶように移動していく。その姿が見えなくなると、左腕の介入が解除される。
慎吾の体から力が抜け、膝をつく。呼吸が荒い。体中が痛む。
陽菜が駆け寄る。
「柊さん! 大丈夫ですか」
慎吾が答える。
「……大丈夫だ」
だが、その声は弱々しい。桐生が慎吾の横に座る。
「……あの女は誰だ」
慎吾が遥が去った方向を見る。
「……橋本の婚約者だ」
桐生が眉をひそめる。
「橋本……第七班の」
慎吾が頷く。
「……俺が、殺した」
静寂が、三人を包む。陽菜は何も言えない。桐生も、言葉を失っている。
慎吾は遥が去った方向を見続ける。「橋本……すまない」という言葉が、喉まで出かかっている。だが、声にならない。
陽菜と桐生が慎吾を見る。その目には、心配と、何か別の感情が混ざっている。同情か。それとも、恐れか。
風が吹く。廃墟の中に、静けさだけが残る。
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