第18話「亀裂の予兆」
翌日、レッドゾーンで、俺は異変に気づいた。
魔物が、いない。
いつもなら、数時間歩けば数匹の魔物と遭遇する。だが、今日は違う。午前中を丸々歩いても、一匹も見つからない。
俺は立ち止まって、周囲を見回した。
静かすぎる。不気味なほどに、静かだ。風の音、自分の足音、それだけしか聞こえない。魔物の咆哮も、気配も、何もない。
左腕が呟く。
「ああ。魔物が、どこかへ移動している」
「どこへ」
「分からない。だが、一定の方向へ向かっている」
俺は魔物が向かっている方向を確認した。北だ。
「調査する」
俺は北へ向かった。
街を進む。崩壊したビル、錆びた車、草が生えた道路。変わらない光景だ。だが、何かが違う。空気が、重い。まるで、何かが起きる前の、嵐の前の静けさのような。
歩き続けると、遠くで光が見えた。
巨大な光だ。まるで太陽が地上に落ちたかのような、眩しい光。空間が歪んでいるように見える。
俺は慎重に光の方向へ向かった。足音を消して、ビルの影を利用しながら進む。
やがて、広場に出た。
そこに、「それ」があった。
巨大な亀裂。
以前、俺が見た亀裂よりも、はるかに大きい。高さは20メートル以上、いや、もっとあるかもしれない。幅も15メートルはある。まるで世界そのものが裂けているかのようで、亀裂の向こうからは不気味な光が漏れている。光は脈打つように明滅していて、まるで生き物のように見える。
亀裂の周囲には、空間の歪みがある。空気が揺らいでいて、まるで陽炎のように景色が歪んで見える。近づくと、耳鳴りがする。低い音が、頭の中に響く。
左腕が警告する。
「これは危険だ」
「何だ」
「新しい亀裂だ。しかも、強い魔物が出てくる」
「どれくらい強い」
「分からない。だが、S級の可能性もある」
S級。一年前、美咲を殺したあの魔物と同じ級だ。
俺は亀裂を見つめた。
そのとき、後ろで足音が聞こえた。
俺は振り返った。
桐生が立っていた。
桐生も俺を見て、少し驚いた顔をする。
「お前も、来たか」
桐生が言う。
「調査か」
「ああ」
桐生が亀裂に近づいてくる。俺の隣に立つ。
二人で、亀裂を見る。
沈黙が続いた。亀裂から漏れる光が、二人の顔を照らしている。桐生の顔には、深い皺が刻まれていて、疲労の色が見える。だが、その目は鋭く、まだ何かを守ろうとする意志が宿っている。
やがて、桐生が口を開いた。
「これは危険だ」
「ああ」
「報告しなければならない。避難を呼びかける」
桐生がそう言って、俺を見る。
「お前も、協力してくれ」
俺は少し考えた。
協力する。それは、人々と関わることだ。また、誰かを失うかもしれない。
だが、この亀裂から何かが出てくれば、グリーンゾーンも危険だ。長谷川も、陽菜も、冴も、皆が危険にさらされる。
俺は頷いた。
「…考える」
桐生が少し驚いた顔をする。だが、すぐに笑顔を見せた。
「それで十分だ」
桐生が亀裂から離れる。
「行くぞ。ここは危険だ」
俺も亀裂から離れた。
二人で広場を去る。
だが、俺は振り返って、亀裂をもう一度見た。亀裂は相変わらず脈打っている。光が強まったり弱まったりして、まるで何かが内側から押し出そうとしているかのようだ。空気が震えている。地面も、微かに揺れている。まるで巨大な心臓が地中に埋まっていて、その鼓動が地表に伝わってくるかのような感覚だ。
左腕が呟く。
「あの亀裂から、何が出てくるのか」
「分からない」
「戦うのか」
俺は答えなかった。
戦えるのか。あの亀裂から出てくる魔物と。
一年前、S級魔物と戦った。美咲が死んだ。俺が暴走した。集落が崩壊した。
また、同じことが起きるのか。
俺は歩き続けた。桐生と共に、広場を離れる。
グリーンゾーンへ向かう途中、桐生が口を開いた。
「お前、いくつだ」
「21だ」
「若いな」
桐生が少し笑う。
「俺が21のときは、まだ警察学校にいた。毎日訓練ばかりで、辛かったが、仲間がいた」
桐生が遠くを見る。
「今は、一人だ」
俺は何も言わなかった。
桐生は続けた。
「娘が生きていれば、お前くらいの年齢だった」
「そうか」
「娘は、優しい子だった。人を助けるのが好きだった。お前とは、違うな」
桐生が少し笑う。
「だが、お前も、本当は優しいんだろう」
俺は答えなかった。
桐生は何も言わなくなった。
二人で、静かに歩く。
夕方、俺はアパートに戻った。
部屋に入って、窓の外を見る。
遠くに、亀裂の光が見える。ここからでも見えるほど、巨大な光だ。街の向こうで、光が脈打っている。
左腕が呟く。
「戦うのか」
俺は左腕を見た。
「分からない」
「逃げるという選択もある」
「逃げても、追ってくる」
「そうか」
左腕は何も言わなくなった。
俺は窓の外を見続けた。
亀裂の光が、次第に強まっているように見える。まるで何かが近づいているかのように、光が激しく明滅している。空気が重い。息苦しい。胸が締め付けられるような感覚だ。
俺は窓を閉めた。
だが、不安は消えない。
何かが、来る。
それは確実だ。
俺はベッドに横になった。天井を見る。
明日、何が起きるのか。亀裂から、何が出てくるのか。俺は、戦えるのか。
分からない。
ただ、一つだけ分かることがある。
平和な日々は、もう終わる。
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