ミツバチたちの蜜月
白い清潔なクロスが敷かれた長いテーブルには、琥珀色に輝くローヤルゼリーで作られた料理が所狭しと並んでいる。しかし、豪華な食卓を前にして、玉座に座る女王はツンと顔を背けた。
「こんなもの、もううんざりよ」
クイーンの言葉に、侍従長を務めるナイトが困惑の表情を浮かべながら丁寧に諌言した。
「それはいけません。陛下には多くの子をお産みいただくため、ローヤルゼリーを召し上がっていただかねば」
「生まれてからずっと、こればかり食べてきたわ。たまには違うものを口にしたいの」
不機嫌そうにそっぽを向くクイーン。そんな彼女の切実な訴えに、ナイトの胸も痛んだ。女王が生まれた時から今日まで、三年もの長い間、同じ食事を続けている。確かに栄養価は高いが、味気ないローヤルゼリーばかりでは飽きるのも当然だろう。
しかし、コロニーの掟は絶対である。
「それでは、お食事を終えられましたら、デザートに野ばらの蜜をご用意いたしましょう」
ナイトの提案に、クイーンの瞳が輝きを取り戻す。野ばらの蜜と花粉は彼女の大好物であり、特にナイトから口移しで与えられるそれは、この退屈な日常に彩りを与えてくれる女王の何よりの楽しみでもあった。
「ナイト」
「はい」
「あなたがお相手してくださるから、わたくしはこの生活に耐えられるのよ」
クイーンの素直な言葉に、ナイトの心臓が早鐘を打つ。しかし、身分の違いを思い起こし、彼女は慌てて視線を逸らした。
「恐縮でございます」
クイーンはナイトの方へ歩み寄り、慈しむようにそっと彼女の頬に触れた。
「あなたの翅、とても美しいわね。透明で、光を浴びると虹のように輝いて……」
「あ、陛下……」
慌てて身を引くナイト。だが、クイーンの眼差しに見つめられると、胸の奥が甘く疼いた。
――
ここは「コロニー」と呼ばれる球状の城。
枯葉色の堅牢な城壁の内側には、蜜蝋で築かれた黄金色の宮殿が広がっている。六角形に区切られた無数の小部屋には、生まれたばかりの幼虫たちがひしめき合い、働き蜂たちが慌ただしく世話を焼いていた。
「メシ!ハラヘッタ!」
「ちょい待ちや、今持ってくるから」
女王には広い個室が与えられるが、働き蜂たちは皆で同じ部屋で共に過ごす。
狭苦しい生活ではあるものの、寒い冬の夜には身を寄せ合って暖を取り、同じ蜜の飯を食う者同士で絆を深める。それが彼女たち姉妹の習わしだった。
「お疲れさま、ルーク。今日の収穫はどうだった?」
夕方、採蜜から帰還した同期のルークに、ナイトが労いの言葉をかけた。ルークは陽気な口調で答えながら、背中の荷物を下ろす。
「ただいま!途中で蜘蛛の巣に絡まってさあ、いやはや、肝が冷えたよ。まあ、なんとか逃げ延びてこられたけどね。今日は大収穫だったぜ!」
ルークが持参した蜜壺からは、甘い花の香りが漂ってくる。レンゲ、クローバー、菜の花——様々な花の蜜がブレンドされた、スペシャルな自然の恵みそのものだった。
若い働き蜂たちは段階的に役割を変えていく。まず生まれたばかりの妹たちの世話や城の清掃管理から始まり、少し成長すると外敵からの警備を担当し、そして十分に育つと外界へ出て花の蜜を採取する仕事に従事する。
ナイトの任務は女王陛下の身辺警護と食事の準備、一方のルークは外へ出て貴重な蜜を持ち帰ることだった。
どちらも今の職務に満足していたが、ナイトの心の奥底では秘かな憧れが宿っていた。広大な外の世界——色とりどりの花々、燦々と降り注ぐ陽の光、頬を撫でる爽やかな風。夜、眠りにつく前に、そんな光景を思い描くのが彼女の密やかな楽しみでもあった。
「ねえ、ナイト」
「なに?」
「女王様と過ごす時間、どう?あの方のわがままを毎日聞くのも大変でしょ?」
ルークの何気ない質問に、ナイトは首を傾げる。
「別に普通だよ。お世話をするのが私の務めだから」
「そう?なんか最近さ、クイーンのナイトを見る目が変わった気がするから」
「そんなこと……」
否定しながらも、ナイトの胸は高鳴る。確かに最近、女王の眼差しは以前とは違っていた。何か特別な感情を込めて見つめてくるようになった気がするのだ。
思い違いか、それとも——。
ニヤニヤと何か言いたげなルークに対し、ナイトは誤魔化すようにコホンと咳払いした。
――
「クイーンはナイトを特別扱いしているよね」
「女王様はいいなあ。周りからお世話をされて、働かずに生きていけるのだから」
休憩時間、同僚のミツバチたちがそんな話題を持ち出した。彼女たちの会話にナイトが困惑していると、
「我々も女王も、種を存続させるための歯車に過ぎないよ」
隣の二段ベッドで本を読んでいたビショップが、話に加わってきた。読書家で哲学的思考を好む彼女は、他の個体とはどこか一線を画した考えを持っている。
「どういう意味?」とルーク。
「つまりね」ビショップは本を閉じて顔を向ける。「女王が産卵するのは本能。私たちが働くのも本能。すべては遺伝子に組み込まれたプログラムに従っているだけ。個人の意思なんて、実は存在しないのかもしれない」
同僚たちが頭の上にハテナを浮かべる中、ナイトはビショップの言葉にうんうんと共感した。
「でも」ナイトが口を開く。「もし本能だけなら、なぜ私は女王に特別な感情を抱くのだろう?」
「それは面白い問いだね」
ビショップが興味深そうに目を輝かせる。
「もしかすると、個人の感情こそが、プログラムを超越する唯一の道なのかもしれない」
個ではなく、集団として意思を持ち、種を守ることが最優先される。それは働き蜂も女王蜂も変わらない。
女王の使命は、ただひたすら死ぬまで子を産み続けることなのだから。
しかし——それでも心は、理屈を超えた何かを求めてしまう。
――
「ねえ、ナイト。わたくしのお願いを聞いてくださらない?」
「はい、何でございましょう、陛下」
クイーンは気まぐれにナイトを呼び出しては、他愛もない話をするのを好んだ。孤独な女王にとって、それが唯一の慰めでもあった。
「わたくし、一度だけでいいから外の世界を見てみたいの。もうかれこれ何年もこの暗い城から出ていないわ。お願い、連れて行ってくださらない?」
「それは……」
ナイトの胸に複雑な感情が去来した。女王の願いを叶えてあげたい気持ちはあるが、外界は危険に満ちている。スズメバチ、蜘蛛、鳥、熊、人間——様々な天敵が彼女たちを脅かす。
「陛下のお気持ちは分かります。ですが……」
「分かっているわ。危険なのでしょう?でも、ナイト」
クイーンがナイトの手を取る。
「わたくし、この寂しい玉座でいつも想像しているの。雲がどんな形をしているのか、風がどんな匂いを運んでくるのか……」
クイーンの夢想する姿を目にしたナイトは、思わず彼女を抱きしめそうになり、慌てて手を引いた。
もしも外出中に女王の身に何かあれば——。
そんな思案に暮れていた時、働き蜂の一匹が血相を変えて駆け込んできた。
「侵入者です!」
ナイトが巣の入り口へ急行すると、そこには体躯が二回りも大きなスズメバチが立ちはだかっていた。足元には胴体を噛みちぎられた仲間の亡骸が横たわり、侵入者は威嚇するように顎をカチカチと打ち鳴らす。若い働き蜂たちは恐怖から体をプルプルと震わせ怯えている。
「皆、下がって!」
ナイトが前に出ると、スズメバチの複眼がギラリと光った。
「弱く愚かなミツバチよ、お前たちを肉団子にした後、我が妹への贈り物にしよう」
「お断りします。ここは私たちの家です。あなたの好きにはさせません」
ナイトが毅然として答える。しかし、相手の巨大さに内心では震えていた。一対一では到底勝ち目がない。
その時——。
『わたくしの愛しい子たちよ、聞こえますか』
女王のフェロモンがコロニー全体に満ちた。力強く、芳しい香りが、働き蜂たちの心に勇気を与える。
『美しき戦士たちよ、恐れることはありません。我らが城を、我らが家族を守りなさい!』
気高き激励に鼓舞された兵士たちが一斉に飛び立つ。ナイトが先陣を切ってスズメバチにしがみつき、続いて仲間たちが団子状に敵を取り囲んだ。皆で羽を激しく震わせ、発する熱により、侵入者の動きを完全に封じ込める。
「くっ……こんな奴らに……」
スズメバチが苦悶の声を上げる。だが、ミツバチたちの結束は固い。誰一人として諦めない。
やがて、スズメバチは絶命した。
「スズメバチを倒した!」
「みんなでやっつけた!」
ミツバチたちはお互いの健闘を称え合い、小さな体で仲間を抱きしめていた。そんな微笑ましい光景を目を細めながら見守るナイト。その刹那、ズキリと痛みが走る。
勝利の代償は大きかった。何匹もの仲間が深い傷を負い、ナイト自身も翅に損傷を受けていたのだ。
勇敢なる働き蜂たちは称えられ、特に先頭に立って戦ったナイトは女王の前に呼び出された。
クイーンは心配そうにナイトの傷を見つめる。
「大丈夫?痛むでしょう?」
「お気遣いなく。これくらい……」
「馬鹿ね。我慢なんかしなくていいのよ」
クイーンが優しく傷口に触れる。彼女の温もりに、ナイトの心が溶けそうになった。
「さて、あなた方の武勲を称えて、褒美を授けましょう。何が望みですか?」
ナイトは一瞬躊躇したのち、長らく胸の奥に秘めていた想いを口にした。
「貴女様です」
「わたくし?」
思いがけない回答に固まってしまうクイーン。そんな彼女を前にしながらも、ナイトは意を決して言葉を紡いだ。
「貴女は皆の母であり、我らが女王です。けれど……本当は、私だけを見ていただきたかった。私だけのものになってほしいと、そんな身勝手な想いを抱いてしまうのです」
赤面しながら涙を浮かべるナイトにつられて、クイーンの頬も薔薇のように染まった。
「ナイト……」
「申し訳ありません。分かっているのです。私は働き蜂、貴女は女王。私たちには越えてはいけない線があることを」
重い沈黙が二匹の間に流れる。
しばらくして、クイーンがおもむろに答えた。
「役目を終えたとき——そのときには、わたくしの答えをお教えしましょう」
――
芽吹きの春が過ぎ、初夏の薫風が城内に流れ込む頃。
ナイトの身体は著しく衰えていた。あの日の激戦で力を使い果たしたのだろう。飛行速度は急激に落ち、体力も続かない。それでも、彼女は女王への奉仕を怠らなかった。
「ナイト、もう十分よ。休んで」
「いえ、まだ私にできることが……」
クイーンもまた、産卵数が減り、食欲も細くなっていた。三年間、休むことなく子を産み続けた身体は限界を迎えていたのだ。
そんな女王の容態を察した働き蜂たちは、密かに新たな王台の建設を開始した。蜜蝋を丁寧に固めて作られた特別な部屋で、選ばれた幼虫にローヤルゼリーを与え続ける。次代の女王を育成する、神聖な儀式の始まり。
数週間が過ぎた頃、新女王が羽化した。まだ若く美しい彼女は、すぐに働き蜂たちの支持を得た。新鮮な活力と生命力に満ち溢れ、既に多くの卵を産み始めている。
城の雰囲気も次第に変わっていった。働き蜂たちの関心は自然と新女王に向けられ、クイーンの元を訪れる者は日に日に減っていく。それは生物としての自然な営みであり、誰を責めることもできない流れだった。
ある日のこと、クイーンは一匹虚しく玉座に座っていた。かつては賑やかだった広間も今は静寂に包まれ、まるで彼女だけがこの空間に取り残されたかのようだ。
「陛下」
ナイトが現れ、いつものように食事を運んできた。
しかし、クイーンは首を振る。
「もういいのよ、ナイト。あなたも新しい女王にお仕えしなさい」
「私の忠誠は、最後まで陛下にあります」
ナイトの真摯な言葉に、クイーンの目が潤んだ。
「あなたという方は、全くとんだ変わり者ね……でも、ありがとう」
翌朝、新女王の戴冠式が執り行われることが発表された。働き蜂たちが総出で準備に取りかかる中、クイーンとナイトはこつこつと荷造りを始めていた。
広間に働き蜂たちが集い、新女王の戴冠式が粛々と執り行われる。金色の王冠が新たな統治者の頭上に載せられ、祝福の羽音が城内に響き渡った。
「さあ、新たな時代を築き上げましょう」
新女王が高らかにミツバチたちへ告げる。働き蜂たちは歓声を上げ、希望に満ちた表情で新しい君主を仰ぎ見た。
これからは、クイーンの広大な居室も黄金の玉座も、若く美しい新たな統治者のものだ。新たな女王が君臨した今、古い女王はこの城を去らねばならない。それが蜂の掟であった。
式典の最中、クイーンとナイトは目立たないように城の一角で最後の準備を整えていた。長年住み慣れた我が家を離れる寂しさはあったが、不思議と悲しさはない。
むしろ、新しい門出への期待すら感じられた。
「準備はよろしいですか」とナイト。
「ええ。でも……最後にお別れを言わせて」
クイーンは城の各所を回り、長年世話になった場所に別れと感謝を捧げた。産卵室、食堂、書斎——それぞれの場所に思い出が詰まっている。
そして最後に、新女王の元を訪れた。
「おめでとう。これからはあなたがこの城の主です。皆を大切になさってくださいね」
新女王は驚いたような表情を見せたが、やがて深々と頭を下げた。
「先代陛下……長い間、お疲れ様でした。陛下の築かれた平和を、必ずや引き継いでまいります」
二代の女王が穏やかに抱擁を交わす光景を目にした働き蜂たちも、粛然として見守った。
――
荷物を整えたクイーンが入り口に向かうと、そこには先に準備を終えたナイトが待っていた。
「行きましょうか」
「ええ」
手を取り合った二匹を、働き蜂たちが見送る中、彼女たちは巣から飛び立った。ルークやビショップも涙を浮かべながら手を振っている。これが二匹の最後の旅路であることを、誰もが理解していた。
「長い間、お疲れさまでした」
「お元気で!」
「ナイト!クイーンとお幸せに!」
城で働く若い働き蜂たちが、手を振って別れを告げる。声を詰まらせる者もいれば、精一杯の笑顔を見せる者もいた。
長い間暗い巣の中にいたクイーンは、久方ぶりの陽光に目を細めながら、ナイトと共に大空へ舞い上がった。
「まぶしい……でも、なんて綺麗なのかしら」
青い空に白い雲がぽっかりと浮かび、ゆっくり流れていく。風は頬を優しく撫でて、花々の香りを運んでくる。
「本当に美しいです。こんなに広い空があったなんて」
ナイトもまた、生まれて初めて味わう自由の感覚に胸を躍らせた。
それから彼女たちは様々な場所を旅した。
最初に訪れたのは、黄色い絨毯を敷き詰めたような菜の花畑だった。
「わあ……」
一面に広がる黄色い花の海に、クイーンとナイトは息を呑んだ。菜の花の蜜を吸いながら、その甘美で深い味わいにうっとりとため息を零す。
「城で食べていたものと全然違うのね。こんなに香り高くて、複雑な味がするなんて」
「はい、野生の花の蜜は格別です。季節や天候によっても味が変わりますから」
神社の手水舎では、清らかな水で水分補給しながら一休み。湿った苔の感触が気持ちいい。
石の表面に映る二匹の姿は、どこか幼く見える。
「水が冷たくて美味しいわ。城にいた時は、いつもローヤルゼリーばかりでしたもの」
林の中では梢の奏でる音楽に耳を傾け、木漏れ日のダンスを楽しんだ。様々な鳥の鳴き声が空気を震わせ、葉擦れの音が心地よいリズムを刻む。
「自然って、こんなにも豊かな表情を持っているのね」
「私も初めて知りました。外の世界は想像以上に美しいです」
そして最後に辿り着いたのは、ミツバチたちお気に入りの庭園だった。
そこには色とりどりのハーブや草花が咲き乱れ、林檎の花と野ばらの芳醇な甘い匂いが風に乗って漂ってきた。
「ここが……私たちの最後の場所ね」
「はい……」
クイーンが静かに呟き、ナイトもまた頷く。彼女たちの心に恐怖はなく、むしろ安らぎに満ちていた。
生け垣に咲く野ばらの淡いピンクの花弁に身を委ね、久しぶりに羽を思い切り伸ばす。新鮮な風が頬を撫で、二匹は青い空を見上げた。
「気持ちがいいですね」
「そうね、とっても落ち着くわ」
柔らかな陽射しと心地よい風に包まれ、クイーンがうとうとと瞼を閉じる。
「わたくし、これまで生きてきた中で、今が一番幸せよ」
「私もです。ようやく——本当の自由を手に入れることができました」
「ねえ、ナイト」
「はい」
「あの時の返事を、今ならできるわ」
クイーンがナイトを見つめる。彼女の瞳には、ナイトに対する深い愛が宿っていた。
「わたくしも、あなたを愛していたの。女王としてではなく、一匹の雌として……ずっと前から」
「クイーン……」
「役目を終えた今なら言える。わたくしは、あなただけのものよ。ねえ、あなたは?」
「私も、貴女だけのものです。今までも、そしてこれからも」
二匹は静かに抱き合った。互いの温かな体温が伝わり、重なり合う。長い間封印してきた想いが、やっと解き放たれた瞬間だった。
夕日が西の空に沈み始め、庭園を黄金色に染め上げる。
「わたくし、なんだか疲れてしまったわ。少しだけ眠らせて……お願い、どこへも行かないで」
「かしこまりました。ここにいますよ。永遠に、貴女のお傍に。……おやすみなさいませ」
クイーンが深い眠りにつくのを見届けると、ナイトもまた、静かに瞼を閉じた。野ばらの花弁が、まるで祝福するかのように、二匹の上でそっと舞い散る。
こうして約束を果たした二匹は、花の芳香に包まれながら、安らかに生涯の幕を下ろしたのであった。
――
やがて、二匹の亡骸は花々の養分となり、美しい庭園の一部となった。彼女たちが最後に見た野ばらは、翌年もまた可憐に咲き誇ったという。




