『渡月橋ノ影』
嵐山。
秋の観光客で賑わう夕暮れ、渡月橋のたもとに立ち尽くす女がいた。
細身の体、ベージュのコート、顔を伏せたまま微動だにしない。
通行人の誰もがちらりと視界に入れ、
だがすぐに忘れていくような、不思議な存在感。
写真家の中尾仁志はその日、橋の上から夕陽と紅葉のスナップを撮っていた。
ふと、レンズ越しに違和感を覚える。
「……あれ? 今、橋の下に誰か立ってたか?」
確認しようとカメラを戻すと、そこには何もいない。
だが、家に帰ってPCで拡大してみると、確かに写っていた。
川の中ほどに、白い影――着物の裾のようなものが、ゆらりと揺れていた。
翌日、仁志は再び現地へ向かった。
あの影が気になって眠れなかったのだ。
橋の下、河原に降りようとすると、そこに昨日のコートの女がいた。
今日も顔を伏せて、じっと川を見つめている。
彼女の視線の先には、なぜか黒ずんだ石がひとつ、川の流れに逆らうように沈んでいる。
「すみません、ここで何か……」
声をかけた瞬間、彼女が顔を上げた。
……顔が、なかった。
いや、顔の位置”に何か黒いものが巻きついて、空洞のようになっていた。
川がざわめき、風が吹いた。
振り返ったとき、女の姿は消えていた。
怯えた仁志は、地元の資料館を訪ね、古い事故や事件を調べた。
そして見つけた、ある記事。
「昭和49年、渡月橋付近にて観光客2名水死。
内1名の女性は橋のたもとで突然川へ飛び込み助けようとした男性も流される。女性の遺体は未発見。」
名前は「水原美加子」。
彼女は旅行中、恋人と口論の末、橋から身を投げたという。
それ以降、秋の夕暮れに川面に立つ女の噂が相次ぎ、
地元では“影橋”と呼ばれていた。
それから数日。
仁志のスマホには、撮った覚えのない写真が増えていた。
すべて、渡月橋。
すべて、同じ構図。
すべて、橋のたもとに立つ“顔のない女”が写っていた。
削除しても、毎晩増える。
そしてある朝、目覚めるとスマホのロック画面に通知がひとつ。
「写真が追加されました。」
開くと、自分の寝顔が写っていた。
……その後ろ、窓の外に渡月橋が見えていた。
そして、彼のSNS最後の投稿がこれだった。
「気づいた。渡月橋に立っているのは、
あの女じゃない。
……俺の影だ。あの影の中に、今の俺がいる」
以後、仁志の行方は不明。
だが秋になると、渡月橋の夕暮れに、カメラを持った男の影がもうひとつ、欄干の外側に揺れているという。