『西院の怪異譚――賽の河原に還る夜』
風の音が、まるで死者の嘆き声のように耳を打つ夜だった。
右京区・西院。昼間は阪急電車の駅前が賑やかに人であふれるが、夜ともなれば雰囲気は一変する。煌々と輝いていた居酒屋のネオンは消え、残る車のヘッドライトだけが、ぬらりと路面に光の尾を引いて過ぎていく。ひとたび路地に足を踏み入れれば、その喧騒もあっけなく切り落とされ、音という音が一斉に遠ざかるような、そんな沈黙が支配する。
その一角、高山寺の裏手。
古ぼけた木々に囲まれるように、ぽつんと立つ石碑があった。
〈西院之河原 旧跡〉
ふりがなで「さいのかわら」と添えられたその文字は、雨風にさらされながらも、まるで怨念を刻むかのように鮮やかだった。
街灯の光は不自然なほどそこにだけ降り注ぎ、他のすべてを闇に沈めていた。
夜の十二時を回ったころ、一人の青年がその前に立っていた。
佐伯潤。都市伝説研究サークルの学生で、民俗信仰や怪異のルーツを調べることを趣味とする、少し変わった青年だった。
「……本当に、ここだったのか……賽の河原……」
彼は思わず声に出していた。目の前の石碑は、ネットにしか載っていなかった伝説の場所だ。
スマートフォンのライトで足元を照らすと、供えられた花がしおれ、湿った線香の燃え残りが風に舞っていた。
その瞬間――風が止まった。
代わりに響いたのは、カツ、カツ、カツ……と、小石が積み重なるような不気味な音。
佐伯は背筋が凍る思いで周囲を見渡した。光を向けた先、薄暗い境内の奥に、誰かの姿があった。
小さな女の子。
七歳ほどの、白い着物姿の少女が、黙々と地面に小石を積んでいた。
彼女は、何も話さない。笑いもしない。ただ、手元の石をひたすらに積み上げていた。
そして、その背後。
黒い影が、少女の背からにゅるりと伸びていた。まるで霧のようで、まるで人の手のようで……
その“黒い手”が、積み上げた石を容赦なく崩していく。
崩されるたびに少女は無言で積み直す。壊して、積んで、また壊されて、また積んで――
その無限の輪に、佐伯は息を呑んだ。思考ではなく、本能が危険を告げていた。
「な、なんだ……これは……」
彼は震える手でスマホのライトを少女に向けた。その瞬間、黒い手が動きを止め、ぐるりと彼の方を“見た”。
否、“その奥”にいた何かが、佐伯を見据えた。
闇の中から、ぬっと浮かび上がる赤い目。口は裂け、笑っていた。
「や、やめろぉおっ!!」
佐伯は叫び、後ずさりながら地面に尻をついた。
次に目を開けた時、彼の周囲の景色は一変していた。
――石畳の河原。赤い空。日も月もない、光のない世界。
そこには、数えきれぬほどの子供たちがいた。
みな小石を積んでいた。誰も声を出さない。
そして、その傍らには……黒い鬼たちがいた。
不気味な笑みを浮かべ、子供たちの石塔を崩していく。楽しげに、無慈悲に。
佐伯は叫びたくても声が出なかった。喉が凍ったように固まり、目の前の光景をただ受け入れるしかなかった。
(ここは……ここが、賽の河原……!?)
誰かが笑った。だが、誰も笑ってはいなかった。
ただひとつ、遠くに小さな光があった。
それは、一体の地蔵だった。
赤い前掛けと帽子をまとい、穏やかな顔をしたその地蔵が、佐伯を見ていた。
……いや、見守っていた。
光が地蔵から差し、佐伯の足元を包んだ。
気づけば彼は、元の西院・高山寺の前に戻っていた。
息が白く、夜風が頬を撫でていた。
足元に、赤いよだれかけが落ちていた。
彼はそれをそっと拾い上げる。
その布の温もりが、現実へ戻された証のように、彼の手をじんわりと温めていた。
……西院。
そこは、都の西の果て。あの世とこの世の境界。
今もなお、子らの声なき声が、風に混じって響いているのかもしれない。




