『縁切り神社の乳母車』
その日、僕は友人のすすめで、京都・東山にある「縁切り菊野大明神」を訪れた。
午後三時を過ぎていたが、空はどこか薄暗く、陽の光は杉木立に遮られて地面には届いていなかった。
鳥居をくぐった瞬間、空気の温度がひとつ下がったように感じた。
神社の境内には、参拝者の気配はない。
静まり返った空間に、絵馬だけがずらりと吊るされていた。
「別れたい」「消えてほしい」「殺したい」
黒々とした筆文字が、無数の絵馬に刻まれている。
すでに雨に濡れ、墨が滲んで読めなくなったものもあるが、それがかえって怨念のような気配を漂わせていた。
僕は無言でその列を見つめ、背筋を撫でるような寒気に襟を立てた。
恋人と別れたばかりで、どうしようもない感情のやり場を探していた。
気がつくと、手を合わせていた。
何かを願ったつもりはなかったが、頭の奥がじんじんと痛んだ。
参拝を終え、鳥居に向かって歩き始めたときだった。
──ギィ……ギィ……。
木製の車輪が軋むような音が、境内の静けさを裂いた。
音の方を振り返ると、鳥居の脇、鬱蒼とした竹の陰から、ひとりの女が現れた。
女は二十代後半くらいに見えた。
真夏の暑さにもかかわらず、白いレースの長袖ブラウスに、黒のロングスカートという場違いな服装。
その肌は病的に白く、まるで蝋細工のように生気がなかった。
目は大きく見開かれているのに、どこにも焦点が合っていない。
唇は青く、血の気を失っていた。
そして、彼女が押している乳母車。
そこには、生きた赤ん坊ではなく──人形が座っていた。
髪の毛は半分抜け、残された束は濡れたようにへばりついている。
着物は古びてほころび、片目がえぐれたように失われていた。
その顔は、どこか見覚えがあるような……だが思い出せない。
僕は息を飲み、足が自然と後ずさった。
その瞬間、女の目と僕の視線がぶつかった。
「……っ」
声にならない呻きが喉をかすめる。
彼女は微動だにせず、まるで像のようにその場に佇み、じっとこちらを見つめている。
冷たい視線だった。
それは怒りでも悲しみでもなく、ただ一言──“認識”だった。
見られたことを、向こうも見たという、それだけの視線。
僕は石段を駆け下りた。
足元はぐらつき、何度も転びそうになった。
けれど背後から聞こえる、あの──ギィ……ギィ……という音が、背中を押すように僕を急かした。
途中でどうしても気になって、振り返った。
女は、まだそこにいた。
境内の中央、木漏れ日の差さぬ場所で、乳母車に手をかけたままじっと立ち尽くしていた。
その視線は、今も脳裏に焼きついて離れない。
「お前も縁を切りたいのだろう?」
──そんな言葉が、聞こえた気がした。
それから数日後、元恋人が交通事故で亡くなった。
ブレーキ痕も残らない、不可解な事故だった。
知らせを受けた瞬間、あの人形の顔が、頭に浮かんだ。
そのとき確かに、にやりと笑ったのだ。
えぐれた片目の奥で、僕を見ていた。
まるで「願いは、叶えた」と告げるように。




