表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/67

『尼さん』

 ちょうど、二年くらい前の夏の出来事だったと思います。


 その当時、私は子供に手がかからなくなったのと、夫の仕事の方があまり芳しくなかったので家計を少しでも助けたい気持ちからパートタイムの仕事をしていました。


 パートの仕事内容は結婚する前まで勤めていた会社のつてを頼ったものでして、その職場で取った資格を活かす形での書道に関するものでした。


 具体的に言いますと通信講座の受講生から送られてきた書の添削や郵便ハガキの代筆とかいったものが主な仕事で在宅で出来るものでした。


 また、私の住んでいる京都という街の土地柄から映画の撮影所からの仕事も時々舞い込んだりしてきました。


 そちらの方は映画やドラマの小物製作のお手伝いで主に時代劇関連のものです。


 撮影所での仕事は現地まで出向くことになるものの、その分手当の方がよくてそちらでの仕事が多い月なんかは十分に家計の助けになって喜んでおりました。


 それにも増してテレビや映画などで実際に私が手がけた武家屋敷の表札や手紙の文なんかが映像として流れてくると、それはもう何とも言えないやりがいみたいなものを感じて嬉しい気分になったものです。


 それと、撮影所での仕事は映像を撮るという特殊な世界の為に普段では関わりあうことのないような様々な職種の方達と知り合うきっかけになりました。


 人脈というと些か大げさになるかもしれませんが性別や年齢を問わずに色々な方達とお近づきになれたのです。


 その事は私のような前職場のコネで仕事をもらってるものとしては次の務めにつながる非常にありがたいものでした。


 現にここで知り合った何人かの方からは冠婚葬祭に関する挨拶状の代筆やご子息の文字添削指導などの新たな仕事をいただいておりました。


 そんな風にしてお知り合いになった人達の中に、お寺の住職さんがおられまして、その方からありがたい仕事の依頼があったわけです。 


 お寺での仕事内容は、檀家さんに配るための冊子作りのお手伝いで、私が行うのは経文を書く事。つまり写経です。


 般若心経を黙々と原紙に書いていくという地味な仕事なのですが、経文の一語一語の漢字を書いていると、非常に神経が研ぎ澄まされた感じがして単純な作業ながら充実した時間を過ごすことが出来るので、私はこの手の仕事が好きでした。


 元々、書道の道を心ざしたきっかけも物言わぬ文字と長時間向き合っておりますと、なんだが字の方が語りかけてくるような気がして、なんとも言えない情緒に浸りながら仕事が出来るわけなんです。


 そう言った訳でその日も住職さんに八畳ほどの和室に案内されました。


 和室に入って仕事に取り掛かろうとした時に、住職さんが「ちょっと身内に不幸がありましてね。隣の部屋で仏さんを安置してますもので線香臭いかも知れないですけどお香だと思って気になさらないでくださいな。それと何かありましたら隣の部屋でお経を上げてますので声をかけてください」


 と気を遣っていただきました。


 確かに部屋の中は線香の香りが少々漂っていましたが、お寺での仕事ですのでさほど気になる事柄でもないと思った次第です。


 それで早速に仕事に勤しんでいたのですけど、写経を初めて三十分も経たない内にいつものように集中して作業が出来ないといいますか、なんだか肩のところが重たく感じだしたのです。


 最初は「疲れてるのかなぁ?」などと、安易に思ったのですが、すぐに悪寒と共に言い知れぬ不安感に襲われ始めたのです。


 そのうちに正座しながら作業するのが困難になり、私は我慢できなく畳の上に仰向けに寝そべってしまったのです。


 すると、突然に「うー」という人が苦しむような声に似た耳鳴りが聞こえだし、頭上に見える天井がぐるぐると回転しているような眩暈が起こりだしたのです。


 それと同時に身体に力が入らなくなりだし気が遠くなってきました。


 このままでは意識をなくして失神してしまうのではないかと思ったので、助けを呼ぼうと声を出そうとしたのですが、なぜだか声が出ません。


 仕方がないので、なんとか住職さんに助けを求めるべく隣の部屋に這いながら向かいました。


 いわゆる匍匐前進するような形で数メートル先の襖に目をやると、襖が少し開いており、その隙間から強い視線を感じました。


 その視線の主を住職さんだと思った私は、声を上げて身体の不調を訴えられないものの内心「助かった」と思ったものです。


 きっと住職さんなら、這いながら襖に向かっている自分の姿を見たら何かあったに違いないと思い助けの手を差し伸べてくれるのに違いないと思ったからです。


 しかし、実際は「どうされました? 大丈夫ですか」みたいな事態の好転にはなりませんでした。



 なぜなら、その視線の主が住職さんではなかったからなのです。


 私が勝手に住職さんだと思っていた視線の主は目が合うと、襖の隙間から見える口元が微かに動き一言呟いたのです。


「死ねばいいのに」と……。


 その冷たく残酷に言い放たれた声は声質は低いものの男性の発するトーンではなく明らかに女性のものでした。


 そして、その声を聞いた私は本能的にこの場から逃げなくては声の主に「殺される」と思ったのです。


 しかし、身体の方は金縛りにあったか如く全く動きません。


「怖い、怖いわ。誰か助けてー」と心の中で叫ぶものの一向に声は出ませんでした。


 首から肩回りの肩甲骨あたりまで重苦しく悪寒が一層激しく感じられ、「うー」という耳鳴りと回転性の眩暈で私は軽いパニック状態に陥ってしまっていました。


 そのような状況の中、襖の隙間から見える視線の眼孔は鋭く感じられ、まるで私を睨みつけるような感じでした。


 そして、視線の主の口元が再度動き、今度は「苦しめ、死ね、苦しめー、死ねー」と呪詛の言葉に変わっていたのです。


「いやぁー死にたくない。誰か助けてー」と、この場から逃げようとするのですが、体は動かないし、声も出ません。


 このままでは、声の主に何をされるか分かったものではないと恐怖に慄いていると、襖がゆっくりと開きだし、声の主の姿が現れだしたのです。


 その姿は、私の思っていた通り女性でした。


 ですが女性の頭髪は綺麗に剃髪していて尼さんのようでした。


 そして顔色は青白く血色がありません。


 目は見開いており白目の部分が真っ赤に充血していましたし、身体の右半分の手足の関節が外側に奇妙に曲がっていました。「苦しめー、死ねー」と先ほどから連呼していた口元からは吐血したかのような血糊がでており、女性が来ている白い浴衣のような衣服に飛び散って赤く染まっていました。


 そんな生気の欠片を感じられない異様な姿の女性が私に向かって呪詛の言葉を吐きながらゆっくりと迫ってくるものですから、動かない身体でありながら心臓の鼓動だけは激しく脈打ち今にも心臓が止まりそうな気がしました。


「いやぁー来ないでー」と心の中で祈っても、その女はどんどん近ずき、気がつくと私の正面に血色のない目を見開いた顔が浮かんでおります。


 そして女は額がくっつくぐらいまでに顔を寄せると「ともせよ」という意味不明な言葉を発して私の首根っこを掴むと隣の部屋に向かって引きずり出したのです。


 首を掴んだ女の手の感触は氷のように冷たく、爪をたてているのか頚椎に激しく食い込んきて鈍痛が走ります。


 そんな私の苦痛など気にもせずに女はゆっくりと隣の部屋に向かって体を引きずっていきました。

「ザァー、ズゥー」と畳の上を強引に体を引きずる嫌な音が鼓膜に聞こえてくるだけで、その場に踏ん張ることさえ出来ない自分の無力さに涙が出そうでした。


「ザァー、ズゥー」と体と畳がこすれる音が響く中、「ズリズリ」という嫌な濁音に摩擦音が変化した時、私の体は隣の部屋とを仕切ってる襖の引き戸の木枠を乗り越えて隣室に引きずり込まれた事を意味しておりました。


 女が私の首根っこを強引に掴んで引きずり込んだ部屋の中の様子は、天井に付けられた提灯型の照明器具が揺れながらチカチカと点いたり消えたりしていてただならぬ異様な雰囲気でした。


 部屋の中央付近には布団が敷かれていて掛け布団の乱れ具合から先ほどまでそこで誰かが寝ていたであろう形跡を感じました。


 そして、その布団の枕元には住職さんが座っておられたのです。


 しかし、そこにいた住職さんは部屋に案内してくれた時とは違い、顔をぶるぶると痙攣させ目の焦点はどこにあってるかは分からない状態で時折、白目を剝いていて半狂乱状態に見えました。


 しかも、胡坐をかきながら体を上下に激しく揺らしながら一心不乱にお経を唱えて姿は尋常ではありません。


 とてもじゃないですが、私をひきずってる女を止めてくれるような状態ではないのは一目瞭然ですので、いよいよ「この女に殺されるかもしれない……」と覚悟を決め始めた次第でした。


 そんな私の心の中を見抜いたのか、女は引きずるのを一瞬やめると、「ニヤリ」とした表情を浮かべ敷布団の真横で首を絞め始めたのです。


 ダメ元だと思いながら、枕元にいる住職さんに目をやると、口からよだれを流しながら「うばぁばぁばぁー」ともはやお経でもなんでもない意味不明な戯言を言ってる姿を目にした時に諦めがつきました。


 そんな中で、女の指がリンパあたりの頸椎に食い込み息ができない苦しみが襲ってきだすと、いよいよ死を意識しだした感情がこみあげてきて瞳から涙が出てきます。


「なんで、私が……一体何したっていうのよ。これから、旦那や子供たちは私がいなくても」とか様々なことが走馬灯のように押し寄せてきました。


 そして、何故だか分からないのですが、写経していた経文を心の中で唱えだしたのです。「魔訶般若波羅蜜多心経」。経を唱え出すと絞められている苦しみが遠のいていき、快楽とはいえないものの心地よい気分に変わっていったのです。「あぁ、これが死ぬってこと」だと悟りだしたと同時に意識が無くなっていきました。


「奥さん、大丈夫ですか? どうされました?」


 気が付くと、私の体を揺すりながら声をかけている住職さんの顔が映りました。


「奥さんの姿が作業されてた部屋にいないので、探したらここで倒れておられたのですよ」


 


 住職さんは、心配そうな顔を浮かべながら、私に事の成り行きを話されました。


 私は信じてもらえないと思いつつも先ほど起こった怪現象というか女に殺されそうになった旨を話しました。


「確かに、奥さんが倒れてた部屋には先日亡くなった仏さんを安置してましたけど……きっと夢でも見られていたのですよ」


 住職さんの話では、住職さんは私が倒れていた部屋にはずっといたそうなのですが、尿意を催したので用足しをして戻ってきたら私が倒れていたそうです。


 ですから、住職さんに意識を戻してもらった部屋には布団に寝かされた顔に白い布がかけられている仏さんがいたわけなのです。


 私は住職さんの言うように夢だと思いたいものの、その白い布がかけられた遺体が「あの女」なのか確認したい衝動にかられました。私は意を決して住職さんに許可を貰うと、確認の為に遺体にかけられた白い布をそっと外しました。


 そこには……。


 今にも動き出しそうな、目を「カッ」と見開いたあの女がいたのです。


 咄嗟に住職さんは「あれ、おかしいなぁ」と呟きながら、見開いた目を閉じさせようと手をまぶたにかけたのですが、死後硬直しているのか目を閉じなかったので途中で諦めて白い布を被せてしまわれました。


「やっぱり、夢なんかじゃない」と遺体の顔を確認して確信した私は、一刻も早くこの場所から立ち去りたい気分になり、住職さんに仕事の途中ではあるものの、体調不良を理由に帰宅させてもらうことにしたのです。


 お寺から自宅までは徒歩で半時間ほどの距離でしたので、普段なら歩いて帰宅するのですが、その日は意識を失ったこともあり立っているのがやっとなほど気分がすぐれないのでタクシーを呼んでもらい帰ることにしたのです。


 タクシーに乗ってる間に、学校から帰宅してるであろう息子に携帯で連絡を取り、厄除けの塩を用意してもらいました。


 自宅に戻ると、早速に息子に用意してもらった塩を身体にかけてもらい、玄関先に盛り塩をして厄除けをしたのですが、リビングで休んでいてもお寺で作業していた時のように、天井が回ってるような眩暈と肩口から肩甲骨にかけて重苦しさが襲ってきました。


 そして、またしても「うぅー」という耳鳴りが聞こえ出してきたのです。


 このままでは、またしてもお寺で起こったような事が起こるのではと思い出した時、自宅の電話が鳴りました。


 身体が金縛りになりそうになっていただけに、その電話のベルの音で金縛りが一瞬解けたようで、なんとか電話に出ることが出来ました。


 電話の相手は、以前に太秦映画村で知り合いになった比叡山延暦寺にゆかりのあるお寺の僧侶さんでした。


 電話に出るなり僧侶さんは「あんた、いま、気分悪いやろー」と症状不明の体調不良に苦しんでいた私の状態を言い当てられたのです。


「はい、気分が悪いです」と眩暈や肩の重み、耳鳴りを僧侶さんにお伝えしますと、「昨日、あんたの夢みたんや、ほんで怖いと思うやろうけど、あんたは尼さんの悪霊に取り憑かれてるわ。このままやったら不幸なことになるからな――」


 僧侶さんの話では、生前は徳の高かった尼さんが不慮の事故に遭いこの世に強い未練を残したまま亡くなったことにより、たまたま波長のあった私に自分が成仏できない寂しさや恨めしい気持ちから取りつこうとしていたのだそうです。


 このまま放っておくと恐らく取り殺されるので除霊しないといけないという内容の電話でした。



 そして、除霊は早くした方がいいということで、親切にもその日のうちに滋賀県からやってきてくださりお祓いをしていただきました。


 僧侶さんに除霊をしていただいたら、それまであった身体の不調が嘘のように綺麗に取れて本当に感謝した次第であります。


 しかし、今までにこのような体験をしたことのない私にとっては誠に怖ろしくも不思議な出来事だったものですからお話した次第であります。



 それと、後日談になりますが、尼さんに襲われたお寺の住職さんは、その出来事があってから三か月後に交通事故にあって亡くなられております……。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ