『神の蔵』
松尾大社の裏手、鬱蒼とした森の奥に、古びた土蔵がひっそりと建っている。
今では誰も近づかないが、かつては神事のために使われていたという。
だが、神職たちはその建物について多くを語らない。
ただひとつ、「決して扉を開けるな」とだけ言い残している。
吉井大悟、三十六歳。
フリーの民俗学研究家。
神道系の文献に興味を持ち、京都の神社を巡っていた。
彼が松尾大社に興味を持ったのは、「封じ神」という記述を見つけたからだ。
それは神を“祀る”のではなく、“鎮める”という意味。
祟る力を御神体として封じ込めた――つまり、怨霊を神格化したということに他ならない。
「神とは、本当に“善なるもの”なのか」
そんな問いを持っていた彼にとって、松尾大社は格好の取材対象だった。
ある晩、大悟は密かに社務所を訪ね、古くから奉職している神職・権藤に話を聞いた。
権藤はしばらく口を閉ざしていたが、やがて静かに語り始めた。
「むかし、この山に“紅”という女がいてな。
祟り神を鎮めるため、酒と一緒に……生きたまま封じられた」
「封じたのは、松尾の神やない。
人間の都合や。――それがいちばん、恐ろしいんや」
その女の魂は、今もなお蔵の中で“醸されて”いるという。
月のない丑三つ時、森の奥から酒の香りと女の嗤い声が漂う夜があるのだと。
禁忌に魅せられた学者にありがちな結末と言うべきか。
大悟は、その土蔵を見に行くことを決意した。
本殿の裏手に続く獣道を進み、苔むした鳥居をくぐると、土蔵が姿を現した。
時代に取り残されたような黒ずんだ木の扉。
そこに結界のように打たれているのは、酒造りで使う「注連縄」と「榊」だった。
だが、大悟は気づかない。
そこに貼られていた「封印札」が、すでに何者かの手によって破られていたことに。
扉を開けると、蔵の中には一本の巨大な酒甕があった。
中は空洞のはずなのに、部屋には湿った酒の香りが満ちていた。
甕に近づいたそのとき――
ぽたり。
天井から一滴、酒のような液体が大悟の頬に落ちた。
見上げると、天井には、女の顔が張りついていた。
血のように赤い唇。
溶けるような笑み。
長く濡れた髪が、しずくとなって落ちていた。
「呑んでくれるんやね……? わたしの、おさけ」
甕の中から、白い腕がにゅっと伸びて、大悟の首を掴んだ。
翌朝。
社務所の神職たちが、何かに気づいたように森へ向かった。
土蔵の前に、大悟の録音機だけが落ちていた。
再生すると、ノイズ混じりの声が響いてくる。
「……神じゃ、ない。あれは、あれは……」
「人間が……生み出した……呪い……」
最後に、女性の笑い声と共に、酒を注ぐような音が響いていた。
その日から、松尾大社では再び「封じの儀」が執り行われるようになった。
若い神職が小さくつぶやく。
「また誰か、蔵を開けよったんやな……」
神と人、祀るものと祟られるもの。
その境界は、思った以上に薄く、脆い。
松尾の神が鎮めていたものは、
果たして本当に“神”だったのか――
それとも、
怒り続ける、女の怨念だったのか。