『戻り路は、もうない』
私は、六道珍皇寺に“呼ばれた”のだと思っている。
その理由に心当たりがあるとすれば、兄の遺骨をこの寺に納めるかどうか迷っていたからだ。
兄・陽一は交通事故で突然逝って、何の用意もなかった。
私は彼の希望を知らないまま、ただ「京都が好きだった」というだけで、ここを選ぼうとしていた。
けれど、初七日を過ぎた夜から、夢を見るようになった。
石畳の道。
向こうから、白装束の男が歩いてくる。
けれどその顔は、兄ではない。
顔が、ない。
夢の中で私は、いつも六道珍皇寺の門をくぐっていた。
現実の六道珍皇寺は、思ったよりもこぢんまりしていた。
けれど境内の空気は、なぜだか重い。
夏のはずなのに、涼しさではなく――「冷たさ」が立ち込めている。
本堂の隅に、噂に聞いていた“井戸”があった。
小野篁が、冥界に通ったという「冥土通いの井戸」。
柵越しに覗いたその瞬間、
視界がぐにゃりとゆがんだ。
「お兄さん、おるやん」
背後から声がして振り返る。
そこには誰もいなかった。
けれど、私のスマホの通知に、1件のボイスメッセージが届いていた。
再生すると、男の声が言う。
「ゆき、戻ってきてくれたんやな……
もう一度だけ、話せる思てた……
井戸の下で、待ってる」
兄の声だった。
涙が止まらなかった。
でも、どこかで違和感もあった。
兄は、関西弁じゃなかった。
その晩、私はまた夢を見た。
六道の辻。
石畳の向こうに、また白装束の男が立っている。
けれど、今日は違った。
顔があった。兄の顔だった。
「ゆき」と呼ばれて、私は近づいた。
兄の手は、氷のように冷たく、掴んだ瞬間――
背後から、誰かが私の肩を強く引いた。
「アカン。そっちは“戻れへん道”や」
京都弁。
それは、小野篁のような装束の男だった。
彼は兄を見て、静かに言った。
「もうこの者は、声しか残ってへん。
冥府に執着した魂は、似た声で人を引きずる。
それが“六道の声”や。
聞いたら、帰れん」
目が覚めると、私は本堂の石畳の上で寝ていた。
手にはスマホ。画面には「音声ファイルなし」の表示。
ログも履歴も消えていた。
通知欄には、消えないメッセージが一つだけ浮かんでいた。
「井戸の底で、また待ってる」
今でも、通知は消えないままだ。
そして今日も、私は思う。
あの声は――本当に兄だったのか。
それとも、誰かの声を借りた何かだったのか。