『伏見稲荷の赤ノ回廊』
主人公:マチルダ・シュライバー(ドイツ出身、28歳)
日本文化に興味を持ち、京都を旅していた。
伏見稲荷大社には、ガイドブックで“美しい鳥居の回廊”と紹介されていた。
ある午後、マチルダは一人で稲荷山の参道を歩き始めた。
観光客は多いはずだったが、千本鳥居の中に入った瞬間、あたりの音が消えた。
鳥の声も、人の足音も聞こえない。
スマートフォンのGPSが狂い、地図アプリがぐるぐると回る。
だが彼女は、「そういうものか」と思って前に進んでしまった。
しばらく歩くと、ある鳥居の下に小さな封筒が落ちていた。
手紙のようだった。開いてみると、日本語でこう書かれていた:
「引き返すな。振り向くな。赤を見たら止まれ。」
意味はわからなかったが、なぜかその文字が真っ黒ににじんでいた。
不気味に思ったマチルダは、封筒をその場に置き、先へと進んだ。
すると、次の角を曲がった瞬間、
彼女の目の前に、真っ赤な鳥居が一対だけ、逆向きに建てられているのを見た。
その鳥居をくぐった瞬間、世界の色が変わった。
朱塗りの鳥居が、血のような濃赤に変わり、
足元の石段は、いつの間にか湿って苔むしている。
そして、前方に人影を見つけた。
着物姿の女。
だが、その足が地についていない。
浮いているのではない。
着物の裾から下が、存在していなかった。
彼女はマチルダに顔を向けた。
顔には、狐面が貼りついたまま、はがれなかった。
逃げようとしたが、来た道が見当たらない。
GPSは真っ赤な画面を表示し、「NO EXIT」の文字。
息が苦しくなる。
鳥居をくぐるたびに、世界がねじれるように変わっていく。
後ろに戻ろうと振り返ると――
鳥居の裏側に、自分の影が立っていた。
影はマチルダに似ていたが、顔がなかった。
彼女は必死に走った。
何度も階段を転びながら、ようやく広い参道へ出る。
そこには観光客が戻っていた。
鳥の声、売店のざわめき、下界の匂い。
安堵して振り返ると、さっき通った鳥居が見えた。
だが、その一番上の梁に、誰かの手書きでこう書かれていた。
「かえして。
あなたがぬけたから、
わたしが、はいれたの。」
マチルダはその言葉の意味を、ずっと理解できなかった。
だがその夜、ホテルの鏡に映る自分の背後に、
鳥居の赤と同じ着物を着た“自分にそっくりな影”が立っていた。