第三話 不気味な客
桜は、黄泉路亭の店内にいる客たちに声をかけてみるが、誰も返事をしない。店内は静寂に包まれ、客たちの動きは遅い。薄暗い照明が点灯し、客たちの顔に影を作っている。
「すみません、お話を……」
客たちは、生ける屍のように、ただただ酒を飲み続ける。その虚ろな目は、桜の存在さえ認識していない。グラスを持つ手の動きは機械的で、人間らしさが感じられない。
桜は、彼らが凛によって操られているのではないかと疑念を抱いた。背筋に冷たいものが走る。
「一体、何が起きているの……」
冷や汗が背中を伝う。桜は深呼吸をして、冷静さを取り戻そうとした。彼女の手は小刻みに震え、心臓は早鐘を打っていた。
*
諦めかけた時、桜は客の一人である亡魂太郎に話しかけてみた。太郎は薄暗い店内の隅の席に座り、虚空を見つめている。彼の姿は完全に静止しており、呼吸をしているようにも見えなかった。
「あの、少しお話を……」
桜の声は、自分でも驚くほど小さく、震えていた。
太郎はゆっくりと顔を上げた。うつろな目で桜を見つめ、「ここは……楽園だ……」と呟く。その声は異常に低く、喉の奥でこもっていた。地下深くから響いてくる音のように、不自然な音色が耳に届いた。
桜は、太郎の言葉にゾッとし、全身の肌が粟立つ。
「楽園……?」
「そう……ここでは、全てを忘れられる……」
太郎の声は虚ろで、遠くから響いてくる音のように聞こえた。その目は焦点が合っておらず、桜の存在を認識せず、彼女の向こう側の虚空を見つめていた。
桜は、この店が人々の意識を奪い、現実から遠ざけているのではないかと直感した。恐怖が背筋を走る。彼女の頭の中で、警告のアラームが鳴り響く。胸の内側で心臓が激しく脈打ち、息が浅くなる。全身の筋肉が緊張で硬くなり、冷や汗が額を伝う。桜の意識は危険を察知し、逃げ出したい衝動と戦っていた。
*
恐怖に抗い、店内をさらに調査しようと歩き回る桜。そのとき、黄泉路亭の奥に扉があると気づいた。その扉は、他の壁面とは明らかに異なる雰囲気を醸し出している。古びた木材で作られた扉には、不思議な模様が彫り込まれていた。
扉の奥の部屋から、かすかに物音が聞こえてくる。まるで誰かがささやいているような、不気味な音だった。
(あの部屋……何かありそう)
桜は、部屋の中に黄泉路亭の秘密が隠されていると直感した。彼女の探究心が、恐怖心を上回り始めている。
心臓の鼓動が早くなる。桜は、恐怖と好奇心が入り混じった感情を抑えつつ、部屋に近づこうとした。彼女の足取りは慎重で、まるで猫のように静かだった。
「そこは、入ってはいけない場所よ」
突然、凛の冷たい声が背後から聞こえた。桜は驚いて振り返った。凛の姿は、影から現れたように見えた。
「でも……」
桜の声は、かすかに震えていた。
「お客様、くれぐれも好奇心は控えめに」
凛の目が鋭く光る。その瞳の奥には、人間離れした何かが宿っていた。
桜は、凛の言葉に、ますます疑念を深める。この店の真の姿、そして凛の正体。全てが、あの部屋に隠されているのではないか。彼女の頭の中で、様々な推測が駆け巡る。
桜は、隙を見て部屋に忍び込もうと決意した。凛の目を盗み、こっそりと部屋に近づく。彼女の動きは慎重で、まるでスパイのよう。
(よし、誰も見ていない……)
しかし、その瞬間、背後から何者かに声をかけられた。桜は心臓が一瞬止まったように感じた。
「お嬢さん、そこは危険だよ」
桜は素早く振り返った。そこには白髪の老人が立っていた。老人は眉をひそめ、口を固く結んでいた。その目は桜をじっと見つめ、体は前のめりになっていた。老人の額には深いしわが刻まれていた。
桜は、この老人が黄泉路亭の謎を解く鍵を握っているのではないかと直感した。しかし同時に、新たな謎が生まれた。この老人は一体何者なのか。そして、なぜ危険だと言うのか。彼女の心の中で、疑問が渦を巻いていた。
黄泉路亭の謎は、深まるばかり。店内の空気は、ますます重く、濃密になっていく。桜は、自分がこの不思議な世界に引き込まれていくのを感じていた。しかし、彼女の探究心は、まだ燃え続けていた。