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釣った魚と逃した魚

作者: 志内炎

この小説は完全なフィクションです。

 彼が浮気している。

 やけに携帯を気にしている。メールが入るのだろう。多分、相手も分かっている。以前寝言に大量出演していた女だろう。私の記憶では、ここ三、四か月はおとなしくしていたキャバ嬢だ。

 二十代前半で、ぽっちゃり型。のっぺりとした顔をしている青森出身。住まいは東京の端っこ、ここからなら車で二十分というところだろう。カシスオレンジを好んで飲み、タバコは一ミリのメンソール。去年の夏に彼がはまって百万近くつぎ込んだ時には、彼のことを、

「お財布かんかん」と呼び、馬鹿にしていた。私がそこまで知っているのは、その女の周りにスパイならぬ、私の味方がいるからだけではない。情報の八割は彼本人の態度から得た。女子には生まれつき備わっている――ときに、なければどんなにか楽だろうとも思える――本能の警告だ。その女が、店を辞めたのにも関わらず連絡してくる。私にも以前夜の仕事をしていた時期がある。おかげで情報網ももっているし、その手の女子の手口も知っている。また財布に使うつもりだ。食事や洋服などを貢がせ、しばらくすると、

「携帯代が払えない」と始め、現金を引き出す。そしてぎりぎりのところで関係をはっきりとはさせない。彼女は私の存在も知っている。でもそれは切り札だから責めない。彼女には本命の彼氏もいるだろう。携帯代をおねだりするのも、私の彼だけではない。

 夏にはまっているときは、頑張った。彼のプライドを傷つけないように、私の昔話というように、まるきり今の彼の状態を話し、気づかせていった。しかし、「お財布かんかん」については話さなかった。情報源に迷惑がかかるし、あまりにも彼が惨めでかわいそうだ。その甲斐があってかなくてか、二人は破局した。というより金のなくなった私の彼は体よく捨てられたのだ。それからは寝言に登場することもなくなった。

 ところが、突然辞める直前の年末に連絡があり、一緒に仲良くしていた女の子のお誕生日という名目で店に呼ばれ、ヤニさがって遊びに行った。それ以後は静かだったので完全に終わったかと思っていたら、年が明けて一週間後彼の携帯が彼女のメールを受信した。高らかと名前を読み上げる携帯電話を彼はあわててとめ、ドアの向こうにいた私は聞こえなかったふりをした。気付かれていないと思ったのか、彼は携帯電話をサイレントにして長々とメール交換を続けた。

 それからは携帯電話が音を出すことはなくなった。私は一応、

「まだ連絡をとってるの?」と釘を刺したが、

「お店を辞めた女に興味はないよ」とかわされた。だが、デートもしたのだろう。青森の地酒をしれっとした顔をして持って帰ってきていた。

 彼にとってみれば、よほどいい思い出だったのだろう。いや、脳がそう思っている。コストをかけて手に入らなかったものほど執着してしまう。逃した魚は大きいということだ。私が一日の多くを過ごす彼の部屋には、彼女が遊びにきたとき用のカシスリキュールも会いに行くときはブランド物のケースに収められるメンソールの煙草も彼女からのプレゼントだろうお揃いの香水もそのまま置いてある。彼女が、彼ではなく、彼の財力のみに魅力を感じていることに気がつくことができないのだ。

 もちろん私は苦悩していた。玄関を掃くときも、蒲団を干すときも、掃除機をかけるときも、彼のワイシャツにアイロンをかけるときも彼がいないときはすべて、録画した映画を見ながら、私の作った肉じゃがを食べながら、鼾の途中で息が止まるのを揺り起こしながら、起き上がる前に靴下を履かせながら彼のいるときもすべて、私の視界と脳裏からリキュールとタバコと香水が消えることはなかった。

 つまらない痴話げんかで、

「自分の家に帰れよ」と言われた。私はひどく歪んだ笑いを浮かべ、

「あの女と喧嘩でもしたの? あたらないでよ」といった。彼は、

「何の話だよ」とまだしらを切る。私は携帯電話をとりあげ、

「興味がない女とこんなにメールしてるの?」と迫り、お土産の地酒を、

「誰からもらったのよ」とわめき散らし、リキュールとタバコと香水を部屋にぶちまけ部屋を飛び出した――りはしなかった。

 ただ黙って部屋をでた。片手に持った鞄は、着替えでパンパンに膨らんでいた。かき集めてきたわけではない。いつも持ち歩いている。彼の部屋には私のものは何も置いてはいない。それは彼の別れた妻の元にいる年頃の子供たちが家に遊びに来たとき、女の影があればいやな思いをするだろうという配慮だった。私にもすでに独立した娘がいる。娘には彼氏がいることはいってあるが、彼との付き合いが一年になった今でも会わせてはいないし、会わせるつもりもない。娘にとっては、父親でもなく父親になる予定でもない母親の彼氏に会うことなんて、ただのボランティア以外なにものでもないのだ。

 意地もあった。彼女のものを置いてある部屋には私のものを置いてやるものか。突然消えても二度と彼に会わずにすむ。

 まる二日、連絡もせず自分の家で過ごした。久しぶりにずっと家にいる私に母は何も言わなかった。根本的に彼との交際をよく思っていない。娘の父親が大のお気に入りなのだ。今でも復縁すればよいと思っている。養育費も払わず、ここ十年以上連絡もよこさない名前だけの父親と。

 眠ってしまいたかったが、なかなか寝付けなかった。ふと眠りに落ちそうになると、うっすらと夢を見る。いつものようにソファに座った彼。「パンダのかんかん」というよりは、時々テレビ番組で見かける太りすぎてうまく歩けない猫といった風貌で、ちょこっと唇を突き出し、

「お帰り」といってすぐ、

「腹が減った」と続ける。私は上着を脱ぎながら、

「何食べたい?」と聞く。習慣になってしまったメンソールの煙草の箱を眺める――とひと箱減っている。全身の血が逆流する。彼女を部屋にあげたその証拠が心臓を背中のほうから激しく叩き、目が覚める。落ちるような感覚で飛び起きるように、脇の下には汗をかき、すっかり目が覚めてしまう。

 この一年間に、いったい私たちの間にはなにがあっただろう。ギュッと目を閉じて考えてみるが、思い浮かばない。特にどこかに遊びに行ったわけでもない。それはお互いの仕事の都合上仕方ないことだ。そのぶん、いろんなうどん屋にいくことがデートになっていた。二人きりで晩酌をした。一緒にお風呂に入った。何度も肌を重ね、不器用で言葉にはできないお互いの気持ちをぶつけあった。はじめから私たちは日常だった。お互いに背負うものがあり、自立している私たちには将来の約束はない。約束がほしいとも思ってはいない。独身の恋愛のゴールは、別れか結婚しかないと何かで読んだことがある。それでは私たちはただひたすら破局へと向かっているのだろうか。私はいったい何を望んでいるのだろう。

 彼女の要求は明確だ。財力以外に望んでいることはないだろう。若くしたたかで、将来の明るい彼女にとって彼はデメリットが多すぎる。容姿が驚くほどいいわけでもなく、離婚歴もあり、学歴があるわけでも社会的に素晴らしいステイタスがあるわけでもなく、十歳以上年上の枯れかけたおっさんにすぎない。さらに子供たちの養育も十分ではないことや、実は彼女が思っているほど金持ちではないことがばれれば、鯛を釣るための海老すらもさっさと引き揚げるだろう。現に一度そうされているのを気が付いていないのは彼だけだ。私のことを知っているから、彼を本当のところでは信用もしていないだろう。彼を財布扱いしていることには腹がたつが、基本的に彼女が悪いわけではない。そこまで彼を惹きつけられる小悪魔ぶりには天晴れとしかいいようがない。悪いのは彼なのだ。そして日常になってしまった私自身だ。

 日常的になったものを人はどんなときに思い出すのだろう。故障したときに電子レンジを当たり前につかっていたことに気がつく。コーヒーの豆が切れているときにどうしても飲みたくなる。詰まってから初めて鼻のありがたみを知る。そしてなぜだか腹が立つ。

 いつ眠ったかわからないまま目が覚めて、昼に近くなっていることに気がついた。彼は起きられたのだろうか。私はいつものように、

「つまらないことで癇癪を起したりしてごめんね」とメールを送った。彼は謝らない。いや、謝れない人なのだ。

「わかればよろしい」という相変わらず上からのメールになぜだか笑みがこぼれた。

 早く帰ろうと思っていたのだが、仕事でひどく遅くなった。彼の鼾が玄関のドアの外まで聞こえた。テレビをつけたままソファで寝ていた。キッチンのシンクには使った茶碗に水がはってあり、お茶漬けの素が転がっていた。ゴミ袋には分別もないままゴミが、灰皿には煙草の吸い殻があふれていた。部屋の隅にはほこりがたまり、体毛があちらこちらに落ちていた。メンソールの煙草は減っていなかった。

 私はなるべく静かに着替え、化粧を落とし、寝室の準備をした。テレビを消して靴下を脱がして彼を起こした。彼は半分眠ったままベッドまで誘導され、大きな体をごろりと転がした。蒲団をかけて家中の電気を消し、彼の隣りに寝転がった。蒲団がひどく埃っぽく、咳がでた。しばらくして彼はまた半分眠ったまま、トイレにたった。

 ドアを半開きにしたまま戻ってきた彼は、私の薄っぺらな胸に顔を埋め、

「久しぶりだね」といった。私は頷きながら咳をした。彼のグローブのような手が背中を撫でる。

「蒲団が埃っぽいね」

「お前のせいだよ」

「そうね」私は彼の頭に腕をまわした。そのまま彼が眠ったのを確かめてからゆっくり腕を抜き、半開きのドアを閉めてまた彼の隣りで、地鳴りのような鼾を聞きながら眠りに落ちた。

 彼よりも三十分早く起きエアコンをつける。鯵の開きを焼いてご飯を温め、味噌汁と納豆を用意する。お茶をいれて、ワイシャツをだし、寝ている彼の重たい足に靴下を履かせる。酸っぱいにおいのする朝の息を避けながら、ほっぺたにキスをして起こす。眠そうに彼は起き上がり、ソファのいつもの場所に座る。奥歯を気にするように含んだお茶を口のなかでひとまわしし飲み込んで、

「魚はいらない。朝から面倒くさい」という。私は、

「うん」とだけ答えて向かい側でお茶を飲む。テレビのニュースにくだらないコメントをしながら、彼は納豆ご飯をかきこんでいく。食べ終わると煙草に火をつけ、トイレに行く。私は食器をキッチンにさげ、部屋の前に停まっている車のエンジンをかけに行く。車内のゴミをまとめて戻ると、彼は髭を剃り終わりパジャマを脱ぐ。私はまあるい肩にパリッと糊のきいたシャツをかける。彼が後ろポケットに清潔なハンカチの入ったズボンを履いているあいだに背広をバンカーから取り外し背後で用意する。録画した番組の編集やゴミ捨てを頼まれながら、財布や携帯電話、煙草を手渡していく。よく磨かれた靴を履き、玄関のドアノブに手をかけた彼とお出かけのキスをする。車に乗り込んだ彼を角を曲がるまで見送る。どこまでも続いているように高く澄んだ空に雲がひとつだけ浮かんでいた。

 不思議なほど、会わなかった二日間彼が何をしていたのか、気にならなかった。彼はただ「久しぶり」といい、私はただ頷いた。さっきまで隣にいた彼は、私のいない世界へと働きに行った。たとえ今隣にいて、同じように空を見上げても、同じことを考えているとは限らない。彼女が彼の財力だけを目当てとしていたとしても、彼がそれを幸せと感じるのならば、それはそれでいいのではないか。私たちには共有する財産もなければ、協力して育てていかなくてはいけないものもない。契約もなにもないが、確かに私たちは同じ時間と空間を過ごしている。それでも別離に向かって進んでいき、その時を迎えても奪い合うものはなにもない。それはその時に限ったことではなく、たった今もそうなのではないか。なにかが終わったような気持ちが心を満たした。それなのに喪失感はない。変わるなにかがぬるま湯のように流れ込んでいた。

 私は玄関のドアを開けた。いつものように掃除機を取り出そうとして洗剤のストック類に目がとまった。元々私が使っていたシャンプーとコンディショナーが並んでいる。アイロン用のスムージング溶剤も彼が私のために買ってきてくれたものだ。

「ああ、そうか」と呟いた。ベランダへ続く扉を開けると、浮かんでいた雲の下にゴルフ練習場の緑色の網が見えた。水槽から飛び跳ねている魚ようだった。帰る場所がそこであることを当然と思っているのは片方だけではない。時々故障を起こしながら、約束のない日常は流れていく。ゆるりとした私たちの水槽は、いつでも外にでられるようにやわらかな空気を満たしていた。

 彼と彼女は、夫婦にも親子にも置き換えられる気がします。執着が変わっていくものは何なのか――距離に関係なく、やさしいものでありたいと思います。

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[一言] 志内炎センセイ、はじめまして。 さすらい物書きと申します。 僕も小説を書いていますが、その際に心掛け、肝に銘じている(つもり)なのは 「リアリティのある描写」です。 本作を拝読し、僕は …
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