人が死んだあと、地獄に行く理由(善と悪について)
あくまで個人的な見解、意見にもどついた話です
人が死んだあとどうなるのか。
一説によるとその人が善人なら天国へ、悪人なら地獄へ行くことになる。
ではなにをもって『善』と『悪』を見分けるのか。
ここで一つ考えてほしい。
人殺しは『善人』と『悪人』、どちらに該当するだろうか。
なにをふざけたことを! 『悪人』に決まってるだろう! そう思う人がほとんどだろう。
ではもし、自分に拳銃を向ける相手に抵抗する時、そのつもりはないけどうっかり殺めた場合は?
もし殺した相手が強盗、放火、強姦、殺人などなんにても手を染めた極悪人なら?
人殺しは果たして『善人』なのか、それとも『悪人』なのだろうか。
仏学にはこんな言葉があるらしい。
この世にあるすべては偽物だと。
我々が今見ているもの、聞いているもの、味わっているもの、嗅いでいること、感じているもの、そのすべてが本物ではなくまがいものだと。
そんなわけない、我々は確かに存在し、この感触も確かにあるものだ。
それはその通り。ただちょっと考え方を変えてほしい。
例えばここに一枚の紙があるとしよう。
その紙に1000という数字を書いて、そしてそれは1000円の偽札だという。
なるほど、確かにこれほどまでに分かりやすい偽札はないだろう。
もう一枚紙を取り出す。
その紙に野口英世という人物のイラストを描いて、同じように1000円の偽札だという。
それを見た人達は、やはりなんの違和感もなく受け入れてしまう。
ではさらいにもう一枚紙を取り出して、今度はそこに2という数字を書いて、同じように1000円札だという。
当たり前だけど、それを見た人はみんな口を揃えてこういうはずだー「これは1000円の偽札ではない」
なぜ?
我々は本物を知っている。そして本物にはありえない、含まれていない部分が存在しているから。
そう。偽物になるには、本物と何かしらの共通点がなくてはならない。
であれば、『偽物』のことを、こう言い換えることもできるじゃないだろうかー
不完全な真実。
すべてのものには表と裏がある。それだけじゃない、側面も、側面の隣にいる側面も、側面の正反対に位置するそのまた側面も存在する。
つまりなにか言いたいのかというと、一目で『真実』を見ることは不可能だ。
コインでさえ、表に一回、裏に一回、側面に二、三回を見てやっと全貌を把握することができる。
もっと構造が複雑なものならそのさらに倍、いや何十、何百倍もかかるだろう。
ここで最初の質問に戻ります。
人殺しは『善人』と『悪人』、どちらに該当するだろうか。
答えは、わからない。
どんな人を殺したのか。なぜ殺したのか。どんな状態で殺したのか。なにを思って殺したのか。
まずは『真実』を判明しないと、『善人』か『悪人』かを判断すべきではない。