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4 軍

 日本駐留アメリカ軍の軍用ヘリコプターが人工衛星の落下現場に近づいている。誰の目にも見えなかったし、衝撃は伝わらなかったし、巻き上がる炎も煙も観測されなかったが、ズウンと腹を押し上げるように聞こえた地響きが起こった地点に近づいている。もう随分慣れてはきたが吐き気は消えない。胸を悪くするような、辺り一面に吐瀉物をぶちまけたくなるようなえずきの感覚は消えない。けれども軍用ヘリコプターはその場所に近づくのを止めはしない。軍人の誇りがそうさせない。

「学者を派遣しなかったのは間違いなく日本政府の過ちだな。まったく政府は盆暗だよ。政権が変わってもまた元に戻っても分裂しても基本体制はまったく変わっていない。よく国として機能しているな。そりゃあ、落下したのはおそらくアメリカのスパイ衛星だろうから地表で何かが見つかってもアメリカ軍はそれを渡しはしないだろう。それがために衛星回収ミッションが組まれたんだろうからね。でも、ぼくたちの同行が許可されたからには核物質が積まれていたとは考えられない。そしてもしそうだとすれば予期せぬ事態に対応するために日本側から学識者を提供すると提案すればアメリカ側だって言下にそれを厭だと否定しはしないだろう。いまのところアメリカという国は中国でも北朝鮮でもないからね。もしかしたらいずれそうなってしまうのかもしれないが、まだいまのところアメリカという国は正気を保っている。理性的に判断できる要素を残している。もっともアメリカ合衆国という国は本質的には農業国だから言葉の正しい意味において何処まで理性的になれるかどうかはわからないけれども、少なくとも科学に対する信頼感はある。まあ、すべてのアメリカ人というわけにはいかないかもしれないがね……」

 自分の胸の裡に湧き上がってくる感情が、不安なのか、惧れなのか、それともそれら人間的な感情とはまったく無縁の何ものかに対する抵抗感なのか、ぼくにはまったく見当がつかない。それでぼくは饒舌になる。それでぼくは饒舌になってその感情から逃れようとする。それでぼくは饒舌になってぼくを襲ってくる得体の知れない感情から逃れ出ようと躍起になる。それでぼくの感情がヒートアップする。それでぼくの感情がカラカラになる。それでぼくの感情が徐々に干上がってカラカラになる。それを山下理緒菜にやんわりと咎められる。

「上原先輩、飴でも舐めますか? それともその前に深呼吸でもされますか? 多少は落ち着きますよ」

 彼女の意見はもっともだ。

「ああ、ありがとう」

 そういって、ぼくは彼女から差し出された咽飴を口に入れる。咽飴のレモンの香りが口の中にゆっくりと広がっていく。レモンの香りが口の中にゆっくりと広がっていって、それに伴いぼくの感情のカラカラ感がゆっくりゆっくりと退いていく。そのゆっくり感を味わいながらぼくは言う。山下理緒菜の方に顔を向けてぼくは言う。

「山下さんはいつでも冷静だね」

「どういたしまして。本当は全然違うんですけど、昔からよく鉄仮面って呼ばれましたよ」

「でも本当は怖いわけね」

「この状況で怖くない人がいたらお目にかかりたいものです」

「ひとりいるな。村上編集長だ!」

「ああ、確かに……」

 ほどなく軍用ヘリコプターが人工衛星落下現場の上空に到着してホバリングをはじめる。アメリカ軍小隊長のジェンキンズ中尉が近づいてくる。近づいてきてローターの轟音で会話不可能な位置から会話可能な領域に入って来て、ぼくたちに言う。

「見てわかるようにヘリが着陸できる空間はない。我々は衛星回収ミッションを開始するが、あなた方はそれに参加することはできない。だが、できるだけ良い位置から眺められるように配慮しましょう」

「ありがとう、助かります」

 ぼくはジェンキンズ中尉にそう応えて握手を求める。ジェンキンズ中尉から返された握手でぼくの手が潰される。それを見て山下理緒菜が声を立てて笑う。

「情けないですね」

「そういうなよ。彼は軍人で小隊長だぞ! それにこんなミッションの指図を任されるからには相当な切れ者に違いない」

「ということは、上原先輩は頭の良さでもジェンキンズ中尉に敵わないというわけですね」

 その言葉にぼくは肩を竦め、それからジェンキンズ中尉に首肯いて特等席まで案内して貰う。その後を山下理緒菜が付いてくる。やがて特等席に至るとジェンキンズ中尉の指示で腰にベルトを巻き、ベルト後部の突起をヘリコプター内部の安全鎖に結びつける。それから恐る恐る身を乗り出す。

「ひゃあ、怖い!」

「間違って落ちたりしないで下さいよ。そのときの責任は取れませんから……」

 困ったような顔つきでジェンキンズ中尉がぼくたち二人に釘を指す。他の軍人たちはにこりともせずに粛々とミッションに臨んでいる。ぼくたち二人が案内されたのは軍用ヘリコプターの開閉可能な腹部の脇で、いまは開かれているその腹部から十数メートル先の山の木々の間にアメリカ軍兵士たちが降りてゆく。勇猛果敢な十名のアメリカ軍兵士たちが降りてゆく。軍用ヘリコプターの立てる轟音の中、軍用ヘリコプターが巻き起こすビュウビュウ唸る強風の中、勇猛果敢なアメリカ軍の兵士たちがザイルを伝って降りてゆく。太いザイルを伝って降りていって、やがて先発分隊が落下地点に到達する。誰の目にも見えず、衝撃も伝わらず、巻き上がる炎も煙も観測されない人工衛星の落下地点に到達する。思い出すのは、あのズウンと腹が押し上げられるように聞こえた地響きの音だ。忘れられないのは、この胸を悪くするえずきだ、吐き気だ。けれども先発分隊はその歩みを止めず、振り返りもしない。軍人の誇りがそうさせない。兵士の任務がそうさせない。

「ここから先はモニターで見る方が良いでしょう。さあ、こちらへ……」

 ジェンキンズ中尉に促されてぼくと山下理緒菜は安全鎖を解除して軍用ヘリコプター操縦席後ろの大型液晶モニターのところに案内される。モニターには兵士目線の揺れる映像が移っている。

「MSR1(宮ケ瀬湖近傍落下衛星回収第一分隊)に告ぐ。どうだ、何か発見できそうか? どうぞ」

 無線を通じてジェンキンズ中尉が先発分隊に問いかける。

「こちらMSR1。現在のところ何も発見できません。地面に衛星落下の痕跡はありません。森の木々にも焦げ跡らしきものは確認できません。どうぞ」

「MSR1、了解した。任務を続行してくれ。どうぞ」

「こちらMSR1。了解しました。以上」

 だが、その直後に惨劇が起こる。誰も予想しなかった惨劇が起こる。誰にも確認できなかった惨劇が起こる。だがそれは本当に惨劇だったのだろうか? 結果的に人が死んだから惨劇として処理されただけではなかったのか? ぼくたちの論理の解釈として惨劇という言葉しか当て嵌る概念が思いつかなかったから、それが惨劇として処理されただけではなかったのか? 本当はそういうことではなかったのか?


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