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 ぼくの左と後ろでぼくの言葉に怪訝な表情を浮かべている颯波健吾と山下理緒菜にぼくは言う。

「本当のところ怪物が何を感じているのか、もちろんぼくにはわかりませんし、また怪物に人間のような感情があるとも思えません。ですが、見知らぬ世界にただひとりだけで置かれた怪物の状況を思い描いたらどう見えるかと言うことです。ぼくたち人間の立場ではなく怪物の側の立場になって、その視点でものを捉えてみたらどうだろうかということです。怪物はこの世にたったひとりで、しかも己の知らない論理の世界で、さらに己自身も見知らぬ論理に支配されて行動させられています。もちろん怪物は誰に操られているわけではありませんが、怪物にとってはもしかしたらそういうふうに感じられているのかもしれないということです。例えば人間で言えば統合失調症患者のように…… 統合失調症の患者では人格がひとつに統合されていません。ひとりの人間の中で起こる種々の感情や葛藤や悪魔の心や天使の心が統合されずにバラバラになって存在します。バラバラになって存在するそのいくつかの要素が自分以外の存在として感知されます。非自己の他者の存在として感じられます。だから本来は自分のものであるはずの人格の一部を他人の声として感じてしまいます。だから本来は自分のものであるはずの感情の一部を他人のものとして感じてしまいます。本来自分の一部であったはずのそれらを自分が知らないのもとして感じまうのです。いったいそれはどのような心の世界なのでしょうか? それは世界がまったく逆転してしまったような心の世界なのではないでしょうか? すなわち自分の中に聞こえてくる他人の声は本来自分として統合されたはずの自分の一部ですから当然自分のことを良く知っています。けれども統合失調症の患者はそんなことはまったく知りませんから自分の個人情報が自分以外の他人に筒抜けになっていると感じてしまいます。あるいは常に誰かに自分が監視されているように感じてしまいます。あるいは自分がどんどん外に流出しているように感じてしまいます。あるいは自分がどこまでも自分の中から自分の外へと流出して自分がいなくなってしまうのではないかと感じてしまいます。自分がすべて自分の中から消えていってしまうのではないかと感じてしまいます。あるいはその流出した自分の抜け殻に他人が侵入してくるように感じてしまいます。あるいは自分が流出した自分の抜け殻がきっと他人で満たされてしまうだろうと感じてしまいます。本質的にはそれと同じような心の変化が怪物にも起こっているのかもしれないと、ぼくは直感したわけです。そしてその状態を僅かでも改善して心の平静を取り戻すために怪物はぼくたちの仲間を取り込んだのかもしれないと考えているのです。自分の心の安寧のために、ぼくたちが気づかずにそれに従っている地球の論理を呼吸しているのかもしれません。けれども――怪物の本来の論理とは異なるとはいえ――地球の論理の方はともかく、これまで怪物に取り込まれたぼくたち人間の仲間は最終的には皆恐怖を感じていました。怪物に直面して、驚き、当惑し、そして最終的には恐怖という情を感じていました。怪物の中に飲み込まれる瞬間には皆恐怖という情を感じていました。あるいはそれ以前に心の中に抱いていた憎しみという感情を伴って…… ですから怪物がこの地でこれまでに得たこの地の論理に従う感情のサンプルは――程度の差こそあれ――恐怖か憎しみしかないのです。恐怖かまたは憎しみだけが、怪物が参照できるこの地での感情のスタンダードモデルなのです。自分が出遭った人間が示すであろう感情のスタンダードモデルがそれなんです。これまでに怪物が何度この地に出現しているのかはわかりませんが、自分が現れた出でた先に人間がいて、怪物が見えない舌でその人間を探ったときに、その人間の中に恐怖か憎しみの感情を探り当てれば、怪物はとりあえず安心します。何故なら、それはこの地で自分が慣れ親しんだスタンダードな感情だからです。その本質を正しく理解しているとは思えませんが、少なくともそれらは自分に近しい感情です。怪物の論理と地球周辺領域の論理が和解できるとも思えませから、その感情は怪物にとって永遠に理解不能なものなのかもしれませんが、少なくとも自分が知っている、自分がこれまでに体験して得たことのある感情です。ところがぼくと山下くんはこれまで三回怪物に遭遇し――そのうちの二回は接近遭遇し――ましたが、不思議と怪物に対する恐怖の感情は抱きませんでした。またそれとは別にぼくたち二人には互いに通う別の感情がありました。おそらくそれが怪物にとって未知のものだったのでしょう。これまで自分が遭遇した誰一人からも感じられなかった未知の種類の感情だったのだと思います。だから怪物はそれを畏れました。実際にはそれが恐れ(be afraid)だったのか、怖れ(scared of)だったのか、惧れ(dread)れだったのか、畏れ(hold somebody in awe)だったのか、あるいはそれらとは似て非なる感情だったのかはわかりません。けれども怪物がぼくたち二人と接近遭遇した二回とも、怪物は直ちにぼくたち二人を自分の中に取り込んでその感情を咀嚼嚥下して十分に確認または理解しようとはしなかったわけですから、人間で言えば「畏れ」がそのとき怪物が感じた感情に一番近いものだったのかもしれないと考えてみたのです」

 ぼくがそこまで話すと集合住宅の内階段も残り僅か三階分になっている。様々な意味で緊張しているのか不思議と疲れは感じなかったが、さすがにコンクリートが打ちっ放しの狭い内階段を十三階分もぐるぐると降りてきたので目がまわって頭がクラクラとしはじめている。それで先ほどの怪物との接近遭遇で掠り傷を負った山下理緒菜のことが急に気になりはじめて後ろを振り返ると、予想通りに少し窶れたような表情を浮かべている。だが気丈な山下理緒菜はぼくに目で「わたしは大丈夫です」と伝えてくる。なので、ぼくは超常現象研究家の颯波健吾に問いかけている。

「いまのぼくの話が、あなた方がこれから行おうとしていることの役に立てたかどうかはわかりませんが、階段はもうじき終点です。そこで提案しますが、颯波さんはぼくたち二人と一緒に非常階段から外に出られますか? それともこの辺りでお別れしますか?」

 それに答えて颯波健吾がぼくたちに言う。

「どの道わたしの正体は近いうちにアメリカ軍に探り当てられてしまうとは思いますが、そうですね、今回は別行動としましょうか?」

 そうぼくに答えると颯波健吾は三階の非常用内階段の扉を開けてその外に去って行く。その前に、「上原さん、ありがとう。非常に興味深いお話が拝聴できて感謝します」と言って、ぼくと山下理緒菜に丁寧に頭を下げてその紳士振りをアピールする。だがぼくは、ぼくと山下理緒菜が再び颯波健吾に会うことはないだろうと考えている。それともそうではないのだろうか……

 集合住宅の非常用内階段をやっとのことで一階まで降りて重い鉄の扉を開けて外に出ると午後の日差しの拡がりを見て安心したのか不意にぼくの足がガクガクする。不意にぼくの足がガクガクしてきて、それまでに溜まったすべて疲労が押し寄せてくる。だが、ぼくたち二人に休みはない。自転車置き場をぐるっとまわって本日怪物と接近遭遇する前に山下理緒菜が佇んでいた場所を抜けて集合住宅のエントランスに再度向かおうとしたところで声がかかる。

「お待ちしておりました。ミスター・上原、ミス・山下」

 そこにいたのは中肉中背で背も特に高くないが見るからにアメリカ人に見えるアメリカ人らしい男性で、日本語ではなく訛りのない米語でぼくたち二人に話しかける。にこやかな笑みを浮かべてぼくたち二人の方に近づいてきて手を差し伸べて握手を求める。

「何か緊急事態でも発生したのですか?」

 その握手に応えながら男に向かってぼくが言う。

「いえ、緊急事態は発生しておりませんが、ライス中将が会議を開きたいと申しております。それでお誘いに上がりました」

「緊急に会議が開かれるのに緊急事態ではないと?」

 ぼくが男にそんな疑念を打つけると、今度は山下理緒菜の手を握手でぎゅうぎゅうと締め付けながら男が答える。

「はい。少なくともわたしは緊急事態だとは知らされてはおりません」


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